第11話(1)
お嬢様が外出しているというのに雷雨が領内を見舞い、しっかりした場所に退避しているかどうかと館の者は肝を冷やしていたが、雨が去り程なくして帰って来たお嬢様は、濡れに濡れている上、膝下が泥だらけになっていた。
帝都から同行してきたメイド達は卒倒しかけ、館は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
とりあえず湯を沸かしに走る者、泥を落とし湯浴みするための水量を相談する者、体調を心配し医者を呼ぶかどうか躊躇う者、入浴後の飲み物は温めるものがいいか火照りを冷やすものがいいかと言い争う者、さまざまな奔走を見て、アレクサンドラは、自分の小冒険が、皆に余計な仕事を増やしてしまったと少々後ろめたい思いだった。
道連れに濡れ鼠になってしまった御者を労い、彼にも湯を、と申し付けてから、アレクサンドラは労わられながら湯を使い、汚れを落として身じまいをした。
全てが終わった頃合いでちょうど夕食時になり、珍しい遠出と雨に濡れる体験、そして固まった思考を揺すぶった示唆、これらを短時間で一気に受け止めたアレクサンドラは、いつもより疲れており、いつもより食欲があった。
用意された食事を、ここまでの滞在とは異なり、あくまで上品にだが全て残さずに、温かい・冷たい飲み物のいずれをも、カップとグラスを空けた。
今日はお早くお休みを、といくつもの手で背を押され、導かれてベッドへ腰をかけると、柔らかいベッドは、行儀悪くもそのまま倒れ込みたくなる引力を持っていた。
おやすみなさいませ、と丁寧な辞儀とともにドアが閉まり、アレクサンドラは一度は瞼を閉じたが、しばらくしてまた持ち上げた。
心地良い疲れが頭から爪先までに満ちていた。
他方で、興奮が残っているためなのか、意識にはもう少し余裕があった。
気を抜けばすぐに眠りに落ちることができる程度だったが、昨日までの寝つきの悪い夜とは明らかに質が異なっている。
どうすればいいのだろう、同じ問いはまだアレクサンドラの中に留まっている。
ただし、その"どうすれば"は、昨日までは打つ手が見つからず同じところを回り続けていたのが、ループから脱出し、ヒントをもとに手段を探しているという、前進の道が残された軌道へとスライドをした。
思いがけない雨のおかげで、普通に生活していれば言葉を交わすこともあるかどうか分からない相手と出会い、領民の1人に過ぎない農夫の呟きに光を見た。
分かりやすくもない、洗練もされていない言葉が、理屈の壁を突き抜けて、心の底に届いた。
何を言うかではなく、誰が言うか。
顔色を見るのではなく、顔を見る。
唱えるように何度も繰り返すうち、いつの間にか意識は途絶えた。
朝も、今までとは異なり、メイドの声がかかるまで目が覚めなかった。
水のグラスと茶とを盆に乗せて、ノックの後入って来たメイドは、普段より血色が良さそうな主人に
「雨に当たられてお風邪でも召されたら、と心配しておりましたが、何事もなくてようございました」
と笑いかけた。
「本当にね。あなたに手間を取らせなくて良かったわ。泥で大分苦労をさせてしまったけれど」
「とんでもない。小さい頃からレディでいらっしゃったので、お身体やお召し物に泥を付けるというお転婆は新鮮でございました」
「まあ」
連れてきたうちの1人であるこのメイドは、アレクサンドラが巻き戻る前から令嬢付きとして長く勤めている者であり、20代後半に差し掛かったばかりの、容姿に優れ、気も利く働き者であった。
10代後半のもう1人は部屋のカーテンを開けている。
「今朝はお顔もお声も明るくいらっしゃいます」
「そんなに違うかしら」
「はい、転地療養に効果がございましたね。田舎の水がお合いになったということでございましょうか」
求めに応じ、グラスを取りやすいように盆を回してベッドのアレクサンドラに近づけたメイドは、心安げに片目を瞑ってみせた。
アレクサンドラは、笑みとともに水を口に含んだが、ふと思い至って、
「でも、オリガ達は早く帝都に戻りたいでしょう」
と問いかけた。
オリガは目を丸くして、「それはそうでございますが、私はお嬢様付きのメイド、お嬢様のご健康が第一でございますよ」と答えた。
他方で、もう1人のカリーナは、もしかすると帰れるのか、と目を輝かせた。
「今日はおよろしいようですが、もう少し様子を見ませんと。油断は禁物でございます」
温かいものもいかがです、と勧められるがままに茶のカップを受け取ったアレクサンドラは、華やかで洗練されたものを好み、帝都の流行に敏感なオリガが、職務上の責任感でそれら全てに蓋をしているように感じられた。
伯爵家のメイドを職業としていることは誇りだ、と普段から宣言している彼女に、でも早く戻れた方がいいでしょう、と重ねて問うのはいかにも愚かだった。
アレクサンドラは、せっかく彼女が締めた蓋が緩まないように、言葉を探しに探して、
「では、一刻も早く良くなるように努めるわ。温かいものを飲んだら、朝食が恋しくなってきたみたい」
とベッドから降りると、オリガは再び「まあ」と驚き、ご快復おめでとうございます、と冗談めかして答えながら笑みこぼれた。
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