5.もう一つの顔

 エステルは鏡を前に、父親譲りの銀の髪を丁寧に纏め上げていく。最初の頃は適当に髪を結ぶことすら出来なかったが、ずいぶんと手慣れたものだ。

 毎日の様に侍女に手入れされ、絹糸のような艶やかな光を宿す髪を押し込むように、その上からカツラを被る。短い黒髪のカツラだ。


(髪色を変えるなら、変幻魔法の魔道具があれば簡単なのですが……)


 変装をするのに便利な魔法や魔道具があることを知ってはいるが、残念ながら使えない。

 けして手に入らない訳ではない。単純に使えないのだ。

 理由は《女神の寵愛》だ。かの女神の愛はあらゆる魔法から守ってくれる。

 毒や呪いといったあらゆる危険から身を守ってくれるのは非常にありがたいが……他人からの治癒魔法や変幻魔法までその対象になっているのはどういうことだろうか……。

 当然、変幻の魔道具を使用しても、髪色や目など変えることができない。

 まったく、過保護も過ぎる。女神が寵愛しずきて他の力に頼ることすら認めてくれないとは……。


 髪型のセットがやっと終わった。改めて鏡の自分を見る。

 服装はドレスではなく、着古したシャツにジャケットとズボン。靴はどんな悪路でも歩きやすいブーツ。動き易さを重視して金属防具はない。

 さらにフード付きの外套を羽織り、腰のベルトには魔法鞄マジックバックのポーチと剣を下げていた。


 どこをどう見ても公爵令嬢ではない。一介の冒険者という出で立ち。

 さらに女性の中では背が高く、短い黒髪と服装も相まって中性的に見えていた。

 当然、わざとだ。わざと男装して、性別を誤魔化している。

 しかし、変装はこれで終わりではない。さらに念を入れるように、顔に仮面を被った。顔の半分、目元だけを隠すものだ。騎士の鎧兜にあるバイザーのような形をした仮面であり、完全に瞳は見えない。


「よし」


 今度はあまりにも怪しい出で立ちになったが、彼女は満足そうに微笑み、拠点としていた賃貸の部屋を出た。

 ……この部屋は彼女がずっと借りている場所だ。一ヶ月の間に二、三回訪れるかどうかの部屋。

 昔は宿屋の部屋を拠点に使っていたが、お金に余裕ができてからは王都の外れにある比較的安い賃貸の部屋を借り始めた。

 これらのお金は公爵家からではない、エステル自らが働いて稼いだお金だ。修道院に納めた寄付金だってそうだ。


 エステルはその足で王都を歩く。朝日に照らされる中、人々が一日の支度を始めていた。

 昨日の夕方に修道院から王都に着いた。彼女を護送した騎士たちはまだ帰路の途中で、王都には帰って来ていないだろう。

 きっと夢にも思わないはずだ、護送したはずの令嬢が王都に舞い戻っているとは。


(いいえ、私はもうエステルではありません)


 ある建物の前に着くと、彼女はその扉押し開いた。入ったその場所は人で溢れていた。皆、武器や防具を手にし、只者ではない者が多い。

 しかし統一が取れている訳もなく、無頼漢の溜まり場のようにさえ見えるここは――冒険者ギルドの一つ【魔女の翼ウィッチ・ウィング】であった。


「おい、あれ……【迅剣】じゃないか?」


「S級冒険者の……初めて見た」


 彼女がここに入ってきた瞬間から、ざわざわとしていた周囲の声が少し静かになる。

 依頼掲示板を見ていた者たちでさえ、入ってきた彼女のほうを注目していた。

 中には仮面を見て訝しむ冒険者もいるが……実際怪しいのは否定できない。

 しかしその怪しさは、この肩書きの前では許される。そう、なにせ彼女は――。


「エストーーー!!」


「うわっ!」


 周囲の反応には気にせずにカウンターに向かおうとした彼女に向かって、青年が後ろから飛びついて来た。

 あぶない、もう少しで公衆の面前で転ぶところだった……。

 なんとか踏ん張って倒れなかった彼女は、自分の肩に手を回したままの彼を見上げた。


「もう……何度言ったら分かるんですか、ランディ。いきなり飛び付かないで欲しいんだけど……」


「はは、悪い悪い。久々にエストを見かけたら嬉しくってつい」


 ランディと呼ばれた彼は、悪びれることなく満面の笑みを浮かべながら彼女の背を叩く。揺らめく炎のようなオレンジの髪に、金の瞳は嬉しそうに仮面をした彼女を写していた。

 背丈は彼女よりも高く、体格もよく、鍛え抜かれた筋肉が日々の努力を表している。彼もまた動きやすい冒険者の格好をしており、帯剣していた。

 左耳に付けているイヤーカフがよく似合う、太陽のような明るさを持った好青年だった。


「ランディ兄ちゃん、相変わらずだなぁ」


「ごめん、エスト! 大丈夫?」


 ランディを追いかけるように少年と少女がやってくる。

 ランディを呆れるように見ているのはローブを来た魔術師のような少年。

 対して謝りながら心配そうにこちらを見るのは、弓と矢筒を背負った少女だ。

 二人とも栗色の髪と新緑の瞳を持ち、よく似た顔立ちをしている双子だった。


「ええ、僕は大丈夫ですよ。いつものことですし」


 困ったように笑いつつエステルは……いやエストはそう返す。一人称を変え、いつもより低い声で話した。


「改めて久しぶり、エスト」


「久しぶりですね、ジャスミン。レイモンも元気そうでなによりです」


「その堅苦しさも相変わらずだな、エスト兄ちゃん」


 ……これでもいつもより砕けた口調をしているはずだが。それでも少年レイモンにとっては堅苦しさがあるらしい。

 もう六年くらいこちらの顔もやっているが、身に付いた元の顔がなかなか剥がれなくて困っている。


 そう、エステルのもう一つの顔とは……エストだ。それもこの国には一人しかいないS級冒険者。【迅剣】のエストとは彼女のことだった。

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