第12話 都会と初夏の嵐
パリの宿に荷物を下ろすと、父はさっそくパトロンへの挨拶回りに出かけていった。
僕――レオンは、しばらく自由時間をもらえたので、買い物がてらパリの街に繰り出すことにした。
狙いは、電話機の補修部品。
アメリカから伝わったばかりの電話技術が、ここパリではすでに富裕層のあいだで広まりつつある。
最近では「パリジェンヌのなりたい職業」として、電話交換手が大人気だと聞いた。
女性の社会進出が限られたこの時代において、高給で、室内で働ける数少ない職業の一つだ。
電話の受話器には、スピーカーとマイクが一体となって組み込まれている。
これこそ、僕が進めているラジオ試作機にぴったりの部品だった。
早く形にしなければならない。
事業の融資を受けるには、まず“目に見える成果”が必要だ。
ーーーーーーーーーー
向かった先は、モンガレ通り。
電気部品を扱う店が多く立ち並ぶと聞いて、馬車トラムに乗って揺られていく。
到着したそこは、まさに情報と技術と熱気が交差する混沌カオスの地だった。
真鍮の歯車、電池、巻線、工具――そして何に使うのかよく分からない謎のガジェットたち。
受話器はなかなか見つからなかったが、僕の目は次から次へと珍しい部品に吸い寄せられ、お小遣いがみるみるうちに減っていった。
そんなときだった。
喧噪の向こう、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。
(まさか……)
半信半疑で駆け寄って、思わず声を上げた。
「先輩!」
その人影が振り返り、そして――にこっと笑った。
「レオンじゃない! パリに来てたの?」
くしゃっと笑ったその笑顔は、何も変わっていなかった。
懐かしさと嬉しさが一気にこみ上げてくる。
近づいてきた彼女が、軽く僕の頭を撫でた。
「よしよし、元気そうでなにより!」
――カリーヌ先輩。
僕の通っていたアンスティチュ(私立学校)の先輩であり、憧れの存在だった人。
当時から成績は優秀で、おしゃれで、明るくて……
僕は、ずっと彼女の背中を追いかけていた気がする。
今の彼女は、以前にも増して洗練されていて、まさに“パリの女学生”といった雰囲気をまとっていた。
「先輩は、今パリに?」
「うん、カルチェ・ラタンの大学に通ってるの。政治経済系の学科かな。いろいろやってるけど、楽しいよ」
カルチェ・ラタン。
前世の知識でもその名を聞いたことがある、パリの学問の中心地。
その名門で学んでいると聞いて、僕は妙に納得してしまった。
(先輩の同級生たちは大変だろうな……)
故郷にいたころから、カリーヌ先輩はとにかく人気だった。
告白されても、あっさりとかわす姿が妙に大人びて見えたものだ。
「ねえ、ちょっと時間ある? カフェでも行かない?」
「えっ……あ、はい!」
受話器!――と思いかけたが、
僕の頭はその思考に反して気づけば勢いよくブンブン縦に振られていた。
ーーーーーーーーーー
カフェに入ると、先輩は注文もそこそこに、僕の肩から提げた鞄に目を留めた。
「ねえ、それなに? すっごく詰まってるけど、モンガレ通りで買ったの?」
いたずらっぽく笑いながら、もう手は僕の鞄を引き寄せていた。
「ちょ、ちょっと待って、それは――」
言い終わる前に、鞄の口が開いて、彼女の手がごそごそと中を探り始める。
「うわあ……ほんとに部品だらけ! ガラクタの宝庫って感じ!」
瓶をひとつ取り出して、陽の光にかざす。ライデン瓶だ。
「なにこれ~? 面白いカタチ!」
「それはライデン瓶。電気を一時的に蓄える道具で、電子の流れを――」
「へぇ~すごーい!」
うんうんと頷きながら、でも目は次の“おもちゃ”に向かっていた。
(……この傍若無人ぶり、懐かしいな)
モンガレ通りで買い込んだ部品をひと通りいじくり回して、ようやく彼女の好奇心が落ち着いた頃、僕はふと思い出したように、シメイの話を持ち出した。
「そういえば、パン屋の赤ちゃん……覚えてる? あの子、今じゃ町で泥団子投げ回してるよ。もう、誰にでも容赦なく」
「えっ、あの天使ちゃんが!? うそでしょ、やだもう、信じられない!」
「ユーグもさ、絵をやるってリエージュに行ったんだ。今ごろ、アトリエで格闘してるかも」
「真面目だったもんねぇ、あの子。……ああ、懐かしいなあ」
「兄貴も士官学校出たんだよ。昔は手がつけられない悪ガキだったのに、今じゃ軍服着てキリッとしててさ。あれは笑った」
「ふふふ、シャルボノー家も立派になったものね!」
彼女は笑いながら紅茶を口に運んだ。どこか昔話を懐かしむような穏やかさが、そこにはあった。
「大学どうですか?」
「寒い!」
返ってきた答えに思わず笑ってしまう。
「建物、知ってる? 四世紀くらい前のやつでさ、冬なんて隙間風がすごくて……教授のカツラが飛ばされたことあるんだから。講義中に!」
彼女は両手を広げて「ふわ~っ」と飛ぶカツラの軌道を再現してみせた。
「で、いまは就職先を探してるところ。教授にも相談してるんだけどね、なかなか……女だからってだけで、断られることも多くて」
言いながらも笑顔は崩さない。
「でもまあ、いろいろ頑張ってるよ。パリ、楽しいしね」
「……すごいですね、先輩は」
ーーーーーーーーーー
やがて先輩は鞄から小さな手帳を取り出し、何かをさらさらと書きつけた。ページを破り、僕に手渡す。
「これ、寄宿先の住所。ちゃんと手紙書きなさいよ? こなかったら、怒るからね」
