第13話
5
四月になった。
碧は最近、隣の駅のファミレスまで行って、そこで四時間くらいお茶をしながらイラストを描いている。家にいるとどうもだれてしまい、テレビを観てしまったり猫と遊んだりアニメを観たくなったりして集中できないので、嫌でもイラストを描ける環境に身を置こうと思ってこうしている。
洗濯は毎日しているが部屋干しだし、取り入れたり雨の心配をすることはない。掃除は、二人の住む部屋に掃除機というものはないので市販のウェットタイプのシートで拭くようにしている。部屋が広くないので、毎日やったところで高が知れている。
だから、家事といってもこれくらいのことしか、やることがない。
碧は暇を持て余しているのである。
碧に仕事を辞めてほしいと言った時、黒木はこんなことも言った。
「碧ちゃんには一日中、好きなことをしていてほしい。イラスト描いて絵を見て、そうして時間を過ごしていてくれれば、それでいいから」
元々、発達障害の人間というのは働くことに向いていない。働かなくていいのなら、それに越したことはない。黒木はそれを、よくわかっている。
なので碧は、彼のその言葉に甘えてイラストを好きなだけ描くことにしている。時間に余裕があるから、描けば描くほどコンペに勝つことができて、碧は金銭的にだいぶ余裕ができた。
四時頃にはファミレスを出て、駅前のスーパーが混む前に夕食の買い出しをした。買い出しの前には、だいたい黒木にメッセージを送ってその日になにを食べたいかを聞いておく。そして帰宅して入浴して、髪を乾かして夕飯を作り始めるころに黒木が帰ってくるというわけだ。
彼はよほどのことがあって疲れていない限りは、碧と一緒になって共に食事を作る。
「今日、どんなイラスト描いたの」
「今日はあんまりはかが行きませんでした。でも一枚は上げた」
「あとで見せて」
「今日は依頼、ありました?」
「浮気調査が一件、入りそう。でもな、式にかぶりそうだから、断るかも」
「事情を話して、時間がかかるって言って待ってもらったら?」
「これから結婚が破綻するかもしれないひとに結婚するから待ってくれって言うの? どうかなあ」
「でも、たった一日のことだし」
「そうだなあ。なんとかごまかして、日にちだけ延ばしてみるかなあ」
そんなことを話し合って、片づけて、黒木は走りに行き、碧はアニメを観て、寝る。
そうこうするうちに、五月がやってきた。
「去年の今ごろは、連勤でしたねえ」
大型連休で世間はいっせいに休みである。碧も、実に四年ぶりに連休にまともに休むことができた。
「暇ですねえ」
「前の職場に、陣中見舞いにでも行ったら」
「そうだなあ。お菓子でも持って、遊びに行こうかなあ」
結婚式のために、花も注文してある。ちょうどいいから、それの確認も兼ねて行ってみるか。碧は思いついて、近所のデパートでプリンを大量に買ってかつての職場に行った。
一階の花屋に行くと、母の日に備えてはいるものの、まだ日にゆとりがあるので売り場は比較的暇なようである。
「あら宇藤さん。お久しぶり」
「おつかれさまでーす。差し入れです。みんなで食べてください。センターの分もあるんで、上に持っていってください」
「ありがとうございます。式のお花、準備できてますよ」
「そうそう、今日はその確認に来たんです」
新井が売り場にいて、式で使う花の最終確認をしてくれた。あれやこれやと話をして、ついでに花も買っていって、碧は花屋を後にした。
花束を抱えていると、心がうきうきする。
ああ、ストックが見ごろなんだな。それに、グラジオラス。薔薇もきれい。うち、狭いのにこんなにいっぱい買っちゃった。
買い込んだ花を見ていたら、イラストのアイデアが次々に浮かんできた。あれもいいこれもいい、あんな彩色はどうだ、こんなデザインはどうだと、家に帰りたくてたまらなくなった。
ああそうか。花を毎日のように見ていたから、デザインに助けられていたってことが大きかったんだな。ずっと気がつかなかった。これからはもっとあそこに通って、花を買って行こう。
「ただいまー。お、花がいっぱい」
「おかえりなさい。前の職場に行ってきたんで、お花いっぱい買ってきちゃいました。そしたらイラストのアイデアもいっぱい出た」
「そりゃすごい。もっと通わなくちゃね」
「そう思ってたとこです」
いよいよ結婚式は来週である。碧は毎日肌の手入れを入念にして、その日に備えた。
式の前日、黒木はビジネスホテルに泊まることにした。いくら結婚するからとはいえ、同じ家から新郎新婦が式場に行くのでは味気がないからだ。
五月二十四日は朝から晴れ、その日の朝に碧と黒木は区役所で婚姻届けを提出した。そしてそのまま、共にあのレストランに向かった。
支度は別室でして、グレイのジャケットに身を包んだ黒木は碧の控え室を訪ねていった。
