第5話 空気を読む子(ナツキ)



 「これって……サナのだったかも。使ってごめんなさい……」


 朝の縫い物の時間、ナツキは静かに、でも怯えるように僕のそばへやってきた。


 小さな手で持っていた布をそっと差し出し、顔を上げないまま言葉を続ける。


 「……怒らないで……」


 その声には、謝罪というよりも、“許しを乞う祈り”のような響きがあった。


 僕はナツキの手から布を受け取り、優しく言った。


 「大丈夫。使ってもいい布だよ。それに、ちゃんと気づいてくれてえらいな」


 そう伝えると、彼女はほっとしたように、ほんの少しだけ笑った。


 


 ■ ■ ■


 ナツキは、隣国の貴族家から引き取られた子だった。


 正確には、“家庭内で育てられていた”とは言いがたく、

 彼女は屋敷で“無言の従者”のように扱われていたと聞いた。


 「音を立てるな」

 「顔色を見て動け」

 「目立つな。失礼だ」


 そうした“しつけ”の名のもとに、彼女の心は常に緊張に晒されていたのだろう。


 アルカナの家に来た当初、彼女は誰とも話さず、床に落ちた小枝一つでさえ、勝手に拾ってもいいのかと僕に確認していた。


 「落ちてるものにも持ち主がいるかも」と。


 彼女の目にはいつも不安があった。

 **“存在しても、許されているのか”**を確認するような目だ。


 


 ■ ■ ■


 その日、ナツキが作業台で画用紙を2枚取った。


 すぐに「あっ……」と手を引き、顔を強張らせた。


 周囲は誰も気にしていない。

 でも、彼女はその場から動けなくなっていた。


 僕がそっと近づいて声をかける。


 「ナツキ、それ多かった?」


 「……うん。でも、わざとじゃないの。……だから、怒らないで……お願い……」


 僕はしゃがんで、目を合わせた。


 「怒らないよ。間違えても、大丈夫」


 「……ほんと?」


 「うん。ナツキがちゃんと気づいて、自分で戻そうとした。それだけで十分」


 その瞬間、ナツキの目に涙があふれた。


 


 ■ ■ ■


 その日の帰り、彼女が僕にそっと渡してくれたメモ用紙には、震える文字でこう書かれていた。


 『先生が、怒らなかった。ありがとう』


 僕はその紙を、記録帳に挟んで、静かに目を閉じた。


 


 ■ ■ ■


 ナツキの“空気を読む力”は、武器ではない。


 それはきっと、“生き残るための防衛”だった。


 誰かに怒られるよりも、失望されることが何より怖かった彼女。


 だから僕は言葉を選び、静かに伝えていく。


 「ここでは、間違えてもいい」

 「ここでは、黙っていなくてもいい」

 「ここでは、ナツキがナツキのままでいていい」


 


——モノローグ(アレン)——

 子どもが“空気を読む”のは、大人の顔を伺っている証かもしれない。


 僕は、ナツキのような子に、いつも「安心していいんだ」と伝えたい。


 大丈夫。間違えても、誰も君を否定しない。


 そんな居場所を、この場所に——孤児院アルカナに——僕は作っていきたい。

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