少し上から目線なその言葉が、なんだか嬉しかった。
「はい……絶対、書きます」
「うん、それでよろしい」
立ち上がった先輩は軽く手を振り、混み始めたカフェの通りへと消えていった。
嵐のようにやって来て、嵐のように去っていく――
昔と何ひとつ変わらない。
僕は席にしばらく残って、ぼんやりと空っぽになったカップを眺めていた。
(……受話器、買えなかったな)
外へ出ると、パリの空はもう夕暮れに染まりかけている。
街角では、長い棒を手にした男がガス灯を一つずつ灯していた。
そのやわらかな灯りを目で追いながら、僕はゆっくりと宿へと戻っていった。
ーーーーーーーーーー
万博会場は、思ったよりも空いていた。
パリ市内の混雑と比べれば、かなり余裕を持って展示を見て回れそうだった。
もちろん、僕の故郷シメイと比べれば、どこを切り取っても賑やかすぎるほどだったけれど。
会場を歩きながら、父さんが僕に聞いてきた。
「どこから見たい?」
「プロイセンがいい」
即座にそう答えた。
少し驚いたような顔をされたが、理由は単純だった。
最近読んだ新聞に、気になる記事が載っていたのだ。
プロイセン館には、建築家ディービッチによって設計された庭園があるという。
都市の真ん中に突如現れた、人工的な自然。けれど、それは不思議と周囲の風景と調和していて、
「どこか場違いで、だけど美しい」――そんな言葉が、記事には添えられていた。
僕の中でプロイセンといえば、軍靴と鋼鉄、効率と秩序の国。
だからこそ、その文化的な側面に触れてみたくなった。
しかも、記事によると、バイエルン王国のルートヴィヒ2世がこの庭園に強く感銘を受け、自らの城に移設する意向を示したらしい。
バイエルンは、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦に参加しなかったごく一部の国のひとつだ。
バイエルンを含む南部の四つの国を除けば、三十近いドイツ諸邦はすでに政治的統合を果たしていた。
数年前、プロイセンはデンマークからシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方を武力で「返還」させることに成功している。
この軍事的勝利は、ドイツ語圏における名声を一気に高め、長年くすぶっていた「ドイツ民族の統一」――ナショナリズムの機運に火をつけた。
そして今、プロイセンの目は最後の「北ドイツの地」、アルザス=ロレーヌ地方へと向かっている。
その動きに、フランスが神経を尖らせないはずがない。
ベルギーの新聞でも、連日フランスとプロイセンの対立を報じていた。
それだけに、僕はどこか気になっていたのかもしれない。
戦争の影が忍び寄る国の、平和な「庭」を、いまパリの中心で眺められるという、この矛盾のような現実を。
きらびやかな展示。丁寧に設計された池と小道、東家あずまや。
穏やかすぎて、逆に奇妙な空気すら漂っている。
僕は黙ってその風景を見つめた。
(プロイセンって、こんな一面もあるんだな……)
一歩引いて見れば、これもまた国家の顔、ということなのだろう。
戦争と文化は、同じ国の中で矛盾なく並び立つ。
それにしても、パリのど真ん中で、のんびりとプロイセンの庭を眺めている僕と、
戦争の不安に揺れるベルギーの新聞の見出しとが、なんだか噛み合っていないようで――
僕は思わず、肩の力が抜けるように小さく笑ってしまった。
(おかしいな……)
確かに、プロイセンとフランスのあいだに戦争は迫っている。
ベルギーが再び戦場となる可能性も、決して小さくない。
けれど、いま僕がいるここは平和だった。
何事もなかったように、水面がゆれて、木々が風に揺れている。
(戦争なんて、本当に起きなければいいのに)
そんなことを思いながら、僕はもう一度、プロイセンの庭園を見渡した。
ーーーーーーーーーー
同じプロイセンの展示でも、庭園にはほとんど人がいなかったのに、こちらのブースには黒山の人だかりができていた。
新聞での扱いを見れば、それも当然だ。
プロイセンの産業力の象徴――クルップ社の鋼鉄製大砲が展示されていた。
(鋼鉄製のモノブロック砲身……)
それを目にした瞬間、僕は言葉を失った。
それまでの大砲といえば、青銅や鋳鉄で作られたものが主流だった。
鋳型で成形されるため、どうしても内部にムラや気泡ができやすく、強度に限界がある。
だがクルップは違った。一体成形の鋼鉄製砲身モノブロック。
その構造を新聞で読んで知ったときから、それがどれほどの革命か、どれほどの技術力が必要とされるかはすぐにわかった。
――耐久性の飛躍的向上
――高初速の実現
――そして、圧倒的な命中精度。
まさに時代を塗り替える「武器」だった。
展示されたこの大砲を見ていったのは、軍人や技術者ばかりではない。
フランスの皇帝――ナポレオン三世も、異例にも視察に訪れたという。
敵国の軍事力を前に、何を思ったのだろうか。
(ベルギー軍なんて、まだ鋳鉄どころか青銅の大砲を使ってるんだけどね……)
そう思うと、同じプロイセンでも、あの静謐な庭園の展示とはまるで別物だと思えてきた。
こちらは文化の発信などではない。
まさしく、武力――「王の最後の論拠(ultima ratio regum)」の誇示だった。
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