Day 2 〜崩れ始めた幸せ〜

第6話 「死の影が迫る」

 


「味が……よく分からなくて……」


 エマが放った言葉の意味を、瞬時に理解する。


 これは聖女の浄化が進行したことによる、感覚の喪失。


 彼女から――『味覚』が消えたのだ。



「……話は聞いてたから、分かってはいたけど。本当に何も感じなくなっちゃった……」



 必死に笑おうとしている彼女の姿に、胸が締め付けられていく。


 浄化が進行することで聖女から失われるのは――『味覚』『聴覚』『視覚』『嗅覚』『触覚』『感情』……そして『魂』の七つ。


 魂の喪失は、最終日に聖女が死ぬことを意味している。



 どの感覚から失われるかは決まっておらず、聖女によって異なった。


 よりにもよって――


 食事に小さな幸せを感じていたエマから、最初に奪われたのが『味覚』だなんて。


 どれだけ嘆いても、失った感覚は二度と戻らない。


 過去の聖女たちは、感覚が奪われる度に涙を流して絶叫していた。



 視覚が消えれば、暗闇に取り残される。


 触覚が消えれば、何にも縋り付くことはできない。



 聴覚の失った耳は、ただの飾りとなり――孤独が彼女たちの精神を蝕んでいく。


 『浄化』という生易しい言葉では表せない。


 そんな地獄を、何回も見てきている。




 何か、声をかけたい。


 でも……その資格はあるんだろうか。


 彼女に儀式を施したのは――自分なのに。



 「あーあ!」


 重々しい空気を、明るい声が弾き飛ばす。


 目を向けると、そこにはパンを頬張るエマがいた。



「最後まで美味しく食べたかったのになぁ……。でも、まだ匂いは分かるから! ……うん。美味しそうな良い匂い!」


 パンに顔を近付けて香りを楽しむ彼女に、ルークは呆気に取られた顔をしていた。


 エマとは出会ったばかり。


 しかし、観察をしていると違いに気付けるようになってきた。


 無理やり空気を変えようと、ずっと喋り続けていることも。ぎこちなく笑った顔も。


 その手がまだ、小さく震えていることも。


 何か……こんな僕でも、彼女にしてあげられることはないだろうか?



「ねぇ、ルーク。このパンってどんな味が……」



 エマが話し掛けようと隣を見ると――ルークは持っていたパンを一心不乱に食べている。


 頬が膨らむほど頬張り、黙々と咀嚼をする姿にエマは唖然としていた。




「……そ、そんなにお腹空いてたの? 良かったら他にも――」


「小麦とバターの味がする」


「……え?」


 二人の間に訪れた静寂。


 エマが驚いていることにも気付かないほど真剣な表情で、ルークは何かを考え込んでいた。


「あとは卵と、塩。塩辛さの中に、少し甘みがあるような……」


「ふふっ……」


 エマに笑われて気付く。


 味に集中しすぎて、周りが全然見えなくなっていた。


 嬉しそうにエマが笑っているのが、何故だか分からない。


 それでも――


「……ルーク、ありがとう!」


 そこには変わらない彼女の姿があって、静かにルークは安堵した。


 揺れるカーテンの先。


 遠くから二人を見つめる視線に一切気付くことはなく、穏やかな陽だまりの中で――ルークは微笑みを浮かべていた。

 


***



 「……もう休んだらどうだ?」


 すっかり日が落ちた庭園で、ルークは椅子から立ち上がった。


 透き通ったカーテンが揺れ、天蓋から月の光が降り注いでいるのが見える。


 夜なのに、人の顔が見分けられるほど庭園の中を照らしていた。



 今日だけでも、エマとはたくさんのことを話した。


 彼女の身の上や小さな兄弟の話。好きなお菓子の話や、住んでいた街の話も―― 



「……侍女を呼んでくる」


「――待って」


 立ち去ろうとするルークの手を、エマが掴む。


 彼女の細い手は、昼間触れた時よりもひんやり冷たくなっていた。



「手が冷たい。もう部屋に……」


「少しだけ! もう少しだけでいいから、話そうよ」


「たくさん話したと思うが……?」


 

 無口なルークにしては、かなり言葉を交わしたほうだと思う。

 

 まぁ、ほとんどエマが一方的に話していることに相槌を打っていただけなのだが――



「ねぇ、見て。ルーク」


 彼女が指差す方向には、庭園に咲き誇る青い花畑。月光に反応して、淡い光を放っていた。


 エマに手を引かれ、花畑に近付く。


 彼女の勢いに引っ張られたルークは、並んでしゃがみ込んだ。


 まじまじと近くで花を観察するのは、初めてだった。

 

 夜の風に乗る、草花の匂い。


 ルークがひとりで住む森とは違う――爽やかな香りがした。



「すごく綺麗ね。いい匂いもするし……。なんて名前の花なんだろう?」


「……これは星夜草レイシー。夜に発光する花だ」


「名前まで綺麗なんだ。なんだかルークみたい」


「僕……?」


「だって、見た目も名前も綺麗だし! それに――レイも、ルークも。この国では『光』を表すわ」



 出会った初日に、エマから名前を褒められた時のことを思い出す。


 自分の名前に対して、意味なんて考えたことはなかった。


 『光』――暗闇を照らす希望の象徴。


 そんな大層なものに、僕がなれるわけないのに。




「君って……。何でもすぐに褒めるよね」


「そう? 思ったことを言ってるだけよ」


「……簡単に言い過ぎじゃないか?」


「ううん。だって――」

 


 月明かりの下。


 柔らかいエマの笑顔がよく見える。



「――いま、言わなきゃ。……『あの時、言えば良かったぁ!』って後悔したくないの」



 息を呑むほど、その姿が儚く見えた。


 感覚の消失を経験したばかりなのに。


 君の儚さや強さを、見ているだけで胸が苦しくなる。


 エマと繋いだ手が、微かに強く握られた。




 いま――僕が伝えられること。


 君にしてあげられることは一体なんだろう。



「だから、ほら。嘘付いたりなんかしてないよ? ルークを褒めたのも嘘じゃ――」


 一生懸命、空虚を埋めようとしている君の姿が。その紫の瞳が。


 君の素直な心が、ものすごく――



「……綺麗だな」


 ルークには、清らかで美しく見える。

 


「なっ……!」


 明らかに、エマの落ち着きがなくなった。


 目が全く合わなくなったし、何かよくわからないことをブツブツ言っている。



「もう! ……サラッとそういうこと言わないでよッ……なんか、ずるい……」


「……? 君と同じことを言っただけなのに」


 『ずるいって何が?』と聞き返しても、彼女は頑なに教えてはくれなかった。


 嵐のように『もう寝るからね、おやすみ!』とエマの手が離れていく。


 その後ろ姿を見送りながら、彼女の温もりが残る自分の掌を見つめる。


 もう繋いでいないのに……まだ温かい。


 不思議な感覚だ。



 彼女の余韻を感じながら、静かに金の懐中時計を胸元から取り出す。


 僅かに視線を落とした刹那。口元まで運び――摘みを押した。



『二日目、聖女に変化あり。味覚の喪失を確認。……観察を、続ける』



 ……自分の役目を。


 観察者であることを忘れてはいけない。


 感情の揺らぎに目を背けることになったとしても――


 彼女はいずれ、死んでいく運命なのだから。


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