第8話 足の取り合い
「
顔も似ているし、喬任のことを「兄者」と呼んでいることから察するに喬任の弟らしい。
「六ノ宮
次朗にも同じ挨拶を繰り返せば、次朗が慌てた様子で頭を下げた。
「俺──いや、私は喬任の弟で、
「時任さま?」
「いやいや、昔からみんなに次朗と呼ばれているので、姫さまも次朗で。あと、『さま』はいりませんよ」
「はあ……」
喬任といい、さま呼びをことごとく拒否される。祥子は頭の中で、自分と相手の立場を整理した。そもそも国守の喬任を『殿』で呼んでいるのだから、安岐の人に対し、これ以上の敬称はない。となると、それと同等の人は……
「では、
「はい、それで」
次朗が満足そうに頷けば、喬任が続きを引き受ける。
「次朗は国守代だ。俺が安岐を空ける時は、次朗が俺に代わって安岐を治めてくれている。屋敷全般の雑務を取り仕切っているのも次朗だ」
「おかげで
ちゃかした口調で弟に苦言を呈され、喬任がばつの悪い顔をした。そのやり取りを見ながら祥子は微笑ましい気持ちになる。兄弟仲は良さそうである。
次に喬任が、彩をあらためて紹介する。
「で、これが次朗の妻で彩だ。屋敷の中で分からないことや困ったことがあったら、まずは彩に相談してもらえばいい」
「今日から身の回りの世話をさせていただきます。ただの彩とお呼びください。姫さまの世話なんて、初めてなので自信はありませんが……」
「え? 次朗殿の妻にそんな侍女みたいな真似させられません」
祥子が慌てて言うと、次朗が「遠慮なさらず!」と笑い飛ばした。
「我ら夫婦は兄者の補佐役のようなものです。補佐も世話もそう変わらないですから気にしなくてかまいません」
「や、全然違う……」
「そんなことより、彩! 湯桶をこっちに」
「はいな!」
祥子の主張は、「そんなこと」として処理され、次朗と彩の声にかき消される。喬任とは別の意味で、押しの強そうな夫婦である。
「姫さまはお疲れだ。早く足湯に浸かってもらおう」
「ささ、姫さま。履物を脱いでこちらにお座りください」
「何を……?」
「足湯です。ほら、遠慮なさらず!」
彩に促され、祥子は
「疲れが取れますよ。ざぷんっといってください」
「ざ、ざぷんと?」
「はい、ざぷんっと!」
ざぷんは無理だが、とにもかくにも祥子はおそるおそる足を湯につける。その途端、ほわっとした温もりに包まれ、自然と口から笑みがこぼれた。
「気持ちがいい……」
すると、今度は喬任が袖をまくって祥子の前にひざまずいた。
「祥子殿、足を出せ。俺が汚れを落とそう」
「いや、それは、喬任殿にそんなことをさせるなんて──」
「遠慮するな。ほら早く」
「そうではなく!」
いよいよ祥子は慌てる。「遠慮するな」は久瀬家の口癖なのか?
そもそも、殿方に足を触らせたことがない祥子にとっては、足を夫に洗わせる行為は遠慮以前の問題である。しかし祥子の前で背中を丸めてじっと待つ喬任の圧が半端ない。
(これ、断れない──)
祥子の全身から汗が吹き出る。ちらりと次朗夫妻に目をやると、やっぱり「遠慮するな」と笑顔で返された。
意を決し、祥子は喬任の大きな手の平に片方の足を置いた。ごつっとした喬任の手は、思いのほか心地よく、そして安心する。
喬任は、祥子の足を湯桶に浸けると、優しく丁寧に足にこびりついた土埃を落としていく。
「祥子殿、今日はゆっくり休んでくれ。本当に疲れただろう」
「はい……」
胸がどきどきと高鳴り、うまく返事ができない。足の裏や甲をなぞられる度に恥ずかしさで息が止まりそうになる。
喬任は、もう片方の足も綺麗に洗い、最後は布巾で綺麗に拭いてくれた。
「あ、ありがとう」
必死で平静を装い、喬任にお礼を言う。喬任は「なんの」と軽やかに笑い、祥子の隣に座った。
「それでは俺も足の汚れを落とすとしよう」
喬任の前に新しい湯桶が用意される。喬任がざぷんっと足を浸けると、近くにいた
祥子の胸がちりっと焼ける。
「た、喬任殿、今度は私が洗います!」
思わず立って声を上げれば、喬任が「え?」と驚いた顔をした。次朗も彩も、屈んでいる雑仕女も、隅に控える家人たちさえ目を丸くして祥子を見ている。
「あ……」
みんなの視線に祥子はたじろぐ。同時に、喬任が「侍女に着替えを頼んだだけで喧嘩になる」とぼやいていたことを思い出した。
あれと全く同じこと。無意識とは言え、まさか安岐に着くなりしでかしてしまうなんて──。祥子はさあっと青くなった。
「いや、あの、これは……そう! 喬任殿が私の足を洗ってくれたので、そのお返しです! だって、私たちは対等なのでしょう? 私だけ洗われっぱなしというわけにはいかないわ!」
それっぽい理屈をひねり出し、祥子は必死で言い繕う。すると、喬任が「ああ、それか」と顔を和ませた。
「確かに、そう言ったのは俺だ。では、祥子殿に頼もうかな」
「はい」
祥子は、ほっと胸を撫で下ろしつつ立ち上がった。なんとか自然に誤魔化せた。
喬任の前で屈んでいた雑仕女が、少し物言いたげな顔で祥子に場を譲る。彼女の仕事を奪ってしまったのだから、もっともな反応である。
そこに気まずさを感じつつ、しかしそれでも自分がやりたいという気持ちは揺るがないので、祥子はあえて素知らぬ顔でやり過ごした。
「では喬任殿、失礼します」
「ああ、」
喬任の前にひざまずき、彼の足を持ち上げる。手に収まりきらない大きな足はずっしりと重い。
(これは心してかからないと──!)
口をへの字に曲げて、祥子は喬任の足を洗い始める。最初は優しく撫でていたが、もぞもぞ逃げるので力を入れてごしごしと洗う。
ちゃんと洗えているだろうかと気になって、上目遣いで喬任の様子を伺えば、神妙な顔でじっとこちらを見つめる彼の目とかち合った。
慌てて目を逸らし、さらにごしごしと洗う。すると次朗が声を上げて笑った。
「ははは! 百人の敵を前にしても動じない兄者がそわそわと
「うるさいっ! ここはもういいから仕事に戻れ!」
喬任が体をねじって次朗を追い払う。その拍子に桶の湯がばしゃりと跳ねて祥子にかかった。
「ああ祥子殿、すまない」
「大丈夫。でも、喬任殿は雛鳥にしては大きすぎますね」
「祥子殿まで言うか」
「だって……」
どちらからともなく笑いがもれ、つられて周囲のみんなも笑う。
こうして、祥子の安岐入りは笑いから始まった。
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