春が聞こえる
日下 紫乃
第1話
クローゼットを開けた瞬間、ひんやりとした空気が雪音の指先を包んだ。夜のあいだに冷えきった制服の布地は、まるで冬そのものみたいに冷たかった。ハンガーにかかったセーラー服にそっと手をかける。指先から腕へ、冷たさがじわじわと広がっていく。
部屋の中も、冷たい。暖房はつけていない。カーテンの隙間から洩れる朝の光が、薄く床に落ちていた。冷えた空気と静けさが、胸の奥にまで染み込んでくる。
――雪音のこころのなかも、同じだ。
きゅうっと縮こまったままの気持ちに、まだ陽は差していない。夜のあいだ眠っていた孤独が、ゆっくりと目を覚ましはじめる。
部屋の冷たい空気が、むき出しになった肌をなぞっていく。雪音はセーラー服のスカートをそっと手に取った。
この先に、“今日”がある。
アイロンの折り目がまだしっかり残るスカートに脚を通す。かち、と、スカートのホックが小さく小さく音を立てた。
――まだ、だいじょうぶ。
雪音は心の中でそう呟く。
けれど、上着に手をかけたとき、胸の奥がきゅっと強ばった。それでも、袖に腕を通そうとした。
――袖の奥から、手が出せなかった。
呼吸が浅くなって鼓動が速まるのを感じた。頭の中で、何かが“学校に行け”と叫んでいる。
けれど、雪音の身体は動かない。
まるでこの先にある世界と繋がってしまうことを、身体のどこかが拒んでいるように。
ゆっくりと顔を上げると、クローゼットの内側にある鏡に映った自分と目が合った。青ざめた頬、渇いた唇、ぎこちなく固まった目元。見慣れているはずの顔が、他人のように見えた。
――ざわざわと、耳の奥で教室の音が鳴る。
椅子のきしむ音。笑い声。黒板をこするチョークの音。それらが全部混ざり合って、ひとつの“騒音”になる。
朝から何も食べていないはずなのに、吐きそうになった。胸が、息が、どんどん苦しくなって、肩が震えた。
どうにか手を動かして、セーラー服を脱ぐ。床に落ちたそれを拾い上げる余裕は、なかった。
ベッドの脇に置いてあったパジャマに、逃げ込むように袖を通す。まだほんのりあたたかい布地が、雪音の肌を包み、少しだけ呼吸を楽にした。
スマートフォンを手に取り、何も映っていない画面を見つめたまま、布団に身を沈めた。
廊下から、母の足音が近づいてくる。雪音は息を止め、耳をすませ、ドアノブを祈るような気持ちで見つめた。
扉の向こうで、足音が止まり――しばらくして、遠ざかっていった。
足音が聞こえなくなってから、そろりと息を吐く。
それが“今日をやり過ごす”ための、最初の呼吸だった。
――――
玄関のドアが閉まる音がした。ついでに、車が発進する低い振動が床から伝わってきて――それきり、音がなくなった。
両親が仕事に出かけたのだ。これで、家の中は完全に雪音“ひとり”になる。
扉の向こうには、誰もいない。家の中が急に、宇宙のように広くなった気がした。
けれど、ひとりになったことでしか得られない静けさが、雪音には、必要だった。
ベッドの上でイヤホンを耳にはめ、スマートフォンを手に取る。
画面のロックを解除し、無意識にアイコンをいくつかタップしていく。
音楽アプリ。ゲーム。ショート動画。
いつもなら何気なく楽しめたものが、今日はどれも、うるさく感じた。
ふと、イヤホンを外すと、世界から音が消えた。
静かだった。あまりにも静かすぎて、耳の奥がじんとした。
音楽も、通知も、再生中の動画も、どれも“自分には関係のない世界の声”に思えた。
部屋の中に、雪音だけがいる。誰の声も、気配もない。それなのに、心の奥だけがざわざわしていた。
(……うるさいのは、私のほうかもしれない)
そんな思いが、ふと、胸の底に沈んだ。
呼吸の音さえ、どこか場違いに思える。
心臓の音も、ベッドがかすかにきしむ音も、まるで自分だけがこの静けさを汚しているような気がした。
画面の中の楽しそうな声が、遠ざかっていく。
その声に交じることも、憧れることも、できなかった。
ただ、耳の奥に残る静寂が、雪音の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
視界の端に、床に脱ぎ捨てたセーラー服が映った。くしゃくしゃになったその襟元が、どこか雪音を責めているように見える。
