第17話 灯る場所
陽射しが傾き始めた午後のこと――。
紗希は窓の外に手を伸ばし、そっとカーテンを開いた。まぶしい光が部屋に差し込む。見慣れた灰色の町並みにも陽射しの色が彩りを与えていた。
誠が仕事に出かける支度をしていた。
ボロいジャンパーを羽織り、玄関で靴ひもを結ぶ。
「紗希、今日は遅くなる。飯はちゃんと食えよ」
「うん……だいじょうぶ」
悠真は仕事の前に台所でコーヒーを煎れながら、ちらと紗希を見る。
「留守番、そろそろ飽きてきたんじゃねえか?」
紗希はかすかに首を振る。「……ううん。ここが、一番ほっとするから」
二人が出払うと、家の中に静けさが戻った。
だが、紗希の胸の奥では、小さな鼓動が早くなっていた。最近、ときどき思い出すのだ。
りりかが言っていた「ちいさな勇気」のこと、あの事件の夜、恐怖で動けなかった自分のことを――。
絵本のページをめくっても、物語の主人公たちみたいに前には進めない。けれど、昨日は家の外の石段に座ることができた。それは紗希にとって、大きな一歩だった。
トタン屋根を雨粒が叩く。遠くから街のざわめきが聞こえる。
“もし”という思いが膨らむ――もし、あの空の青の下を自由に歩けたら。もう、ただ守られるだけの存在でいたくない。しかし自分にできることは限られている。
*
誠と悠真が歩く路地裏は、かつてのように血なまぐさい匂いに満ちてはいなかった。
それでも、弱者につけこむ古株のチンピラや、貧しさにつけ込む詐欺師は後を絶たない。
「……なぁ悠真。あの店の親父、最近また脅されてるらしい」
「今度はどこの連中だ?」
誠が簡単なメモを取り出す。悠真が苛立った顔で言った。
「あんだけ楓さんが締めたのにさ。この世界は表も裏も、関係なくどっかからゴミが這い出てくる」
この町に正義はない、それは分かっていた。
だからこそ、彼らは表の秩序では救えないものを、裏からではあるが自分たちで守ろうとしていた。
短髪の少年が路地裏で蹲っている。「なぁ、手ぇ貸してくれよ」と見知らぬ大人に金をせがまれる姿。二人は歩み寄り、さりげなく少年を背中に隠す。
「そのあたりで手を引けよ」
「ここは俺たちの町だ」
誠と悠真の声は低く、威嚇でなく忠告だった。
怯えた大人は睨みを効かせ、やがて消えていく。 少年の肩をぽん、と軽く叩き、誠は優しく言った。
「家に帰れ。誰か待ってるだろ」
少年は何度も頷きながら、駆けていった。
こうして名が知れるようになっても、誠と悠真が拳をふるうのは本当に必要な時だけ。
“違う形の家族”を、町のどこかに増やしていく毎日。
*
その頃――
アパートの前に、ひとりの女性が立っていた。
蝶野りりかだ。彼女は今日も紗希に会いに来てくれた。
「こんにちは」
玄関越しの声に、紗希は最初応えをためらった。でも、自分自身に小さく「だいじょうぶ」とつぶやいて、扉を開けた。
「お邪魔してもいいかな?」
りりかは可愛いピンク色の髪に映える、まぶしいくらいの白いワンピース姿。小さな菓子袋を差し出す。
紗希は受け取ると、一緒に縁側に座る。
「このあいだ、外に出たって誠くんが教えてくれたよ」
「……ほんのすこしだけ」
「すごいことだよ。それだけで世界が少し広がるから」
ふたりはしばらく、天井近くに残るシミを眺めながら静かにお茶を飲んだ。りりかの問いかけはやさしい。「何か、してみたいことはない?」
紗希は考える。“なにか”は分からない。ただ、誠や悠真のように、誰かに「ありがとう」と言われる瞬間を想像してみる。
「……わたし、お兄ちゃんたちみたいに、誰かの“力”になれるかな」
りりかは手を握る。「もちろん。最初は、小さなことからでいいんだよ」
ちょうどその時、空き家の外で猫の声がして、一匹のガリガリの仔猫が、泥だらけで縁側に上がりこんできた。
紗希は目をぱちくりさせた。「この子、どこから来たんだろう…」
りりかは「きっと、帰る場所を探してたんだよ」と微笑む。
紗希はおそるおそる猫に手を伸ばす。仔猫は警戒しつつも、その小さな指先に鼻先を寄せた。
「……あったかい」
紗希の心に、ごく小さな自信が灯った気がした。
*
日が沈むころ、誠と悠真が帰宅した。
玄関には、猫と紗希、そしてりりかの姿。
「おお、賑やかじゃねえか」
悠真が茶化し、誠は「誰かを助けて帰るのは、お前が一番早かったな」と紗希をなでた。
紗希は微笑む。「この子、ごはんほしいみたいで……」
誠と悠真は顔を見合わせ、猫用の皿を用意する。
「家族が増えちまうな」
冗談めかして誠が言うと、紗希は少し不安げな顔をする。「でも…ここにいたほうが、この子もしあわせ?」
りりかが静かにことばを添える。「紗希ちゃんがそう思えるなら、ここはもう“帰る場所”なんだよ」
みんなで小さな夕食を囲む。不格好な食卓、ガラクタだらけの部屋――けれど、誰かが涙をこぼす場所じゃなくなった。
*
夜、りりかが帰るころになり、玄関先でこう問いかけた。
「――紗希ちゃん、自分を信じてみて。誰かのために勇気を出せたら、それは世界を変える一歩だから」
送り出したあと、紗希が部屋に戻ると、普段より心が静かだった。
とうとう自分も、小さくても誰かに必要とされることができた気がした。
その夜、三人は布団に並びながら、仔猫の寝息に耳をすませる。外の世界はまだ荒れている。でも、この家の中だけは、誰にも汚せない小さな光が灯ろうとしていた。
――裏社会に名が知れ、“後戻りできない”と悟った兄たち。
守られるばかりだった紗希が、仔猫に手を差し伸べた。
明日もきっと、試練は続く。
けれど三人は、ひとつの家族として前を向く。その小さな歩みが、また新しい帰る場所を照らし始めたのだった。
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