釣りバカ令嬢

最終章

令嬢 フィオレンツァ・ダ・ヴェルディモンテ

1匹目 湖畔で釣りを楽しむ御令嬢

 波の跳ねる音を聞きながら、フィオは釣り糸を垂らしていた。


 湖の水面は、鉛色の雲をぼんやりと映しながら、静かに揺れている。風はほどよく、ときおり木々の葉をそっと揺らす。その葉はすでに色づきはじめていて、赤や黄に染まったものが時折ひらりと舞い落ち、水面を切り絵のようにいろどっていた。


 こんな日は釣りに限る、とフィオは一つ欠伸あくびをする。


 よれよれのシャツと、だぼっとしたサロペット、つば広のチューリップハットの下に髪をきれいにまとめている彼女は、遠くから見れば男の子にも見える。治安がいいとは言えない郊外に、女子が一人で釣りをしにくるわけがないという先入観もあるだろう。ただそんな見栄えや治安など気にすることなく、フィオは釣りを楽しむ。


 揺れる水面を眺めていると、ゆっくりとした足音が近づいてきた。



「釣れよるかい、お嬢」


「あら、トンマ爺。ごきげんさん」



 髪も髭も真っ白の老人。背は低く、瘦せていて、針細工のようである。もとが何だったのかわからない継ぎはぎだらけの服をまとう彼は、シシシと歯の隙間で笑い声を鳴らした。



「まだ釣れとらんっちゃ。今日はしぶかかもねぇ」


「そげんか。今日は天気よかけん、魚も昼寝しとるっちゃろうもん」


「あはは、かもしれんねぇ。じゃあ、うちも気長に待っとくかな。昼寝でもしながらね」


「それが一番いっちゃんよか。ばってん気をつけぇよ。釣りしよってそのまま寝て、水に落ちるアホはようおるけんね」


「忠告ありがと。でも、うちはそんなマヌケやなかよ」


「ほうか? わしん横でドボンて落ちたのは誰やったかいなぁ」


「もう、いつまでその話するとぉ。あれは、もう何年も前よ?」


「わしにとっちゃ、ついこないだのことばい」


「はいはい、もう忘れたっちゃ、そげな昔のこと」



 トンマ爺は、笑いながら小岩に腰掛ける。彼はチェレンツァ湖でよく会う釣り仲間だ。フィオに釣りを教えてくれた師匠でもある。どこに住んでいるのか、日頃何をしているのかは知らない。だからといって特に尋ねたりもしない。そういう間柄だ。


 それから、二言三言しゃべっていると、遠くから馬のせわしない足音が聞こえてきた。馬の鼻息がちょうど聞こえたところで、馬は足を止める。



「そこの者!」



 大きな声を上げたのは青年であった。身なりからして貴族だろう。黒い執事服を着こんだ彼は、眉間に皺を寄せた面をこちらに向けていた。



「私はヴェルディモンテ家のものだ。このあたりで変な髪色のご令嬢をみなかったか? こう、焦げた目玉焼きのように金と白と黒の入り混じったかんじの」


「いやぁ、見とらんですねぇ」



 執事の問にトンマ爺は、しれっと答える。執事はそれ以上詮索せんさくせず、そうか、とだけ応え頭をかいた。



「そりゃそうたい。貴族の令嬢がこんなところに一人で来るはずがなかと。執事長は何でこんなところを探せっち言うんだ?」



 そう呟いて執事は馬を走らせて過ぎ去っていった。馬の足音が去っていくのを聞きながらフィオは小さく息をつく。トンマ爺は、馬の尻を目で追っていた。



「あん小僧は、新米か?」


「そ。先月来たばっかりやけん」


「ありゃ、ぼんくらやな。自分とこのご主人もわからんっちゃ」


「そんなこと言うたらいかんよ。それに、見逃すのも無理なかよ。うち、家じゃちゃんとしとるけん」


「シシシ、そげんやったな。忘れそうになるばい。お嬢が、っちゅうことを」



 忘れてもらっていいっちゃけど、とフィオは鼻をかいた。


 フィオレンツァ・ダ・ヴェルディモンテ。


 西方を治める貴族の一つ、ヴェルディモンテ家、フィオはその長女である。こんなところで浮浪者のじいさんと釣り談義にふける身分ではない。そういう意味では、新米執事が見過ごしてしまうのも仕方ないといえる。


 

「ところで、お嬢、さっきから引いとるばい」


「え? お! きたぁっ!」

 


 エサに食いついて浮きが沈む。フィオが合わせて竿を立てると、ぐにゃりと竿がしなり、糸が湖の中にぐいぐい引き込まれていった。


 


「来た来たっ!」


「こりゃあ、大きかばい」


 


 竿のしなり具合から、トンマ爺がそう読み取る。糸が右へ左へ走り回り、フィオもそれに合わせて竿の向きを変える。


 


「そげん乱暴に扱うたら、竿が折れるぞ」


「大丈夫! それより、タモ、準備しとって!」


「ほいほい、任せとき!」


 


 カッと血がたぎる。竿から伝わるこの重み、この振動が、頭のてっぺんから足の先までビリビリと刺激する。釣り上げるまでの真剣勝負。釣り人は、この一瞬のために、途方もない長い時間をただひたすら待っているのだ。


 


「トンマ爺、いける?」


「もうちょい、もうちょい……はい、ほら、捕まえたばい!」


 


 トンマ爺がタモで魚を掬い上げ、陸にあげる。フィオは肩で息をつきながら、釣り糸を手繰たぐって魚をくいっと持ち上げた。


 


「やったぁ! けっこう大きかっちゃない? 重たーい!」


「ほぉ、こりゃあ主かもしれんのぉ」


「あはは、トンマ爺、それ、いっつも言いよるやん!」


「魚拓、とるか?」


「とるとるっ!」



 大きな魚が釣れたことに、気品も気位もなく、ただ年相応の子供のようにはしゃぐご令嬢フィオレンツァ、15歳。これは、そんな釣り好きな彼女、釣りバカ令嬢のお話である。

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