第43話

──カチッ、カチッ……


全身が脈打つように痛い。


──カチッ、カチッ、カチッ、カチッ


まただ。

また、秒針の音が聞こえる。


俺はうっすらと目を開けた。


……何……?


一面が燃えている。

しかし、盛っている炎を前に、俺は焦る様子なくぼーっと立ち尽くしていた。


『────。』


熱い。

突然、何かに呼ばれたかのようにふらりと歩き出す。


その足は、迷いなく真っ直ぐに火の渦へと向かっていった。


熱い。痛い。


──カチッ、カチッ、カチッ、カチッ


視界に、ぶわっと火の粉がかかる。

景色が揺れ、視線は足元へ落ちていく。


…………?


足元に転がっているのは、誰かの手だった。

己の目が、なぞる様にその力尽きた手を滑っていく。







────────カチッ









『……ひの……くん?』










俺はバッと体を起こした。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハッ……な、なんだ……今の……」


激しい目覚めと共に荒い息を吐く。

炎のように赤みがかったオレンジの光が、ブラインド式カーテンの間から差し込んでいた。


「あっ!壱条いちじょう君が起きた!」


威勢のいい声とバタバタッと掛けていく音が聞こえて、俺はようやく周りへ首を巡らせた。

耳に入ってきた声が、まるで初めて立ち上がった赤ちゃんにかける反応だったような気がしつつ、未だはっきりとしない脳が何が起こっているのかをぼんやりと考え始めて、段々とここがどこなのかを認識していく。


白いベッド、白いカーテン、なんか色んな器具……


「え、こ、ここ、病院?!」


一体俺はどうなった?

と、開きっぱなしの扉を見ながら固まっていると、ざわざわとした声と共に足音が近づいてきた。


「やあ!本当だ!ようやくのお目覚めかな。」


入ってきた人は白衣……じゃなくて黒色の燕尾服……で、2つ結びの…………お、男……?


へんてこりんな格好をしているこの人は一体……と思いながらぽかんと眺め続けていたら、隣に眼帯の少女が並び立った。

前に俺の能力の反動を治してくれた、看護部隊のすずだ。


「壱条君、調子はどう?あなた、かれこれ3日も眠ってたのよ。」


俺は、鈴の言った言葉を脳内でゆっくり復唱した。

3日、も……?


「……………………ええ!?!?」


遅れてやって来た驚愕に、勢いに押された目の前の2人が、おぉ……と身を引いた。


3日眠ってたって俺が???


「まあ、それだけ元気ならば、問題無いだろう。……ちょっと失礼。」


目を白黒させていれば、そう言って燕尾服の人が俺に近づいてくる。

ベッドサイドから、手を俺の肩に置き……それからギラつかせたワインレッドの目まで近づいて来て……


「え……え!!?!?ちょぉっ!??!!?」


いくらなんでも近すぎる距離に、ブワッと汗が吹き出した。

しかも、肩がガシッと掴まれている為、俺はこの場から動けない。

なにこれ?!?何この状況!?!?

俺は青ざめながら、次に起きる衝撃を察知し、無意識にきつく目を結んだ。


────ガブッッッ!


