第14話 銀行と気まぐれな猫

 試作機を組み上げる前から、僕は銀行に何度も足を運んでいた。


 まだ未完成の事業計画書を見せると、担当者はまるで若い研修生に指導するように、懇切丁寧に改善点を教えてくれた。

 商売も金融も素人の僕にとって、それは本当にありがたい助言だった。


 ――ただ、実機がなかったからこそ、担当者の態度も「親切な助言」の範囲で済んでいたのかもしれない。


 試作機を見せた瞬間、それは一変した。


 ラジオから小さな音声が漏れた途端、担当者の目つきが変わった。

 そして、上司を呼びに奥へ消えた。

 その上司はすぐに、さらに幹部を呼びに行った。


 ーーーーーーーーーー


 僕は、このシャルルロワにある三つの商業銀行を回ろうと考えていた。

 その中でも、この銀行は父が長年口座を持っている場所だ。


 是非、この銀行で融資をさせてほしい。

 担当者に頼まれた。もう少し融資できるとまで言われた。

 やはり実物は役にたつ。

 試作機を作って本当に良かった。


 融資を受けるには、“事業体”が必要だ。

 つまり、法人格を持った事業者でなければならない。

 そして、その「法人化」こそが、本当の地獄の始まりだった。


 半年が過ぎていた。季節は、もう冬が終わり、春の息吹がシメイの地に芽吹き始めている。

 僕は相変わらず、書類の山に埋もれていた。

 トランジスタも、ラジオも、触れる時間がほとんどなかった。


 我が家の暮らしが成り立っているのは、父のメッキの仕事のおかげだ。

 その父に、事務作業まで手伝ってもらうわけにはいかない。


 融資には、過去の家業の実績、資産の証明、計画書の再提出……

 銀行からは何度も何度も訂正を求められ、

 法人設立についてもリエージュの法務局とのやり取りが延々と続いた。


「ワロン錬金術有限責任会社」――Compagnie alchimique wallonne。


 工房の入り口に掲げた看板は、ささやかながら、僕の決意の象徴だった。


 銀行の担当者は、「社名に“錬金術”を入れるのは印象が悪い」と渋い顔をした。

 けれど僕は、そこだけは譲らなかった。

 この技術は、過去の遺物じゃない。未来を拓く力だ。


 それを証明するのが、僕の仕事であり、僕の夢だった。


 ーーーーーーーーーー


 寝室の片隅に無理やり詰め込んだ小さな机――

 今は“書斎”と呼ぶしかないそこに座って、僕はふと思った。


 人を雇わないと回らない。


 設立手続きは認可制で、審査もある。

 有限責任会社として認められるには、それなりの体裁が必要だった。


 リエージュの法務局ワロン分局に何度も手紙を送り、

 時には自ら乗合馬車に揺られて窓口へ足を運んだ。


 そして――

 ある冬の朝、ついに届いた法人登記簿を手に取ったとき、

 僕は本当に、胸がいっぱいになった。


 でもそれは、始まりに過ぎなかった。


 特許、契約、各種申請……

 書類が終わることはない。

 技術者としての僕の本業は、ほとんど手つかずのままだ。


 机に伏せながら、頭の中で手伝いを頼める町の若者たちの顔を思い浮かべていた。

 町に出るたびに泥団子を投げつけてくるパン屋の子供にまで検討が及び始めたところで、

 ふと、机の上の手紙が目に入った。


 ーーーーーーーーーー


 差出人は、カリーヌ先輩だった。

 なんとか文通は、まだ続いている。


 先輩は、9月末に大学を卒業し、今は小さな商会で受付をしているという。

 手紙の内容は、9割が近所で拾った猫の話だった。


 でも、残りの1割には――

「せっかく勉強したことが、仕事で全然活かせてない」という、

 珍しく、少し弱音のような言葉が綴られていた。


 僕は、その手紙を見てしばらく黙っていた。


 書きかけていた返信を、くしゃりと丸めてゴミ箱に放った。


 そして、新しい便箋を広げる。


 事業のこと。今、困っていること。

 先輩の経営と法務の知識が、どうしても必要なこと。


 パリほどの給料は出せないけれど、この地方の平均以上は用意できること。


 そして――職場に猫を連れてきてもいいこと。

(先輩の今の職場が「猫禁止」で、それを嘆いていることを、僕はよく知っている。普通はそうだ)


