第6話(2)
アレクサンドラの消極性は、家業にも現れた。
巻き戻る前と全く同じ時期に、父伯爵から実務を見たくはないかと誘われたアレクサンドラは、記憶からそろそろだと警戒はしていたが、身体が強張るのを止められなかった。
崩落への本編開始の合図、若輩者のお嬢様が公証の現場を引っ掻き回す、愚かな時間が始まってしまう。
ガツンと、後頭部への衝撃が再び脳を揺らす気がして、アレクサンドラは、震える息で深呼吸をし、
「まだ、早くはないでしょうか……私はまだみじゅく者で……自信が、ありません」
と、か細く答えた。
父伯爵は、知識習得には貪欲な娘が、謙虚さを示しているのだと頼もしく思った。
そこで微笑みながら、「大丈夫だよ。サーシャは飲み込むのが速い、もうすぐ教えるものがなくなる、と先生が嘆いていた。勿論手放しで褒めていたが」と励ました。
「本の上でだけ物語を動かすのは、面白いが盤面が狭いだろう。現実はマス目も随分と多いし、駒の特徴は一定していない。
知識を現実に降ろすとどうなるか観察してごらん。新しい発見がたくさん生まれるだろう」
「でも、おとうさま……私のような子どもが、その、関わることを、大人のみなさまは、ふゆかいに思われたりしないでしょうか」
「しないさ!お前が我が家の後継者であることは、誰もが知っていることだ。英才教育だと皆には申し伝えるし、そもそも異を唱える権利はない。
それとも、アレクサンドラは後継者になるのは本当は嫌か?」
「いいえ、とんでもないことです」
プラチナブロンドを揺らして頭を振る愛娘の仕草が、久しぶりに年相応に感じられて、父伯爵は殊更優しく一押しした。
「臆しているなら、何が行われているか、私のそばで見ているだけでもいいのだよ。なに、怖いことは何もない」
しばらく躊躇った愛娘が、最終的におずおずと頷くのに、父伯爵は満足げに頷いた。
アレクサンドラの方は、承諾はしたものの、本意ではなかった。
後継者となる覚悟と、家業を維持しなければならない責任感だけが、嫌だと口走りそうになるのを辛うじて踏み止まらせた。
オルロフ伯爵家で公証を受け継いでいくには、嫡子であるアレクサンドラが当主になるのは決定事項だ。
巻き戻る前と同様、やはり弟も妹もできないのだろう。
実務を見たくないというのは我が儘の極みであることを当然理解していてなお、アレクサンドラは気が進まないを通り越して行きたくないと、帝都内の伯爵宅から、公証の庁舎に向かう馬車の中で考えていた。
公証の現場に、現実に触れたくはない、あの時実務に感じた不具合と、改善する意欲がないことへの不満を抱いてしまうだろう。
口を出す勇気は失われているが、膨大な知識を備えた身は、そもそも不具合に気づかないでいられるほど器用ではない、自分の中にもう1人、鈍い人格を作れるほど便利にできていない。
きっと、年を経るごとに、葛藤が胸の内に溜まっていくのだろう。
そういう負の感情は、必ず最後に、ガツン、というあの日の再現で、底へ突き落されて一旦おしまいになる。
その度に、アレクサンドラは血の気が引いて指先が酷く冷たくなるのを感じるのだった。
大通り沿いに聳える公証の庁舎は、他の建物と同じく和音の比例を取り入れた様式の石灰石の建物で、没個性的であったが、入り口のアーチに刻まれた"公証"の名称の前に、ごく小さく添えられた王冠と鷲が威厳を示していた。
階段を数段上がり、開け放たれている正面ドアを潜ると、天井が高く広いホールは相変わらずざわついていた。
番号の木札を手に順番を待っている者、個々のテーブルで相談をしている者、正式な認証を始めるため別室に案内される者、それほど混雑はしておらず、身分は相変わらず高い者の方が多いように見えた。
「ここが公証だよ。活気があるだろう」
巻き戻る前と何ら変わらない館内に、アレクサンドラは父の言葉に合わせて見渡すふりだけをする。
木札を渡す受付が、トップハットを目深に被った紳士が旦那様であることに真っ先に気が付き、慌てふためいて職務を放り出し挨拶をしようとするのを、片手を上げて制する。
そのままホールの奥へと入っていき、何名もの職員から進路を譲られ最敬礼を受けながら階段を上がり、豪奢な廊下を歩いて、これもまた見知った公証長室へと案内された。
こちらも、厚い絨毯に黒檀の書斎机、決裁待ちの書類が入っている蓋なしの大きなレターボックス、ペンとインク壺、公証長の印、金銅の呼び鈴、机の背後の本棚が記憶と同じように配置されている。
「ここが私の執務室だ。私の、そしてサーシャのね」
父伯爵は、娘を肘掛け椅子に座らせ、娘の顔が天板から半分しか出ないことを至極可愛らしいとにこにこしながら、
「今から上役達が挨拶に来るよ」
と告げた。
たちまち緊張を示し、椅子から降りようとする娘を押し留めると、程なくしてノックの音がして、上役達、各部門の長と次席とが室内に入って来た。
この場面は巻き戻る前にもあったが、恭しく立ち並んだ上役達の中には、当然ピョートルの姿はなく、アレクサンドラは内心安堵した。
ピョートルを引き上げたのはアレクサンドラなのであり、これは引き上げる前の時間軸なのだから怯える必要はなかったのだが、彼女の後頭部がごり、とひびが入ったかのような幻聴があった。
「私の娘、アレクサンドラ・イワーノヴナだ。将来の公証長となる。徐々に実務を覚えさせていくから、そのつもりで」
父伯爵が貫禄のある声で呼び出しの意図を述べると、並んだ1人1人が氏名、職位と担当職務付きの丁重な挨拶を行った。
もちろんアレクサンドラは顔も名前も知っている者達であり、その都度軽く会釈をしながら、そういえばピョートルは今、ホールのどこかで働いているのだろうかと上の空で自己紹介を聞いていた。
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