「いっ!??!?」


端的に説明をすれば、首を噛まれた。


「…………ッッッ?!!?!ぎゃぁぁぁああああああああ!???!!!!??!」


あまりに唐突に起こった事象に、訳も分からず叫んだ。

ピリッとした痛みと共に、吸引……いや吸血されている感覚がある。

半過呼吸気味の中、ギョロギョロと動くだけの俺の目が、助けを求め鈴を捉えた。


……おい。


助けを求めた先の彼女は、あぁ…可哀想に。というニュアンスを含んだ菩薩のような微笑みを浮かべながら、こちらの様子を静観していた。


おい。助けろよ。


まるで助ける気の無い様子に心中でツッコミつつ、この状況を打破する策はもう無いのだと、俺は泣く泣く諦めて脱力するしかない。

為す術なく心を虚無にしながら、ヤギのような目で天井のシミを見つめた。


ああ、なんかあのシミ、顔みたいに見えてきた……なんて言うんだっけこの現象……シミラクダ……みたいな……


そして、俺が眠っていた3日間よりも圧倒的に長い時間感覚で、ようやく燕尾服の男が頭を上げた。

しかし、勝手に俺の首を噛んでおいて顔を上げた彼は、嬉しそうな表情どころか、とんでもなく顰め面だった。


「………………ナンッッッセンス!!全く一体何を食べたらこんなゲロマズな血液が出来上がるのかな!?!」


「………………………………あ゛あ゛?!」


思わず出た口の悪さは、許して欲しい。


頼んでもないのに俺の血液に酷評を付けてきたその男は、追い討ちをかけるように何処からか水筒を取り出して、ガブガブと飲み始めた。そんなに俺の血は不味いか。

隣で見ていた鈴の、吹き出した声が聞こえてくる。


なんで俺、突然吸血された上に笑われなきゃならないんだよ。


寝起きだと言うのに若干こめかみに青筋を浮かべていたら、ひとしきり笑った鈴がごめんごめんと言いながら、ようやくこの失礼な人物の説明を寄越してきた。


「この人は、看護部隊長の椿 寅之助つばき とらのすけさん。彼は、この組織の医者であり学者でもあり……「いいや、僕は吸血鬼でやらせて貰ってる。」」


鈴が一度ゆっくりと椿さんの方を振り返り、ニッコリと笑って俺に視線を戻した。


「彼は吸血鬼です。」


……はあ。と間抜けな返事が出た。

キュッと水筒の蓋を閉めた椿さんが、「Frauフラウ.小戸森こともり、この子のカルテを持って来てくれないか。」と鈴に小さく指示を出す。

まるでそう言われる事が分かっていたかのように、承知しました。と素直に微笑んだ鈴は、嫌な表情ひとつせずサッとこの場から離れていった。

彼女の遠ざかる足音を聞きつつ、椿さんがゴホンと咳払いをして、先程まで彼女のいたベッドサイドへ立つと、華麗にお辞儀をした。


「改めて。初めましてMisterミスター。彼女から話があったように、僕の名前は椿 寅之助つばき とらのすけ。僕の事は、"組織の吸血鬼ヴァンパイア"、或いは"看護部隊のとらちゃん"とでも呼んでくれたまえ。何を隠そう僕の力は、血液を飲む事で相手の異常を発見出来るもの。doncドンク!それ故に、初手から失礼をしてしまってすまなかったね。」


俺は呆気に取られた。

いや、情報量、多。

とりあえず"初手の失礼"の意味が恐らく、じゃなくて、俺のを指しているんだろうと言うのは、表情と声色から察した。

百歩譲って、首を噛んだことは許してたんだけどな。


「……それで俺、なんでここに?」


ジトっとした顔で、そもそも今どういう状況なのかを聞いてみる。

その反応に応えるように、椿さんはそうだろうそうだろう。と二度深く頷いた。


「ここは、ルークファクト本部にあるオッド専用の病院さ。Herrへァ.壱条、君は先日の雨森村の任務で、非常にナンセンスな事にオッドピットを食事にしていたそうだね。君はオッドではあるが、それでも種を体内に直接入れてしまったものだから、そのせいで君の脳は少しばかりバグを起こしてしまったようだ。して君は脳の修復の為、任務が終わったと同時にこの3日の間、まるで呪いをかけられたプリンセスのようにずっと眠り続けていたんだよ。」


……そうだ、俺……雨森村の全貌を暴きに行ってたんだっけ。

説明を聞いていれば、目の前のこの男性のインパクトで若干消えかかっていた雨森村での任務の事が、徐々に鮮明に思い出されてきて、ハッとする。


「凛とさえとひの君は!?!」


俺の記憶上最後に見た光景では、氷緑ひのりは顔中血だらけだったし、さえもぐったりして気を失っていたし、凛もあの後どうなったのか……


途端にぐるぐる回り出した脳は、俺を焦らせた。


「まぁまぁまぁ……落ち着きたまえよ。」


と、椿さんは前のめりになった俺の肩をなだめようとしてくれたんだろうけど、さっきの吸血の事もあって近づいてきた手に俺は反射的に仰け反った。


「「…………」」


俺たちの間に、一瞬微妙な空気が流れる。


「……フッ落ち着いたようだ。それでは、君の話に答えよう。」


思わず椿さんの手を避けてしまったのを、あ、やべぇ。と焦った俺だったが、その過剰な反応にも目を伏せ軽く笑っただけで済ませてくれた椿さんは、まるで何事も無かったかのように近くに置いてあった丸椅子へソッと腰掛けた。


