第8話 足の取り合い


ふみには書いてあったが、信じられなくて──」


 顔も似ているし、喬任のことを「兄者」と呼んでいることから察するに喬任の弟らしい。


「六ノ宮基人もとひとが娘、祥子にございます」


 次朗にも同じ挨拶を繰り返せば、次朗が慌てた様子で頭を下げた。


「俺──いや、私は喬任の弟で、次朗じろうといいます。あ、名は時任ときとうと言うのですが……」

「時任さま?」

「いやいや、昔からみんなに次朗と呼ばれているので、姫さまも次朗で。あと、『さま』はいりませんよ」

「はあ……」


 喬任といい、さま呼びをことごとく拒否される。祥子は頭の中で、自分と相手の立場を整理した。そもそも国守の喬任を『殿』で呼んでいるのだから、安岐の人に対し、これ以上の敬称はない。となると、それと同等の人は……


「では、次朗じろう殿で」

「はい、それで」


 次朗が満足そうに頷けば、喬任が続きを引き受ける。


「次朗は国守代だ。俺が安岐を空ける時は、次朗が俺に代わって安岐を治めてくれている。屋敷全般の雑務を取り仕切っているのも次朗だ」

「おかげで三月みつきも帰って来ずに困った。普通なら俺が国を乗っ取るところだぞ」


 ちゃかした口調で弟に苦言を呈され、喬任がばつの悪い顔をした。そのやり取りを見ながら祥子は微笑ましい気持ちになる。兄弟仲は良さそうである。

 次に喬任が、彩をあらためて紹介する。


「で、これが次朗の妻で彩だ。屋敷の中で分からないことや困ったことがあったら、まずは彩に相談してもらえばいい」

「今日から身の回りの世話をさせていただきます。ただの彩とお呼びください。姫さまの世話なんて、初めてなので自信はありませんが……」

「え? 次朗殿の妻にそんな侍女みたいな真似させられません」


 祥子が慌てて言うと、次朗が「遠慮なさらず!」と笑い飛ばした。


「我ら夫婦は兄者の補佐役のようなものです。補佐も世話もそう変わらないですから気にしなくてかまいません」

「や、全然違う……」

「そんなことより、彩! 湯桶をこっちに」

「はいな!」


 祥子の主張は、「そんなこと」として処理され、次朗と彩の声にかき消される。喬任とは別の意味で、押しの強そうな夫婦である。


「姫さまはお疲れだ。早く足湯に浸かってもらおう」

「ささ、姫さま。履物を脱いでこちらにお座りください」

「何を……?」

「足湯です。ほら、遠慮なさらず!」


 彩に促され、祥子は草履ぞうりを脱いで階段の一段目に座る。そこに湯桶が置かれ、祥子は足を入れるようすすめられた。


「疲れが取れますよ。ざぷんっといってください」

「ざ、ざぷんと?」

「はい、ざぷんっと!」


 ざぷんは無理だが、とにもかくにも祥子はおそるおそる足を湯につける。その途端、ほわっとした温もりに包まれ、自然と口から笑みがこぼれた。

「気持ちがいい……」

 すると、今度は喬任が袖をまくって祥子の前にひざまずいた。


「祥子殿、足を出せ。俺が汚れを落とそう」

「いや、それは、喬任殿にそんなことをさせるなんて──」

「遠慮するな。ほら早く」

「そうではなく!」


 いよいよ祥子は慌てる。「遠慮するな」は久瀬家の口癖なのか?

 そもそも、殿方に足を触らせたことがない祥子にとっては、足を夫に洗わせる行為は遠慮以前の問題である。しかし祥子の前で背中を丸めてじっと待つ喬任の圧が半端ない。

(これ、断れない──)

 祥子の全身から汗が吹き出る。ちらりと次朗夫妻に目をやると、やっぱり「遠慮するな」と笑顔で返された。

 意を決し、祥子は喬任の大きな手の平に片方の足を置いた。ごつっとした喬任の手は、思いのほか心地よく、そして安心する。

 喬任は、祥子の足を湯桶に浸けると、優しく丁寧に足にこびりついた土埃を落としていく。


「祥子殿、今日はゆっくり休んでくれ。本当に疲れただろう」

「はい……」


 胸がどきどきと高鳴り、うまく返事ができない。足の裏や甲をなぞられる度に恥ずかしさで息が止まりそうになる。

 喬任は、もう片方の足も綺麗に洗い、最後は布巾で綺麗に拭いてくれた。


「あ、ありがとう」


 必死で平静を装い、喬任にお礼を言う。喬任は「なんの」と軽やかに笑い、祥子の隣に座った。


「それでは俺も足の汚れを落とすとしよう」


 喬任の前に新しい湯桶が用意される。喬任がざぷんっと足を浸けると、近くにいた雑仕女ぞうしめの一人が喬任の前に進み出て、当然のように屈んだ。喬任の足を洗うためだ。

 祥子の胸がちりっと焼ける。


「た、喬任殿、今度は私が洗います!」


 思わず立って声を上げれば、喬任が「え?」と驚いた顔をした。次朗も彩も、屈んでいる雑仕女も、隅に控える家人たちさえ目を丸くして祥子を見ている。


「あ……」


 みんなの視線に祥子はたじろぐ。同時に、喬任が「侍女に着替えを頼んだだけで喧嘩になる」とぼやいていたことを思い出した。

 あれと全く同じこと。無意識とは言え、まさか安岐に着くなりしでかしてしまうなんて──。祥子はさあっと青くなった。

「いや、あの、これは……そう! 喬任殿が私の足を洗ってくれたので、そのお返しです! だって、私たちは対等なのでしょう? 私だけ洗われっぱなしというわけにはいかないわ!」

 それっぽい理屈をひねり出し、祥子は必死で言い繕う。すると、喬任が「ああ、それか」と顔を和ませた。


「確かに、そう言ったのは俺だ。では、祥子殿に頼もうかな」

「はい」


 祥子は、ほっと胸を撫で下ろしつつ立ち上がった。なんとか自然に誤魔化せた。

 喬任の前で屈んでいた雑仕女が、少し物言いたげな顔で祥子に場を譲る。彼女の仕事を奪ってしまったのだから、もっともな反応である。

 そこに気まずさを感じつつ、しかしそれでも自分がやりたいという気持ちは揺るがないので、祥子はあえて素知らぬ顔でやり過ごした。


「では喬任殿、失礼します」

「ああ、」


 喬任の前にひざまずき、彼の足を持ち上げる。手に収まりきらない大きな足はずっしりと重い。

(これは心してかからないと──!)

 口をへの字に曲げて、祥子は喬任の足を洗い始める。最初は優しく撫でていたが、もぞもぞ逃げるので力を入れてごしごしと洗う。

 ちゃんと洗えているだろうかと気になって、上目遣いで喬任の様子を伺えば、神妙な顔でじっとこちらを見つめる彼の目とかち合った。

 慌てて目を逸らし、さらにごしごしと洗う。すると次朗が声を上げて笑った。


「ははは! 百人の敵を前にしても動じない兄者がそわそわと雛鳥ひなどりのようじゃ」

「うるさいっ! ここはもういいから仕事に戻れ!」


 喬任が体をねじって次朗を追い払う。その拍子に桶の湯がばしゃりと跳ねて祥子にかかった。


「ああ祥子殿、すまない」

「大丈夫。でも、喬任殿は雛鳥にしては大きすぎますね」

「祥子殿まで言うか」

「だって……」


 どちらからともなく笑いがもれ、つられて周囲のみんなも笑う。

 こうして、祥子の安岐入りは笑いから始まった。

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