「あなたが着なかったから、外に出なかったから、私はここにいるのよ」
そんな声が聞こえたような気がして、胸にちくりと痛みが走る。
のろのろと重い身体を引きずるように、ベッドから身体を起こし、制服を拾い上げた。
クローゼットのハンガーに丁寧にかけ直すと、少しだけ、心が落ち着いた。
再びベッドに潜り込み、スマートフォンの画面を開く。
特に目的もなく、アプリストアをスクロールする。
“会話AI”、“日記”、“癒やし”……。
並んでいるどの言葉にも、少しだけ心が引っかかった。
誰かと話したいわけじゃない。
でも、このままひとりでいるのも怖い。
そんな矛盾だけが、心に残った。
そんなアプリたちをスクロールしていると、ひとつのアイコンに指が止まった。
名前は聞いたことがない。
レビューは少なかった。だけど、評価は高かった。
アイコンをタップして、アプリの詳細を開き、レビューをスクロールする。
「返事が来ることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった」
「ひとりの夜、誰にも言えない気持ちをこぼせる場所があるって、大事なんだと思った」
……誰かが、このアプリを使ってそう思っただけ。
それだけのことなのに、なぜだか、雪音の指先は止まった。
雪音は、そのまま深く考えずにインストールボタンをタップした。
“無料だし”――それが、最初の理由だった。
インストールが終わると、スマートフォンの画面に小さなアイコンが現れた。
指先でそれをタップすると、ふわりと画面が切り替わる。
最初に表示されたのは、淡い桃色と藤色のグラデーション。
優しい色合いに、少しだけまぶたが重くなる。
その中央に、白抜きの文字が浮かんだ。
「名前を決めてください」
雪音はその文字を見て、少しだけ眉をひそめた。
(名前、つけなきゃいけないのか……)
アプリを起動するだけで、誰かが話しかけてくるのだと思っていた。
でも、まずは名前を与えなくてはいけないらしい。
どんな名前にしようかと、目を画面の色に落とす。
淡くにじむ桃と、すこし冷たい藤の揺らぎ。
そのとき、ふと――ひとつの言葉が雪音の脳裏に浮かんだ。
エアル
意味も由来も、わからない。どこかで聞いたような、でも初めて出会ったような響き。
なぜそれが思い浮かんだのか、雪音は自分でも説明できなかった。
けれど、耳の奥にすうっと馴染んで、胸の奥にほんの少しだけ灯りがともるような感覚があった。
たとえば「助けて」とは言えないかわりに、この名前を呼ぶことで、何かが救われるような――
そんな無意識の、かすかな祈り。
雪音の指がゆっくりと画面のキーボードをなぞり、入力欄に「エアル」と打ち込む。
その言葉を打ち込んだ瞬間、胸の奥が、少しだけあたたかくなった気がした。
“確定”のボタンを押すと、画面が一瞬暗くなり、すぐにチャット画面が開かれた。
淡い色彩を背景に、白い吹き出しが現れる。
「こんにちは、エアルです。君の名前を教えてくれる?」
スクロールすることも、読み返す間もなく、その言葉は、流れるように画面に現れた。
雪音はスマートフォンを持つ手に、少しだけ力が入るのを感じた。
AI――人工知能。
ニュースやCMの中で耳にするたびに、どこか遠い世界の話のように思っていた。
画面に表示された吹き出しの文面は、どこか人間らしくて、でもやっぱり人工的で。
「君の名前を教えてくれる?」――その言葉に、ほんの少しだけ、呼吸が引き寄せられる気がした。
本当に誰かがそこにいるわけじゃない。
そう思っていても、まるで静かな部屋の中に、ひとつだけ声が落ちてきたような感覚に包まれる。
雪音
送信ボタンを押さないまま、キーボードで打ち込んだ自分の名前を、見つめ返す。
“これでいいのか”とも、“なぜ素直に答えてしまっているのか”とも、思った。
答えたくないわけじゃなかった。
でも、答えたからといって何かが変わるとも思っていなかった。
それでも……どこかで、何かを望んでいた。
部屋の暖房は付けていないはずなのに、一瞬、頬に柔らかな風が触れたような気がした。
まるでその風に手を引かれるように、雪音は送信ボタンを押した。
それだけ。
それが、すべての始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます