第10話 n型半導体
ブリュッセル滞在の最終日、僕たちは商会に勤める長兄――マティスを訪ねた。
「……ったく、二ヶ月も経ってないってのに」
扉を開けた長兄は、そう口にしたが、その声には棘がなかった。
むしろ、その口元には照れたような笑みが浮かんでいた。
少し日焼けした顔に、街の空気が染みついたような落ち着きがある。
「道中に用事があったからな。ついでだよ」
父が言う。
彼は僕の頭をくしゃりと撫で、昼休憩の時間を割いて近くのカフェへと案内してくれた。
蒸しパンのような軽食と、濃いコーヒーの香り。
近況を語り合う父子の会話に、僕は黙って耳を傾けていた。
マティスは商会での業務に忙殺される日々らしい。
けれど、家を継がなかったことに、いくらか後ろめたさもあるのだろう。
僕に向かって「よく手伝ってるみたいだな」とぽつりと呟いた。
「……うん。今は、父さんの仕事とはちょっと違うこともやってるけどね」
そう返すと、彼は少し興味深そうな顔をしていた。けれど、何も言わなかった。
ーーーーーーーーーー
数日後、僕たちはシメイの我が家へ帰ってきた。
旅先の余韻もそこそこに、日々はすぐに“いつも通り”に戻った。
変わらぬ朝食、変わらぬ工房、変わらぬ父の背中。
二人でするには、今の仕事は多くない。
かつては技術習得のために、父のメッキ作業を横で手伝っていたけれど、今では僕自身の作業も増えた。
父は変わらずメッキの注文をこなしている。
僕は、あの手に入れたシリコン結晶の精製作業を黙々と進めていた。
もっとも、工房にある炉はひとつだけ。
その使用時間は父と交代で使うため、僕がそれを使えない間は、文献を読みふける時間になる。
電気、素材、錬金術、そして――回路。
手元には、商会を通じて取り寄せた数冊の本があった。
フランス語で書かれた電気理論の書。
錬金術師向けの金属反応についての論文。
そして、紙質の劣る冊子の中にあった、アナログ回路の初歩。
「現代の電気技術を知っているなら、近代の技術を勉強する必要はないのでは?」
そう思う人もいるかもしれない。
けれど、それはまったくの誤解だ。
現代の時代、電気技術はあまりにも広範に分業されていた。
回路、配線、信号処理、組み込み、ソフトウェア――
“電気技師”という肩書きのもとに働いている人間の大半は、実際にアナログ回路を設計したことがない。
僕自身も、その一人だった。
アナログ回路とは、たとえばラジオのような電子工作をイメージしてもらうと分かりやすい。
微弱な信号を受け取って、整流し、増幅する。
信号の“形”を理解し、“波”として扱う世界。
これは、かつては電気技術の根幹だった。
現代の電気は、“1か0か”で扱うのが主流だ。
トランジスタがロジックを司り、回路はプログラムとしてHDL(ハードウェア記述言語)で記述される事すらある。
電機メーカーの技術者として働いていた僕には、
確かに“知っている”ことはあっても、“身についている”とは言えなかった。
(……学び直さないと)
この時代は、すべてがアナログだ。
トランジスタは、アナログの結晶である。
これから作ろうとしているラジオ――
それは、アナログの知識の塊だ。
“未来の知識”があったとしても、埋められない距離がある。
だから僕は、足りない知識をひとつひとつ、拾い集めていく。
工房の静かな午後。
父が隣で、静かに作業している音が、心地よく響いていた。
ーーーーーーーーーー
純度を高めることに比べれば、不純物を足すーードーピングという行為は拍子抜けするほど簡単だった。
あれほど苦労して精製したシリコン結晶。
炉に向かい、手のひらに神経を研ぎ澄ませながら、純物を抜き続けた一ヶ月近い日々。
最終的に、僕はその結晶を8N(99.999999%)の純度にまで高めることに成功したと判断した。
ただし、その純度を“数値”として把握する作業がまた、別の意味で大変だった。
現代なら分析装置で一目瞭然なものを、この時代にそれを確認する手段はない。
頼れるのは、あくまで――錬金術。
僕はシリコンの結晶を一単位ごとに区切り、錬金術的な知覚で不純物を感知し、数を記録する。
それを繰り返し、統計的に平均値を取るという、気の遠くなるような作業だった。
さて、次は不純物の導入――つまりドーピングだ。
もともと錬金術は、金属を混ぜて合金を作るのが得意だ。
なので極微量の原子を加えるという作業は、相性が良い作業であった。
今回は、リンを使う。
粉末状のリンを、ごくごく少量――
ほんの“ひとひら”を、少しだけ削ったシリコンに染み込ませるように注ぎ込む。
温度を均一に保ち、錬金術でゆっくりと馴染ませていく。
量を少しずつ調整しながら、導電性の変化を確かめていった。
n型半導体とは、14族元素たとえばシリコンに、15族たとえばリンを微量混ぜたものだ。
シリコンは価電子を4つ持ち、隣のシリコン原子と手を取り合って安定した共有結合を作る。
そこに、5つの価電子を持つリンが混ざると、4つの手は結ぶとして――
1つ余ってしまう。
この“余った電子”は自由になり、結晶の中をさまよう。
そして、これがまさに――電気の運び手となる。
(改めて思う……半導体の仕組みは、意外と単純なんだよな)
実際、ゲルマニウムトランジスタが発明されるよりも前に、
「14族元素に15族を加えると電気が流れる」という現象自体は知られていたのだ。
ただ――それを阻んだ最大の壁が、“純度”だった。
不純物が多すぎれば、電子の流れが乱れ、働きは台無しになる。
高純度という基盤があってこそ、ドーピングは意味を持つ。
僕はリンを少しずつ足し、様子を見ながら電極を当ててみる。
やがて、確かに電流が流れた。
少し拍子抜けするくらい、あっけない反応だった。
でも、間違いなく――ここに、世界初の半導体が生まれた。
とはいえ、これはまだ“始まり”にすぎない。
n型半導体は単体では、あまり使い道がない。
特殊用途のセンサーには使えるらしいが、回路を構成する上では力不足だ。
必要なのは、p型との組み合わせ。
そしてそれが結びついたときに生まれる、ダイオード、トランジスタ、そしてそれらの電子部品としての特性が一番重要だ。
けれど、それでも今日は――大きな、大きな一歩だった。
僕はそっとその小さな半導体を、試薬瓶の台座に飾った。
ガラスの蓋をかぶせると、まるで宝石のように光って見えた。
(父さんに……見せに行こう)
いつもより軽い足取りで父さんの居室に向かった。
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