第34話 エミリーゼ殿下の恋心と護衛
◆恋の予感は裏通りで◆
その日のエミリーゼ=フリューゲン王女殿下は、少しだけ「悪戯心」に駆られていた。
――カール=キリトが王都に戻ってきた。
その知らせを耳にした瞬間、エミリーゼの胸は小さく、ときめいた。ほんの数日前、庭園のお茶会でクラリスから聞いた“ここだけの話”。それが、今になって妙に頭から離れなかったのだ。
黒衣の剣聖。
ノルド王家の血を引く男。
そして……誰よりも、今のわらわの心を揺らした名前。
「会ってみたいのう、ほんとうに」
そんなささやかな想いが、ついに王女を行動へと突き動かした。
「……変装じゃ。町娘の格好を用意してくれ」
「は、はいっ!? エミリーゼ様、それはあまりにも……!」
侍女のティアナは仰天したものの、王女の“気まぐれ”にはもう慣れていた。
こうして、数日後の午後――
エミリーゼは茶色のフード付きマントをかぶり、王宮の裏口からこっそりと城を出た。付き添いは、いつも世話になっている侍女ティアナと、信頼の置ける近衛兵の護衛ひとり。目的はただひとつ。
「カール=キリトがよく訪れるという“南通りの宿”を、この目で確かめたいのじゃ」
王都南部。石畳の通りを馬車が行き交い、果物やパンの香りが漂うにぎやかなエリア。
人混みに紛れると、王女とは思えないほど自然に見えた。
「うふふ、わらわもなかなか町娘らしく見えるであろう?」
「は、はい……とてもお似合いです、殿下」
ティアナは苦笑しつつも、エミリーゼの心が躍っていることを知っていた。
だが、その幸せな時間は、突然に崩れた。
「きゃっ! わ、わたしの財布が――!!」
ティアナが叫んだ瞬間、ひとりの男が駆け抜けていった。
「待てっ! 泥棒!!」
護衛が即座に追いかける。が、あまりに人が多すぎた。
「ティアナ、そなたは大丈夫かっ?」
「はい、でも……あっ、殿下! 護衛様がっ!」
気づけば、彼らは人波にのまれ、いつのまにか町の裏手の路地へと入り込んでいた。
気づいたときには――護衛の姿はどこにもなかった。
「……迷った、のう」
「エミリーゼ様……っ、こんな場所、わたしたちだけじゃ危険です!」
路地裏は薄暗く、建物の隙間には不審な気配さえ感じられる。王女の顔から笑みが消えた。
そのときだった。
「おやおや、迷子のお嬢さまたちかい? いい場所、知ってるんだ。こっちに来なよ」
道の奥から、男たちがぬるりと現れた。よれた服に、剣のような物を腰にさげ、目だけがギラギラと光っている。
「誰じゃ、そなたたちは……下がれ!」
エミリーゼが睨むと、男たちはくつくつと笑った。
「ふふふ、なかなか上等な娘だなぁ。これはきっと……高く売れるぞ?」
「や、やめてくださいっ! 誰か――っ!!」
ティアナが叫び、エミリーゼが身を寄せる。
その瞬間だった。
風が、吹いた。
――ザンッ。
鈍い音とともに、男のひとりが倒れた。
何が起こったのか理解できないまま、残りの盗賊たちが辺りを見回す。
「な、なに……!?」
「誰だっ!?」
その声に答えるように、影から姿を現したのは――
漆黒の外套をまとい、紫の瞳をまっすぐにこちらへ向ける、ひとりの男だった。
「……危ないところだったな。気をつけろよ」
黒衣の剣聖、カール=キリト。
エミリーゼの胸が、一気に高鳴った。
彼は、まるで敵など眼中にないような足取りで歩き、盗賊たちを次々と制圧していく。剣を抜くことすらせず、ただ手のひらと足の一撃で、男たちが次々と倒れていく。
「こ、こんな奴……聞いてねえっ! 逃げろ!!」
数人が叫びながら退散していく。
静寂が戻った路地裏。
カールはふたりを見やり、小さく眉をひそめた。
「怪我はないか?」
「……な、ない。そなたは……」
エミリーゼは言葉を飲み込んだ。
目の前の男が、王族の血を引くかどうかなんて、もうどうでもよかった。ただ――彼が、自分を助けてくれた。
「お嬢さま!」
遠くから護衛たちが急いで走ってくる姿が見えた。
「町の裏道は慣れないと危険だ。付き添いがいるなら、離れちゃいけない。じゃあな」
二人に護衛が近づいてくるのを確認してから、カールはすっと背を向けた。
そして、風のように――行ってしまった。
「……カール、様……」
エミリーゼは、ぽつりと呟いた。
その頬は、ほんのりと赤く染まり、目には輝きが宿っていた。
「か、かっこよすぎるじゃろ……!」
胸の鼓動が、まだおさまらない。
二人の元に護衛が到着し、ティアナもほっと一安心した。しかし、エミリーゼの頭の中は、もはやそれどころではなかった。
彼が来てくれた。
助けてくれた。
しかも、あのさわやかな一言……!