「結論から言えば、君の懸念している3名は皆無事だ。ただし……」


「た、ただし……?」


Frauフラウ.さえ…あの愛らしいキティに関しては、君より余程重症だ。なにせ彼女は、オッドでも無いのにオッドピットを食べ続けてしまったのだからね。脳の修復には、かなりの時を有するだろう。」


かなりの時間………

膝にかかる毛布へ置かれた手に、ぐっと力がこもった。


「まあ安心したまえ。僕の手にかかれば彼女がこのまま死ぬ事は万一にも有り得ない。」


自信満々に。と言う訳でも無く、さも当然というようにサラッとそう言ってのけた椿さんに、俺は少し目を丸くする。

この人、「吸血鬼〜」とか言ってること大分変だけど、相当凄い人なのかもしれない。


「さえが……起きた時の記憶は、どうなりますか?」


目が覚めた時、さえはどこまでの記憶をどう保持出来るのだろうか。

俺のように、さえにも思い出すべき記憶があるなら、雨森村での記憶は、全て消えてしまうのだろうか。

そうでなくとも、さえとしての記憶を、ちゃんと思い出せるのだろうか。

そしてそれは、正常に行われてくれるのだろうか。


俺の疑問に対して、椿さんは何故かなるほど……と小さく呟いた。


「君はどうやら、自分の身より他人の身を優先してしまう人間のようだね。」


顎に指を添え、独り言のように言われた言葉に、俺は「へ?」と間抜けな反応をこぼした。


「あぁいや、脱線したね。……キティの記憶保持の件だが、その回答に関しては彼女が起きてみない事には、僕から言える事は何もない。何故ならば、いくら彼女の血液を飲んだとて、僕の力で脳内細胞の異常を味わう事は出来ても、彼女の見る夢の中身まで味見する事は不可能だからね。」


要するに、記憶の観点でさえの事は今どうする事も出来ない、というニュアンスで言われ、俺は「そ……う、ですか」と弱々しく項垂れた。

俯いた俺に構わず、椿さんは「そんなことよりも、」と話を続けた。


「君、自分の血液検査の結果には、まるで興味が無いのかい?」


「え……?」


全く意に介していなかった指摘に呆気に取られていれば、計ったかのように丁度良いタイミングで、先程椿さんに指示されて場を離れていた鈴が戻ってきた。


「持ってきましたよ〜寅さん。」


そう言いながら、彼女は「はいどうぞ。」と紙のように薄いタブレットを椿さんへ手渡す。


「やあ、ありがとう。」


お礼を言いながら椿さんは、タブレットの画面をサッサッと指でスクロールしていった。

ハイテクだな……とか、若干首を傾げたままその姿を眺めていたら、椿さんは画面を見つめながら口を開く。


「やはり……君は何故、能力値が低い事になっているんだい?」


俺はまたえ?と聞き返す。そんなの俺に聞かれても……。


「それは、最初の入団の時に……と言うか、実際俺能力尽きるの早いし……」


なんでと聞かれれば、なんでなのかの根拠はよく分からない為、ごにょごにょと呟けば、同じように首を傾げていた鈴が話し出した。


「能力値が低い事は確かだと思いますよ?私、初日に彼の"反動"を治癒しましたし。」


「本当かい?そうだとすると……」


ブツブツと恐らく何か日本語では無い言語を言いながら、椿さんは頭を悩ませ始めた。

って事は俺、血液検査の結果的には、能力値高かったって事か……?

それとももしかして、俺が驚いて叫んだから血圧上がってなんか上手く計測されなかったとか?


ちょっとだけ椿さんの血液検査の信憑性を疑いつつ、俺は彼のスクロールする指をじっと目つめた。

椿さんが未だ画面をみたまま、ふん……と空気を抜くように鼻を鳴らす。


「ナンセンス……実にナンセンスだ。」


そんな事を呟かれ、俺は段々と心配になってきた。


「も、もしかして、さっきの検査の仕方が良くなかったとか……」


「え?しっかり採れてたと思うわよ?」


「やあ、君の血液ならもう十二分に味わった。」


「ええ……」


二人の確信ぶりにちょっと引きながら、俺は唾を飲む。


「ところで、それって何か不味いことですか?重めの病気とか?」


呑気な鈴の言葉に、ピシリと体が固まった。


お、重めの病気ぃぃい!?!?

どどどどうすれば……


怪我とかじゃなくて病気と言う、思ってもみなかった方向転換に、ダラダラと汗が溢れ出た。

俺、もしかして、死ぬ……?