「碧ちゃん、準備できた? 入っていい」
なかから、碧の返事がした。黒木はそっと扉を開けた。
「――」
五月の光が、部屋中にあふれている。
そのなかで、緑のドレスを着た碧が椅子に座ってこちらを見ていた。
髪を編みこんで上げた、その黒い髪が白い肌に映えている。
「獅郎さん?」
碧を見て言葉が出ない黒木に、碧が怪訝な面持ちで声をかけた。
「碧ちゃん」
彼は感動のあまり、一息で言った。
「すっごい、きれい。緑にしたんだね。すっごく、きれい。白より、いい。すごく、いい」
碧は微笑んだ。
「これ、獅郎さんの」
碧はテーブルの上にあった、咲きかけた白い芍薬の花を差し出した。それを、黒木のジャケットの胸ポットにそっと挿す。
「碧ちゃんの花は、こっちだね」
花嫁のブーケは、白い芍薬である。五月に盛りになる、碧の好きな花だ。
「碧ちゃん、これ。俺から」
「え?」
黒木はポケットから小さな箱を取り出して、碧に渡した。
「開けてみて」
なかには、翡翠のピアスが入っていた。その色に、碧は見覚えがあった。
「獅郎さん、これって」
「そ。碧ちゃんがずっとほしかった、ろうかんの翡翠だよ」
「でも、ろうかんなら指輪が」
「あんなちっちゃいのじゃなくて、ちゃんとした大きいのを持っててほしかったの。だから、あのお店が別にミネラルショーやってる時に行って買ってきて、あの工房にお願いして作ってもらった。碧ちゃんの肌の色にはプラチナがいいと思って、プラチナにしてもらったよ」
着けてみて、と言われ、碧はそれを耳に着けてみた。
「よかった。よく似合うよ。ドレスも緑だし、ぴったりだね」
「獅郎さん……」
碧は胸がいっぱいになって、彼を見上げた。
「ありがとうございます」
風がそよそよと吹いている。
「じゃ、行こうか」
「はい」
黒木の差し出した腕に、碧はつかまった。
レストランの入り口では、招待客たちが受付をすまそうとしていた。
入り口で名前を書くと、従業員が札を渡してくる。それには、招待客の名前と、花の名前が書かれている。
「私『White Rose』」
「あ、私も」
「お前は?」
「俺『Sunflower』
「札に書かれた花と同じ花が飾られたテーブルにお付きください。お名前を記した札が椅子にございます」
従業員が説明した。
花が咲く庭に出ていくと、白いパラソルの下に白いテーブルクロスのかかったテーブルが置かれていて、その上には札に書かれた通りのそれぞれの花が花瓶に活けられていた。
「おしゃれな演出」
「ね。気が利いてる」
などと、招待客たちが言葉を交わしていると、あちらから黒木と碧が歩いてやってきた。 招待客たちはそれを、拍手で出迎えた。
黒木と碧は赤い芍薬の飾られたテーブルに座った。
料理が運ばれてきて、そのうまさに誰もが感嘆の声を上げていた頃、マイクスタンドの前に一人の招待客が立って、話し始めた。
「ご歓談中、失礼します。本日は黒木獅郎と宇藤碧の結婚式にお集まりいただき、ありがとうございます。司会はわたくし、新郎の大学時代の友人黒崎が務めます。黒木と黒崎、出席番号が前後していまして、席が隣同士だった因縁で仲良くなった次第であります」
黒崎はなにか、小さなカードのようなものを持っている。
「事前に招待客から募った新郎新婦への質問を集めて、今朝二人に渡して回答してもらいました。よって、答えを見るのは私も今、これが初めてです。二人はどんな質問に答えているのでしょうか」
黒崎がカードをめくった。
「その一、相手の好きなところは?(具体的に) 新郎の答えは『ぜんぶ』とあります。憎いですね。続きを読みましょう。『ご飯をおいしそうに食べるところ、いつも一生懸命なところ、猫が好きなところ、イラストを頑張って描いてるところ、かわいいところ、そういうところぜんぶ』。」
黒崎はカードをめくり、またも言った。
「続いて新婦の答えは、これも『ぜんぶ』とあります。どうなっているんでしょうね。
『かっこいいところ、猫をかわいがってくれるところ、ごはんをおいしく作ってくれるところ、やさしいところ、強いところ、ぜんぶぜんぶ』だそうです。いやあ、お熱いですねー」
招待客たちから、からかうような声がしきりに聞こえてきた。黒木がたまりかねて、片手で顔をなでた。碧はあっけかんとして、平気な顔をしている。
「その二、相手の第一印象は?」
黒崎がカードをめくった。
「新郎の答えは『なんだこの小娘は(張り込み中に声をかけられたので)』。新婦の答えは『あやしい奴め』。いやあ、完璧に一致していますね。お見事です」
「そんなこともあったなあ」
「ありましたねえ」
黒木と碧はあの日のことを思い出して、笑い合った。
「その三、相手に直してほしいところは?」
黒崎はカードをめくった。黒木はにわかに緊張した。あるのかな、そんなところ。なんだろう。
