第10話(1)
幹線ではあるが未舗装の道路を、砂埃を立てて走る馬車に、アレクサンドラは揺られていた。
いくら考えても解決策には辿り着けなかったが、書類も実務も眼前にはない環境では悩みが膨れ上がる材料に乏しく、どうすればいいか、という思いだけが溜まって全く建設的ではなくなったため、彼女には珍しく開き直って、領内を見てみたいと執事に頼んだのだった。
新しいことを見聞きしている間は、受け入れることに専念するので、悩みが幅を利かせる余地はなくなる。
馬車は森に沿って緩やかに走っており、左側は一面の小麦畑であった。
収穫は夏だということなので、刈り入れにはまだ少し早い畑は金色を含んだ薄茶色の波を作り、時折何かが穂先の中を走った後のような大きな揺らぎが訪れている。
畑に出ている農夫の姿もちらほらと見え、今は何の作業をする時期なのかと、アレクサンドラは飽かず眺めた。
まもなくぶどう畑に辿り着く頃になって、遠雷を聞いた。
振り返るといつの間にか、館の方角、背後の空に黒い雲が立ちこめている。
それほど遠くないからということで、付き添いを断り現地の御者と2人で出かけていたアレクサンドラはあまり深刻には考えず、引き返すのは得策ではないが、いつものように傘を差しかけてくれるメイドはおらず、初めて雨に当たるかもしれないと少し期待していた。
他方で、唯一の随行者である御者はお嬢様を濡らしてしまう、と酷く慌てて、近くに村があるのでそこに参ります、と馬に激しく鞭を入れ、馬車は決して平坦ではない道を疾走し始めた。
馬車は途端に激しく揺れ、振り落とされないように淵にしっかりと掴まりながら、これも初めての経験だったアレクサンドラは、今、自分が雷と雨から逃げていることに心が躍り、また逃げる力を持っているこの乗り物を羨ましく感じた。
結局、村に辿り着いたところで大粒の雨が馬車を叩き始めてしまい、御者が村の軒先の1つを借りる承諾を取り付けて来るまで、アレクサンドラは大きな木陰に立って雨を凌いでいた。
凌ぐと言っても完全ではなく、葉が受け止めかねた雫が、アレクサンドラの頭や肩に時折零れ落ちてくる。
持ち込んでいた日傘は、あまり効果はないだろうが、さらにずぶ濡れになろうとする御者に押しつけた。
どんどん濡れているところが増えていき、予想外の事態になったと溜め息は吐いたが、それほど不快ではなかった。
雷鳴と地面で跳ね上がる雨脚の凄まじさの中、濡れ鼠になった御者が、アレクサンドラのための傘を借りて滝の中を戻って来た。
差しかけようとする御者を自分で差すからと制止し、受け取った傘とともに木陰から出ようと裾を摘まんだが、剥き出しの地面は小池のようになっていて、爪先立ちでももはや水泥を防ぐことはできなかった。
家主は、どうぞ中へと勧めている、と御者が言ったが、見る影もなく汚れた脚を見、家の中を汚してしまうと躊躇っていると、頭に花柄の被り布をした中老の女性が、
「どうぞお2人とも中へお入りくださいまし、粗末なところで申し訳ごぜえませんが」
と拭く物を手に戸口から顔を出した。
アレクサンドラは、自分が入らないと御者もそれに倣わなければならないことに気がつき、好意をありがたく受けることにした。
大きな布は新品ではなく、何となく草のような匂いがしたが、ハンカチでは拭き切れないと思っていたので遠慮なく、上半身を中心に使わせてもらった。
「どうぞどうぞ暖炉の近くに。火を入れましたで」
火が着き始めたばかりの暖炉のそばには丸椅子が据えられており、床を水浸しにしてしまうと内心で恐縮しながら、布にできる限りの水を吸い取らせてから、アレクサンドラは椅子を借りた。
広くない室内には、大きめのテーブルに複数の椅子、その1脚に、出迎えてくれた女性よりは年嵩の、粗末な衣類を着けた男性が座り、鎌の手入れをしながら客を一瞥した。
「お邪魔をしてごめんなさい、アレクサンドラ・イワーノヴナと言います。拭く物をありがとう」
濡れ鼠にカーテシーでは格好が付かないので、布を取り除け、会釈に膝を少し折るだけの挨拶をすると、2筋の視線がぽかんと、アレクサンドラに釘付けになった。
「あれ、何とまあきれいなお嬢様だあ。伯爵のお嬢様は大層な美人だって聞いてはいたけども。なああんた」
あんた、と話しかけられた男性は、目を丸くしながら頷き、天使様だの何だのと、もごもごと返事らしきものを喋っている。
夫婦はミハイルとマリアと言った。
娘夫婦と孫達と暮らしているが、娘夫婦は帝都に出かけ、孫は遊びに行ったという。
この雷と雨では帰って来るのに難儀するだろう、とアレクサンドラが心配すると、
「通り雨でごぜえますよ、すぐ止みますでしょう」
とマリアが、私達と同じものを差し上げるのは恐縮ですが、とアレクサンドラと御者に茶を振る舞った。