しかし、そんな己の先が短い可能性への心配を打ち消すが如く、椿さんは「ノンノン!」と大きなリアクションで首を振る。


「病気なんてとんでもない……が、それこそ、雨森村でのオッドピットによる名残りのような……」


タブレットをみていた視線をこちらへ向けた椿さんは、そのペラペラの電子機器を脇に挟んで腕を組んだ。


「今、どこか気分の悪い箇所はないかな?」


「と、特には……」


「ふむ、それでは過去にトラウマ等は?」


「それも、特には……」


俺の応えに、ほう……と片眉を上げる椿さんは、何か煮え切らないような様子だ。

ソワソワしていたら、ふいに椿さんが丸椅子から立ち上がり、ピシリと俺の眉間にむかって指を突き立ててきた。

何事かと固まる俺に、椿さんはハキハキとした声で忠告してくる。


「だとしたら、Monsieurムッシュ.壱条。君には伝えておかなければならない事がある。」


「な、何を……?」


勢いに気圧されながら困惑している俺の前で、「Vaヴァ beneベーネ……」と呟いて目を伏せた椿さんは、そっと俺の眉間から手を引き、まるで呪文の詠唱のように目を閉じたままで話し出す。


「この世では如何なる生物であれど、生きる限り善にも悪にもなり得る要素を持っている。」


突然の哲学的な話に、俺の自由になった眉間に今度はシワが寄る。


「そしてそれは当然、オッドにも同じ事が言えよう。」


「は、はあ……」


「……つまり君は近いうち、あらゆる事象に巻き込まれてしまう可能性がある。それがどんなものでも、いつ起こってしまっても、その時君の選択肢は少しでも多い方が良い。故に、これから君は力においても精神においても、強くならなくてはいけない。」


強く……?


──……したらな!おまいさんら、次のなぞなぞも楽しみにしてるぜ。──


雨森村で最後に出会った、レインと言う得体の知れない少年の姿が過ぎった。

彼は別れ際、また会うことがあるようなセリフを残していた。

それに、俺は雨森村での任務で、何度氷緑に助けて貰ったかしれない。

もしまたレインのような強いオッドと遭遇したその時、氷緑がいなかったら、今の俺なんかは呆気なく殺されてしまうだろう。

最後無惨に死んでしまった鈴木先生と村長の姿が思い出され、背筋がゾッと冷える。


……確かに、もっと強くならなきゃいけない。


そんな風に、俺が椿さんの言った言葉の意味を咀嚼していれば、その様子を刹那黙って眺めていた椿さんが、少し訝しげな視線をこちらに向けてきた。


「……Mr.壱条。君はそもそも、入隊試験を受けていないだろう?」


突然の指摘に、ギクッと俺の肩が大きく揺れた。

前にも氷緑に驚かれたけど、それってやっぱり相当まずい事らしい。


「やはり……実にナンセンス!全くあのオタンコナス団長にも困ったものだね。」


オタンコナス団長。

身構えていた中へ急に格式の低めな言葉が飛び出して来て、一瞬目が点になる。

一方で、片手を頭に当て呆れたように緩く首を振った椿さんは、そっと抱えていたタブレットを鈴に手渡した。

最早阿吽の呼吸で受け取った鈴は、困っているような椿さんの隣で依然としてニコニコと、この場を楽しんでいるかのように微笑んでいる。


「改めて伝えるけれどね、近いうちこのルークファクト…いやオッド達の平穏は大いに乱される。それに、"オッドルーク"である君は、これからその脅威の最前線に晒される事になるだろう。……そしていつか必ず、重要な選択を迫られる事になる。」


だから、覚えておいて欲しい。

と続けながら椿さんは、天井に向け1本ずつ指を立てた。


1つアインス!力は使い方次第で善にも悪にもなりうること。

2つツヴァイ!僕達のこの力に、限界は無い。可能性は常に自分で作るものだということ。

そして3つドラァイ!君は定期的に、僕の診察を受けに来ること。」


一体俺の血液を通して何を診たのか、真剣に話をする椿さんに、割と真剣な顔で数字毎に増える指を眺めながらようやく三つ目を理解した時、俺はベッドに座っていながら気持ちと共に軽く飛び上がった。