(これが……運命ってやつなのかもしれぬ!)
王女の中で、恋の鐘が、密かに鳴り響いていた――。
路地の奥、吹き抜ける風は、まだその余韻を運んでいる。
エミリーゼの目は、まるで絵本のヒロインのように――ハートでいっぱいだった。
◆護れなかった午後、銀の剣に救われて◆
――俺は、しくじった。
王国近衛騎士団に所属して五年、どんな任務も冷静にこなしてきたつもりだった。
けれど、あの午後。あの裏通りで、エミリーゼ様を見失った。
あの日の任務は、いつもと違った。殿下が町娘に変装して、こっそり外出されるという無謀な願いに、渋々ながら付き従った形だった。
「絶対に目を離すな。彼女は王女だぞ」と何度も自分に言い聞かせた。
けれど――あまりにも人が多すぎたのだ。王都南通りの午後は、まるで市が開かれたかのようににぎやかだった。
「財布を盗まれました!」
殿下の侍女ティアナが叫んだとき、俺は反射的にその泥棒を追った。
……判断ミスだった。
ほんの数十秒の追跡。それだけのはずだった。
なのに、戻ったときには――殿下の姿は、もうどこにもなかった。
「……殿下? ティアナ、殿下!? 返事を……!」
焦燥が一気に胸を支配した。
もし、彼女に何かあれば、自分の命だけでは足りない。
何より、王女を慕う者たちの信頼、誇り、すべてを裏切ることになる。
俺は気が狂いそうになりながら、通りという通りを探し回った。店の影、露店の裏、建物の入り口。ありとあらゆる場所を、騎士の威厳も忘れて駆けずり回った。
そのときだ。
「裏路地の方で、叫び声が聞こえたって……」
市民の噂話が、耳に入った。
俺は即座にそちらに向かった。
そして、そこで見た光景は――
すべてを言葉にできないほど、異様なものだった。
薄暗い路地の中央に、倒れ伏す数人の男たち。
その先に、腰を抜かしながらも無事で立っている、殿下とティアナの姿。
――そして、その場に立ち尽くし、風のように背を向ける、ひとりの男。
銀髪が、光を受けてきらりと輝いていた。
漆黒の外套に身を包み、その背はまるで、神話の勇者のようにすら思えた。
「……カール=キリト」
その名は、近衛騎士である俺の耳にも何度も届いていた。
黒衣の剣聖。反逆の冤罪を覆し、王都を騒がせたあの“生きる伝説”。
そして、王命すら固辞し、ただ市井に生きるという不思議な男。
彼が、殿下を――王女エミリーゼ様を、助けてくれたのだ。
「あ……ありがとう、ございました!」
俺が駆け寄ったときには、彼の姿はもうなかった。
彼は何も言わず、振り返ることもせず、ただ静かに、風のようにその場を去っていた。
残されたのは、戦いの跡と、助けられた命、そして……
「か、かっこよすぎるじゃろ……!」
呟く王女の頬の赤みと、きらめく瞳。
まさか……殿下が、あの男に?
恋、というには早すぎるかもしれない。
けれど、俺は気づいてしまったのだ。
あの一瞬で、彼女の心が――確実に、動いたことを。
◆
その日の夜、俺は城に戻ってからすぐ、上官に報告を上げた。
……が、さらに驚愕の事実が伝えられた。
「おまえたちの動き、どうやら反国王派に筒抜けだったらしい」
「……なに……?」
上官の言葉に、背筋が凍った。
「つまり、おとりだった可能性がある。王女の動向を探るため、あえて財布盗難を起こし、護衛のおまえを引き離すための仕組まれた罠。裏通りに出た瞬間、待ち伏せていたのは……」
「……!」
あの盗賊たちが、ただの浮浪者だったとは限らない。
もし、あの場にカールがいなければ――
もし、彼が通りがかっていなければ――
……殿下は、今ここにいなかったかもしれない。
「……命の恩人だ」
気づけば、俺はそう呟いていた。
王女を守るはずのこの手が、その責務を果たせなかったとき、代わりに剣を振るったのは、あの男だった。
王の血を引くという噂。戦場でも名を上げたという実力。
だが、そんな肩書き以上に――彼の背中は、誰よりも強く、信じられるものだった。
◆
数日後。
王都の警備記録から、反国王派の潜伏情報が洗い出されていた。
そして、裏通りで捕らえられた男たちのひとりが、取り調べでこう語ったという。
「予定では“ただの町娘”だった……なのに、あいつが現れた。黒衣の剣士が……っ」
敵すら、恐怖する存在。
それが、黒衣の剣聖――カール=キリト。
彼が現れた意味。それを考えるたび、鳥肌が立った。
あれは偶然などではない。あの男には、王女を守る何かが――“縁”があるのかもしれない。
「エミリーゼ様……この出会い、決して軽く見てはいけませんぞ」
思わず、そう呟いていた。
殿下の心は、もうすでに――彼の方を向いているのだから。
護衛としての自分にできるのは、これから、殿下のその“想い”が危うきに晒されぬよう、影となり盾となることだけだ。
そしてもう二度と――あのように、見失わぬように。
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