アレクサンドラが日常口にするものとは差があったが、場所柄に合った気取らなさを感じ、濡れた身体を温め和らげてくれた。
「お嬢様は、何でまたオルトへお出でなすったのですか?」
マリアの純粋な問いに、アレクサンドラは密かにたじろぐ。
領主の娘が領地を訪れることは、通常なら何も珍しくなく、敢えて質問するようなことでもない。
しかしアレクサンドラは領地を訪れなかった期間が長すぎ、領民には間違いなく親しく思われていないだろう。
マリアはどう思っているかは見当が付かないが、一族の領地を10年以上も顧みない後継者のことを、田舎は性に合わないとお高く止まっていると眉を顰められていても甘んじて受けなければならない。
密かに胸を痛めながら、アレクサンドラは、悩みが度を超えて心の均衡を崩してしまい、転地療養に来ていると簡潔に説明した。
「あらら、それはいけねえ。ぜひゆっくりなさってください、療養ならオルトはぴったりでごぜえますよ、何もかものんびりしておりますから。跡継ぎのお嬢様なら、さぞ大きな問題でお悩みなんでごぜえましょう」
「いいえ、そんなことはないの。ただ……どうしたらいいのか答えを探して、悩みすぎてしまって」
「んまあ、美しいお嬢様が。どういうお悩みなんです?うちのは口数は少ねえですが、答え上手で評判でごぜえますよ」
御者が無礼な、といきり立つのをアレクサンドラは押し留める。
農婦はアレクサンドラを心配し、話の流れで尋ねただけで、平時ならともかく、ここは借りている軒の下であり無礼と言うのはあまりにも高飛車で場を弁えていない。
もっとも、アレクサンドラが貴族であるか否かにかかわらず、初対面の相手に教える筋合いはないのだが、答え上手と聞いて気持ちが揺らいだ。
それくらいアレクサンドラの悩みは深かった。
降り止むまでのつれづれに、少しだけなら、と魔が差した面もあった。
『指示に素直に従ってくれない者がいる。』
『指示の内容は正しいと思うのに、激しい反発に合う。』
アレクサンドラは工夫して、巻き戻る前に経験したことを、"今"起きていると脚色し、また公証での出来事と特定せずぼかして語った。
御者も、帝都から着いてきた者ではないため、もし他の誰かに漏らしたとしても、お嬢様が仮の出来事として話したに過ぎないことと聞き流されるだろう。
「ちょっとアンタ、どう思う」
マリアに催促されたミハイルは、聞いていなかったのか、と思われるほどに長い時間黙っていたが、鎌から目を離さずにぼそぼそと呟いた。
「お嬢様が、王様の言うことを聞くのは何ででございましょうや」
返ってきたのは答えではなく質問で、しかも突飛な内容にアレクサンドラは戸惑いを隠せなかった。
それでも、思いついた理由をたどたどしく紡いでみる。
「それは……陛下が仰ることだから、かしら」
「王様がこうしろと言ったら何でも、でごぜえますか」
「そうね、伯爵家は王家にお仕えしているし」
「そうすると、中身でねくて、王様相手だから言うことを聞くっていうことでごぜえますな。王様が何を言っても、王様だから言うことを聞くと」
「……陛下はそもそも、無理難題は仰らないはずだから」
「それでも、誰が言ったかをまず大事になさるんでしょう。世の中は皆そうでごぜえます。貴族様も、私ども農民も。何を言ったか、ではなく誰が言ったか、を気にするもんでごぜえますよ」
胸音が嫌なリズムで跳ねる。
事情を知らない農夫が皮肉を言っているのではないことは重々承知だった。
その上で、頭の回転が早く想像力豊かなアレクサンドラは、農夫の言うことを突き詰めるとどういう結論に辿り着くのかが予想できた。
穏やかに重ねた下の手が、湿ったスカートをきゅっと握る。
さっき潤したばかりの喉が干上がっていくのを感じたまま、アレクサンドラはどうしても確認を、答え合わせをしたくて、口を開いた。
「では、貴族でも……貴族の身分を持っていても、言うことを聞いてもらえない場合は」
「そしたら、そのお人のお人柄によっぽど問題があるんだべ」
答えは合っていた。
薄緑のスカートドレスにぐっと大きな皺が寄った。
補佐として問題点を指摘し、改善の指示をするのは当然の責務だと今でも疑っておらず、内容も正しかったとは今でも思っている。
しかし責務を全うしようと行動すると理解が得られない、そしてその原因はアレクサンドラの人間性にある、そう突き付けられるのはさすがに辛かった。
補佐であり後継者であるという立場と、伯爵令嬢の身分、公証の人間を従わせることができる要素だと思っていたものは、何の役にも立たなかったと指摘されたようなものだった。
いけないのは、言い方だろうか、言うタイミングだろうか、それとも両方か。
または見落としている何かがあるのだろうか。
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