 ーーーーーーーーーー


 手紙を出してから、一週間が過ぎた。


 二週間が過ぎた。


 ひと月が経った。


 先輩からの返事は、なかなか来なかった。

 いつもなら、2週間も経たないうちに返事を書いてくれるのに。

 郵便配達の足音がするたびに、僕は机から顔を上げて、扉の向こうをじっと見つめるようになっていた。


 そんな日々のなか、銀行に開設した法人名義の口座に、ついに振込があった。

 本融資の審査はまだ途中だったが、先行分としていくらかを貸し付けてくれたのだ。

 ――助かる。

 材料の買い付けなど、父にお願いするには少し大きな額になってきていたからだ。


 僕はすぐにシャルルロワの市場に向かい、チーズ箱を探した。

 20センチ×10センチほどの、木製の、少し古びた箱。

 これは本来チーズの輸送や保存に使われるもので、すでに使い終わったものは安価に手に入る。

 ただし、再利用品なだけあってチーズの匂いがしっかり残っていた。

 一つや二つなら笑っていられるが、200個も積み重なれば工房がまるで熟成庫のようになる。

 僕は家の裏に並べて日干しにし、数日かけてその匂いを追い払った。


 この箱に、焼印を押していく。

 我が社の名前――ワロン錬金術有限責任会社の文字を、一本一本、手で焼き入れていく。

 本当は会社のロゴも入れたかった。けれど、鍛冶屋への焼印の発注が間に合わなかった。

 自分で描いた図案――ワロン地方の象徴である鶏と錬金炉を組み合わせた意匠――を両親に見せたところ、


「毒キノコと牛乳瓶か?」と首をかしげられてしまった。


 ……僕には絵の才能はないらしい。

 素直に、ロゴの図案は知り合いに頼んでいる。


 鉱石ラジオを構成する5つの部品を箱に配置していく。

 中心となるのは、検波回路に使うショットキーダイオードだ。

 このダイオードは、金属とn型半導体の接合で作られたもの。僕が作った半導体部品のなかでは最も歩留まりが高く、不良品の率は5%を切っている。

 トランジスタに比べて単純な働きをする部品な分、大量生産に向いている。濃いめにドーピングした素材を使えば、なおさらだ。


 次に、同調回路。

 コイルとコンデンサを組み合わせて、LC共振回路を構成する。

 送信機の周波数を基準に、受信側の回路を調整する。

 ただし、LもCも精密な測定器がないために、実際には“勘”でやっている部分が多い。

 最初に作った送信機の予備機をベンチマークに、手探りで進めていく。


 部品同士を結合して回路を作る、ハンダ付けには自信がある。

 現代の技術者として身につけた数少ない“職人技”が、ここで役に立った。

 一台にかかる時間はおよそ30分。素材が揃えば、夜な夜なでも作れる。


 しかし、受信機を3台ほど組み上げたところで、僕はまたしても書類の山に押しつぶされた。

 法人の口座にまつわる書類、融資の書類、納税に関する届け出……

 錬金炉には一日も触れずに、机にかじりついてペンを走らせるだけの日々が続いた。


 そんなある日の午後。

 外から聞き慣れない足音がして、家の玄関が軽く叩かれた。


「はい?」と声をかけて扉を開けると、ふわっと鼻腔をくすぐる甘い香り。

 見上げた先には――見慣れた笑顔があった。


「きちゃった」


 カリーヌ先輩が、そこに立っていた。


「えっ……先輩!?」


 驚きすぎて、しばらく言葉が出なかった。


 手にはカバン。足元には、ふさふさの毛並みを揺らす白い子猫。


 聞けば、僕の手紙が届いたその日から、彼女は職場に退職の連絡をして、仕事の引継ぎをして、下宿を引き払い、

 そして愛猫のミネットちゃんを連れて鉄道に飛び乗ったのだという。

 その行動力、相変わらずすごすぎる。


「シメイの実家に荷物は置いてきたから。とりあえず、顔出しに来たの」


 軽く業務の話を交わした後に、先輩は「ちょっと知り合いに挨拶してくるね」と言って町へ繰り出していった。

 強引に預けられたミネットちゃんは、僕のズボンの裾から糸を引き出す作業に没頭していたが、それも飽きたらしく、今は机の脚に爪を立ててカリカリやっている。

 その傍若無人さは……まるで飼い主そっくりだと思った。


 僕はにやけた顔をぐっと引き締め、机に戻る。

 アンテナ塔の材料の発注書が半分書きかけのままだ。

 インク瓶の蓋を開けて、羽ペンを取る。


 ぽかぽかとした胸の奥の温もりを感じながら、僕は新しい一歩を、また踏み出した。


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