第三十六話:反撃の準備


 廃寺の隠れ家に差し込む月光が、眠る徳松の顔を青白く照らしていた。


 左近は、千代から猫の伝令によって届けられた手紙を繰り返し読み返し、妻の無事と機転に安堵すると同時に原田甲斐の追手がすぐそこまで迫っているという現実に身を引き締めていた。


 そして何より、懐に収めたあの密書――伊達家の運命を左右しかねない、恐るべき内容を記した巻物が、ずしりと重い。


「ん……う……さ…こん……?」


 不意に、徳松が呻き声を上げ、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳にはまだ混濁の色が残っていたが、左近の顔を認めると、かすかに安堵の表情が浮かんだ。


「徳さん!気がついたのね !

 良かった……本当に良かったわ……」


 左近は、思わず駆け寄り、徳松の手を固く握った。 いつものおネエ言葉に戻っていたが、その声には隠しきれない喜びと安堵が滲んでいる。


「ここは…… ? 俺は……確か、影狼とかいう奴に……」


「大丈夫よ、徳さん。 ここは安全な場所よ。

 わたくしが、あんな奴からあなたを守ってみせたわ。 ふふん、わたくしだって、やるときはやるのよぉ」


 左近は、おどけてみせたが、その目には親友への深い思いやりが浮かんでいた。 左近は千代からの手紙のこと、そして自分たちが置かれている危機的状況を徳松につまんで説明した。


 徳松は、朦朧もうろうとした意識の中で左近の言葉を聞きながら、徐々に記憶を取り戻していった。

 そして、懐の密書のことを思い出し、はっとしたように身を起こそうとしたが、腹部の傷に激痛が走り顔を歪めた。


「無理しちゃだめよ、徳さん。 傷に障るわ。

 密書なら、わたくしがしっかり預かっているから大丈夫」


 左近はそう言うと、懐から竹筒を取り出し、徳松に見せた。


「徳さん、この巻物……疾風はやてが運んできたと言っていたけれど、見つけた時の状況を、もう少し詳しく教えてもらえるかしら ?

 何か、見落としている手がかりがあるかもしれないわ」


 徳松は傷の痛みに耐えながら、疾風が竹筒を咥えてきた時の様子、竹筒に付着していた泥や草の匂い、そして微かに感じた白檀に似た薬草めいた香りについて、思いつくままに語った。

 左近は、その一つ一つの言葉に真剣に耳を傾け、時折鋭い質問を挟みながら、情報を整理していく。


「……伊達家分割、主要人物の排除、そして幕閣の何者かの内意……

 この密書に書かれていることは、紛れもない大罪よ。 そして、この花押と紋……」


 左近は、巻物の末尾に記された二つの印を指さした。

 一つは原田甲斐のもの。 そしてもう一つ、複雑な紋様は、左近の記憶にある幕府の権力構造の頂点に近い、ある人物のそれに酷似していた。


(やはり……甲斐はただの駒。 伊達家を内側から食い破ろうとする、もっと巨大なむしがいる…… !)


 左近は、これまでに集めた情報……甲斐の不自然な資金力、兵部毒殺未遂の手口、お勝の口封じ、そして自分に放たれた刺客の証言等々、それら全てが、この密書の内容と恐ろしいまでに符合することに戦慄した。

 伊達家乗っ取り計画の全貌と、その背後に潜む黒幕の輪郭りんかくが、左近の頭の中でほぼ明確に像を結びつつあった。


「徳さん、わたくしたちは、とんでもないものを手にしてしまったみたいね……」

 左近が重々しく呟く。


「ああ……。 だが左近、これがあれば、甲斐の悪事を……」


「ええ。 でも、これだけでは不十分かもしれないわ。 甲斐は老獪ろうかいよ。

 この密書を偽物だと強弁するかもしれないし、黒幕はさらに巧みにその姿を隠すでしょう。

 もっと動かぬ証拠と、そして、この真実を白日の下に晒すための『舞台』が必要よ」

 左近の目が、鋭く光った。


「舞台…… ?」


「そうよ、徳さん。 間もなく開かれる、大老・酒井雅楽頭様邸での評定。

 そここそが、甲斐の陰謀を暴き、伊達家を救うための、最大の好機であり、最後の機会かもしれないわ」


 左近は、反撃の計画を練り始めた。

 評定の場で、この密書を伊達安芸(宗重)に託し、彼と共に原田甲斐を糾弾する。

 そのためには、密書の信憑性を裏付ける補強証拠を集め、安芸と事前に連携を取る必要がある。

 そして何より評定の日まで、この密書と自分たちの身を守り抜かなければならない。


 徳松は、左近の覚悟に満ちた横顔をじっと見つめていた。

 自分の怪我はまだえておらず、自由に行動することは難しい。

 しかし、それでも、この親友の力になりたいという思いは腹の傷の痛みよりも強く、彼の胸を熱くしていた。


「左近……俺にも、何かできることがあるはずだ。こんな体でも、お前一人に全部背負わせるわけにはいかねえ。

 猫たちだって、きっと力を貸してくれる。

 あいつらは、俺の最高の仲間だからな」


 徳松の言葉には、揺るぎない決意が込められていた。

 左近は、徳松のその言葉に思わず目頭が熱くなるのを感じた。

 この純粋で、どこまでも優しい親友がいるからこそ、自分は戦い続けられるのだ。


「……ありがとう、徳さん。 あなたのその言葉、本当に心強いわ。

 でも、無理は禁物よ。 あなたの体は、まだ万全じゃないんだから」


 左近は徳松の身を案じつつも、彼の申し出を無下にはできなかった。

 徳松にしかできないこと、猫たちにしかできないことが、この絶体絶命の状況を打開する鍵となるかもしれない。


「まずは、ゆっくり休んで頂戴。

 そして、もし動けるようになったら……あなたには、とても大切な役目を頼みたいと思っているの」


 隠れ家の外では、夜明けの気配が漂い始めていた。


 反撃の準備は、まだ始まったばかりだ。


 左近と徳松、二人の間に生まれた新たな覚悟と協力関係が、伊達家の未来を、そして彼ら自身の運命を、大きく左右することになるだろう。


 評定の日が、刻一刻と近づいていた。


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