「新郎の答えは『特にない。強いて言えばお風呂の温度が熱い(四十三度)だが、今は慣れてしまってなんとも思っていない』だそうです」
えー、と招待客たちから声が上がった。
「散らかすとこは?」
碧の友人の一人が、黒木に尋ねた。
「片づけ甲斐があります」
「郵便物溜めるのはー?」
「俺がやればいいだけの話です」
おおー、愛だ、愛。という声があちこちから漏れる。
「続いて、新婦の答えは」
と、カードをめくって、黒崎が一瞬言葉に詰まった。
「えー、『絶倫なとこ』とあります」
ぶっ、黒木が飲んでいた酒を吹き出した。
招待客たちがあはははは、と笑い出した。
「碧ちゃん……」
「だって、始まると長いんだもん。四時間とか」
ぼそっと言った碧の言葉に、黒木は片手で顔を覆った。
「測ったの」
「この前偶然時計を見たら、そうだったんです」
「これについて新郎、弁明は」
黒木は苦い顔で言った。
「毎日とろろを食べさせられていたら、誰だってそうなります」
「あれは獅郎さんのリクエストで」
「だって夏バテ防止にいいと思って」
黒崎がこほん、と咳払いをした。
「そこの新郎新婦、夫婦喧嘩は家でやってくださいね」
あはははは、と笑いが起きた。
デザートのケーキが準備されている間に、指輪の交換になった。
「新婦の指輪は碧さんがデザインしたものだそうです」
碧は黒木の指に結婚指輪をはめようとしたが、思ったよりもきつくてなかなか指に入らない。
「あれ。あれあれ」
「いて。いてててて」
むぎゅーと無理矢理押し込んで、なんとか指に入れた。
碧の指輪は、これはすんなりと入った。よし、うまくいった、と碧がほっとしていると、黒木はいきなり碧の腰にぐっと手をやった。
「えっ?」
そして、思いきりその唇を奪った。
あまりにもその時間が長いので、友人たちが囃し立てる。黒木の腕のなかで、碧が暴れた。
ようやく身体が離れると、黒木はいたずらっぽく碧に笑いかけた。
「もー獅郎さん」
彼は意に介していないようである。
それから、デザートのケーキが運ばれてきた。ここからは、友人たちと記念撮影の時間である。
「碧、指輪見せてー」
「ん、これ」
「きれーい。エメラルド?」
「翡翠」
「お料理、どれもおいしかった」
「だからここにしたの。式場だと、どこも大きすぎて、気後れしちゃって」
「それに、この引き出物なになに? ちっちゃい箱ひとつって、気になるー」
「獅郎さんが、かさばらないってとこにこだわって。だから、真珠ひとつぶ。これでネックレスでも指輪でもタイピンでもご自由にってこと」
「えーでもどこで作ればいいの」
「そんなことも言われると思って作ってくれる工房の連絡先も入れておいた」
「至れり尽くせりー」
「碧らしいー」
「でもドレスも場所も碧らしくていいよ」
「ほんとは黒がよかったんだけど、それは獅郎さんに却下されたの」
「それはさすがにだめでしょー」
「碧の好きな緑で、ちょうどいいじゃない」
「そうそう、だって処女じゃな……」
と言いかけた碧の口を、黒木が塞いだ。
「え?」
「なんでもないですよ」
もがーと暴れる碧を押さえて、黒木はにっこりと笑った。
式が終わり、招待客たちが帰っていくのに、黒木と碧は出口で見送った。
「よう」
そこへ、最後に出てきた客がいた。
高橋だった。
「あ、獅郎さんの彼氏さん」
「だから彼氏じゃないってば」
「お前の恋人はどういう思考回路をしているんだ」
「もう恋人じゃない。奥さんだ」
黒木そう言って、碧の腰に手を回した。碧はそんな彼を見上げて、笑いかける。
高橋はチッ、と舌打ちして、イチャイチャするなと呟き、
「ほらこれ、課のみんなからご祝儀だ。全員、仕事で来られなくて悪かったと言っている」
「なあに、気にしてないよ」
「課長からの伝言だ。十六年に渡って私生活を犠牲にして課を支えてくれたお前に、はなむけだということだ」
「婚姻届の保証人にもなってもらったしな。課のみんなにもよく礼を言っておいてくれ」
じゃあな。高橋はそう言って、帰っていった。
「お金、もらったんですか。元カレさん、いいひとですね」
「あれは元カレでもなんでもない、ただの元同僚」
「ええっ」
「今さらそんなに驚くこと?」
「だって別れろ別れろってしつこいから」
「ああ、あれね」
黒木はちょっと笑って、外を見た。
五月の緑が、風に吹かれてさやさやと揺れている。
「もう、いいんだよ。過去のことだから」
見れば高橋の姿はどこにもなく、花菖蒲が一輪、玄関の外で咲いているのが見えた。
「これからは、未来を見ていこう」
黒木は碧に笑いかけた。
碧は、それにこたえるように微笑んだ。
風が、そよそよと吹いている。
緑がまぶしい。
了
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