「なっ?!それって定期的に吸血されなきゃいけないって事ですか!?」


相当嫌だったんだな。って自分が心のどっかで突っ込む声が聞こえてきた。

だって嫌だ。毎回首噛まれるとか血吸われてリアクション悪いとか……。

しかし、椿さんは予想外と言ったようにキョトンとした顔で首を傾げた。


「ナンセンス!僕は余程の事態じゃない限り、直接吸血などしないよ、行儀悪い!」


は?と行儀悪く口をあんぐりと開ける俺の前で、椿さんは嫌そうにパタパタと手を振った。

じゃあなんで俺のは直で吸ったんだよ。

俺がツッコもうと息を吸ったが、そこでタイミング良く椿さんの胸ポケットからどこの民族音楽なのか、不思議な音楽が鳴り出した。

「おや?誰かな?」と言いながら取り出した椿さんの携帯電話に、俺は衝撃を受ける。


ガ、ガラケーだ……っ!!!


今どき珍しい2つ折りの蓋を開く姿は、最早一周まわって最新式とも言える。

思わず凝視するが、椿さんは何の違和感もなく、それを耳に当てた。


CiaoチャオSignoreセニョーレ,笹凪ささなぎ。京都では元気にやっているかい?………………何だって?そんな事でわざわざ電話を?そんなの、君お得意の技でもかけて黙らせれば良いだろうに……え?無理?……ナァンセンス!!!僕に今から京都まで行けと言うのか君は?」


電話をする椿さんは饒舌に怒りながら、俺に背を向け出口の方へ歩き出す。

もう帰るのかな?と思わせるような堂々とした迷いない足取りだったが、扉の前で椿さんは一度こちらを振り返った。


「ああ!君の今回の診察は、これで終わりだ。 先程僕が言った事は、よく心に刻んでおくように。また次回、診察で会える事を祈っているよ。Tschüssチュース!」


こちらを向いている間だけ胸に携帯画面を軽く当てながらそう言うと、空いている方の手をヒラリとひと振りし、再び電話の相手へ大きな声で反応を返しながら部屋を出ていってしまう。

しばらく、扉を見ながら静かになった空間を感じていたら、視界に「お疲れ様〜」と声を掛けてきた鈴が、ヒョイっと写り込んできた。


「寅さんの診察も終わって、特に悪い所もなさそうだし、壱条君が元気ならもう退院になるわよ。……私は基本、患者さんの状態しか知らないから、雨森村任務の詳しい話は寮で聞くのがいいかもね。」


サラリと重力に従って流れた髪で、可愛い刺繍のされた片目を隠す黒い布が、ちらりと覗く。


「え?あ、ああ、退院か。」


入院していた心地は正直全く無いが、それを抜きにしても、8番隊の寮に帰るのは酷く久々な気分だ。

俺の泳ぎまくった反応にも、鈴はいつもの朗らかな笑顔を作る。


「それじゃ、飛鳥あすかさんに迎えを頼んでおくわね。一応確認だけど、ちゃんと立って歩けそう?」


「ああ。」


言われて確かに。と思いながら、ペタリと地に足を付け、ひやっとした感覚と共にそっと立ちあがってみる。

同時に、実はずっと俺の腕から繋がっていた点滴がカシャと小さく音を立てた。

それだけが、本当に2日も眠ってたんだという事を知らしめる。

立ってみて思ったよりバキバキになってる体を感じ、俺は上半身を軽く横に揺らした。


「ぬァ〜めっちゃかたまってる。」


「アハハ、流石若者!全然大丈夫そう!」


ゴリゴリ言ってる体をふんふんと小さく動かしていれば、案外快活な笑い声をあげた鈴が、「じゃ、連絡してくるね〜」と病室を出ていった。


途端にしんとした病室。

俺の腕からは、細い管が垂れている。


「…………」


気を抜くと病院のベッドで横たわる雨森村の呪われた人達の姿や、息絶えた瞬間の鈴木先生の姿を思い出してしまい、気を紛らわそうと俺は緩く頭を振った。


あんまり、思い出すな。


「お待たせ〜!あと壱条君、8番隊の人から伝言!」


物思いに老けっていると、もう連絡が終わったのか携帯を片手に鈴が戻ってきた。

自動的に重い思考を現実に戻された俺は、何を?と彼女の返答を待つ。

「なんかねぇ」と、鈴はちょっと失敗を誤魔化すような笑顔で笑った。


「壱条君の高校の入学式、だったみたい。」


「……………………へ?」

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