第15話 和久山《わくざん》
祥子は一人、どんどんと歩いていく。気負いすぎも多少あるが、野袴は動きやすく、髪は短く、身が軽い。
しばらく歩いて振り返ると、久瀬の屋敷が遠くなっていた。少し心細さが湧いてくるが、それを振り払いさらに進む。山の入口にたどり着くまでに、それほどの時間はかからなかった。
「ここまでは順調ね」
独り呟き、祥子は山の奥へと続く道を見上げる。鬱蒼とした木々に囲まれた道が綺麗に整備されているのは、喬任と次朗のおかげである。
呼吸を整え口を引き結び、山に足を踏み入れる。その時、ぱしっと空気が変わったような気がした。
「?」
思わず立ち止まり振り返る。さっき自分が立っていた場所がすぐそこにある。ふと、一旦戻ろうかという気持ちになったが、なぜだか戻っては駄目なような気がして祥子は再び前を向いて歩き出した。
喬任たちが言っていた通り、和久山は岩肌があちこちに見えるごつごつした山だった。草木が豊富に生えていたのは最初の頃だけ。あとは、歩きにくい岩場がたびたび出てきて祥子を阻む。緩やかな所は一段一段踏みしめながら、急な所は這いつくばりながら、慣れないながらも祥子は着実に進んでいく。
途中、道が分かれているところは杭がちゃんと打ってあり、行く先を示してくれている。まるで喬任に見守られているようで、祥子は安心して進むことができた。
しかし、順調に登り続けることしばし、なんの目印もない分かれ道に来てしまった。
「……道を間違えたかしら?」
そんなはずはない。途中に出会った杭は全てきちんと確認した。出かける前に地図で見た道とも合っていた。
自分の記憶では、このまま北へ上るのだったと思う。しかし、西へと下る道の方が平たんできれいだ。
(最終的には湧き水まで行くのだし……)
空を見上げると、太陽がすでに真上近くまで来ている。彩は半日もあれば大丈夫だと言っていたのだから、そろそろ到着しても良い頃合いである。
「よし」
祥子は西へ下る道を選んだ。
下り道は思った以上に足に負担がかかる。足が勝手に前に出るので、踏ん張って体を支えなければならない。今まで登り続けてきた疲労も相まって、祥子の足は急に重たさを増していく。加えて道がだんだん細くなってきた。
左手は切り立った崖で、その谷底から沢のせせらぎが聞こえてくる。きっと湧き水がある川だ。
(大丈夫よ。ここを降りたらきっと湧き水がある)
そう自分に言い聞かせ、疲れた足を叱咤して先に進む。が、さらに道が細くなったところで祥子はさすがに足を止めた。
普通に歩くことができる幅ではない。壁を伝って横歩きで進まなければならない道幅である。こんな道があるのなら、事前に聞かされているはずだ。
(ここまで来て戻る?)
時間は刻一刻と過ぎていく。戻っていたらきっと日暮れまでに帰ることができない。
祥子は意を決して、壁にべたりと張りついて横向きに歩き始める。少なくとも道である以上、誰かが通っているはずなのだ。
下は見ない。怖くて見ることができない。恐怖と疲れで足ががくがくと震える。途端に心細くなり、じわっと目頭が熱くなった。祥子は、彩が「女が泣き出すのを面白がるだけの悪習」だと断じていたことを思い出す。
例に漏れず、自分も泣いてしまったことが悔しくてたまらない。なんで自分はこんなことをしているのだろうと恨めしい気持ちになって、いよいよ視界が涙でぼやけた。
顔を上げ、負けるものかと涙を拭う。と、その時、突風に巻き上げられ祥子は体勢を崩して足を踏み外してしまった。
「あ──」
壁から手が離れ、体が宙へ放り出される。絶望の声は、虚しく空へと吸い込まれた。祥子は、ぎゅっと目を閉じた。
一方、日が傾き始めた頃、久瀬の屋敷では喬任が落ち着きなく門口で行ったり来たりを繰り返していた。
「遅い、そろそろ戻ってきてもいいはずだ」
湧き水へ行く道は何本かある。その中でも、可能な限り平たんで進みやすいものを選んで整備した。各所に杭を打ち、迷わないようにもした。正直、あそこまで山の道を整備したことはない。
喬任と同じく祥子の帰りを待つ豪族たちの間でも、「遅くないか?」という声が出始める。それがさらに喬任を苛立たせた。
すると定光が喬任に歩み寄り、諌め口調で言った。
「安岐の国守ともあろう者が、そのように取り乱しては他の者に示しがつかん」
「……親父殿」
喬任は思わずにらみ返す。
「なぜ、祥子殿に清水汲みなどやらせたのだ。これで祥子殿に何かあったら、八代とことを構えることにもなりかねん。落ちぶれていようとも宮家の姫君だぞ。それぐらい親父殿なら分かるだろう!? 俺の事情だって分かっていたはずだ!」
「落ち着かんか。そのために山道を整備し万全を期したのではないのか」
定光がぴしゃりと言って喬任を黙らす。そして、ちらちらと他の豪族たちの様子を見ながら独り言のように囁く。
「都から妻を連れて帰ってきたことに
「不満を抑えるためにやったと?」
「もっと屈辱的な習わしを用意しても良かったのだぞ。これでも手を抜いたつもりだ」
喬任が怒りをはらんだ目で定光をにらむ。もっと昔は、女の尊厳を踏みにじるような習わしがあったとも聞く。想像しただけで毛が逆立つ思いだ。
定光が、そんな喬任の怒りをさらりとかわし、淡々と言葉を続ける。
「安岐は先の混乱からようやく立ち直り始めたばかりだ。浮足立った振る舞いは国守として厳に謹んでもらわねばならん。結婚しかり。都の女にうつつを抜かす腰抜けなど安岐にはいらぬ」
「……見つけたのだ。それも突然、いきなり」
「若いのう。羨ましい限りだわい」
最後は「かかか」と笑い、しかしすぐ定光はきゅっと刀傷の残る顔を引き締める。そして、隅で控える配下の者に大声で呼びかけた。
「さすがに遅い。和久山で迷った嫁御は日暮れ前に助け出すのも習いじゃ。そろそろ探しに行くぞ! 嫁御の泣き顔を見たい奴はついてこい! さあ、喬任さまもご一緒に」
ここに祥子がいれば、顔を真っ赤にして悔しがるところだろう。しかし、今はそうも言ってはいられない。
喬任と定光を先頭に、捜索隊が久瀬家を出発した。
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