第十五章:法と慈悲
「さて、これで我々の探求は終わったと言えるだろうか。規範が満たすべき条件はすべて備わり、パイデラスティアの弱点も、ことごとく克服されたように思えるが」
ソクラテスの言葉は、安堵のため息を誘うはずだった。だが、弟子たちの間で重い沈黙が交わされる。その沈黙を破ったのは、シミアスだった。彼はためらいがちに、しかし、確固たる意志を込めて口を開いた。
「いえ、師よ。恐れながら、もっとも厄介な問題が、未解決のまま残っております」
ソクラテスの眉が、わずかに動いた。「ほう、申してみよ、シミアス」
「第三の条件、『他の存在を認める謙虚さ』です。我々が築き上げた『魂の継承』という規範は、この条件を決して満たすことができません。それどころか、正反対の性質を宿しております」
シミアスは、仲間たちの不安を代弁するかのように、言葉を続ける。
「理由は二つあります。一つは、我々が作り上げた規範が、あまりに強大であることです。『魂の継承』は、神託という神聖な権威をまとい、さらには『新しい男性性の創造』という、アテナイの未来を左右するほどの公共的意義まで担っています。このあまりに巨大な一番星は、他のいかなる星の輝きをも呑み込み、夜空を独りで支配しかねません」
彼は一度言葉を切り、ソクラテスの目を見据えた。
「そして、もう一つは、我々の議論を通じて、規範が満たすべき条件が六つにも増えてしまったことです。この恐ろしく厳しい制約を乗り越え、第二、第三の規範を新たに生み出すことなど、ほとんど至難の業です。結果として、何が起きるか。我々の『魂の継承』は、同性愛の意味を牛耳る、ただ一人の独裁者のような存在となる危険があるのです。我々は、牢獄から逃れるために、さらに強固な牢獄を自ら作り上げようとしているのではないでしょうか」
牢内の空気が、張り詰めた。シミアスの指摘は、これまでの全ての議論を根底から揺るがす、致命的な一撃だった。弟子たちは固唾を飲んで、師の言葉を待つ。
ソクラテスは、しばらくの間、目を閉じて深く思索に沈んでいた。やがて、ゆっくりと目を開くと、その表情からは先ほどまでの穏やかさが消え、まるで戦場の指揮官のような、厳しく、そしてどこか冷たい光が宿っていた。
「ふむ……困ったことになった。シミアス、君の言う通りだ。第三の条件は、もはや真っ当な手法では解決困難なようだ」
ソクラテスは静かに言った。そして、誰もが予想しなかった言葉を続けた。
「ではいっそのこと、我々の立場そのものを、百八十度、転換してみるのはどうだろうか?」
「……立場を、転換する、と?」
「そうだ。我々が『他の存在を認める謙虚さ』を条件に加えたのは、なぜだったかな? それは、多様なゲイのあり方、そのすべてを包摂するには複数の規範が必要だと考えたからだ。その倫理的配慮は、いわば、独占禁止法を定め、公正な市場環境を整備しようとする、公正取引委員会の立場に近い」
ソクラテスは、ゆっくりと弟子たち一人一人の顔を見渡した。
「だが、我々が今やっていることは何か? 『魂の継承』というただ一つの規範を、心血を注いで形作り、その完成度を極限まで高めようとしている。それはむしろ、自社製品で市場を独占し、利益を最大化しようとする、一人の起業家の立場に近いのではないかね?」
その比喩が意味するものに、弟子たちは息をのんだ。
「企業は、自社製品以外は決して通過できないような、極めて厳しい参入基準を設けることで、市場を独占しようとする。我々が定めた六つの条件も、まさにそれだ。あれは、事実上、乗り越え不可能なハードルとして機能する。これにより、我々の『魂の継承』以外のいかなる競合する規範も、『条件を満たしていない不完全なもの』として、市場から排除することが可能になるのだ」
ソクラテスの声は、淡々としていた。だが、その言葉には、恐ろしいほどの戦略的な響きがあった。
「元々、われわれ同性愛者の占めるパイは小さい。その小さなパイを、他のコミュニティと分け合うことは、自らのコミュニティの発展を阻害するだけだ。だからこそ、他の規範をあらかじめ排除し、他のコミュニティが生まれる可能性そのものを、先に摘み取っておく。そのための、冷徹なまでの現実認識と戦略が必要なのだ」
「師よ、それは……」
「哲学者が、その思索の純粋性を保ったままでは、現実世界に思想を根付かせることはできない。時には、国の存続のためには、なりふり構わぬ非情な決断を下す、冷徹な君主の貌を持たねばならんのだよ」
ソクラテスの言葉は、牢獄の石壁に冷たく響き渡った。まるで、これまで積み上げてきた対話のすべてを、自ら打ち砕くかのような響きだった。
その言葉に、最初に反応したのはケベスだった。彼の顔は怒りと絶望で蒼白になっていた。彼は椅子から立ち上がると、震える声で叫んだ。
「師よ、あなたは何をおっしゃるのですか! 冷徹な君主だと? 我々がこれまでの対話で重視してきたものを忘れたのですか! 我々は、いかなる者も規範からこぼれ落ちない未来をこそ、望んでいたはずです! 新たな規範が、新たな逸脱者を生み出す牢獄になってはならないと、魂の底から願ったことを、どうか思い出してください!」
ケベスの声は、告発者のように牢内に響き渡る。
「それなのに、あなたは今、我々自身の力で、最も強固で、最も排他的な牢獄を築き上げよ、とそうおっしゃるのですか! 競合する規範をあらかじめ排除し、生まれる可能性そのものを摘み取るだと? あなたは、我々に、正義を捨て、力に媚びよと、そう教えるのですか!」
あまりの激情に、ケベスは言葉を続けられず、肩で荒い息をついた。彼の目には涙が浮かんでいる。弟子たちの誰もが、ケベスの絶望に共感し、ソクラテスを非難するような眼差しで見ていた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、ソクラテスの長年の友であり、現実的な思慮を持つクリトンだった。彼はゆっくりと立ち上がると、ケベスの肩にそっと手を置いた。
「ケベス、落ち着くんだ。気持ちはわかる。私も、ソクラテスの言葉には、正直、胸が苦しくなる思いがした」
クリトンは、まずケベスをなだめるように語りかけた。それから、苦々しさを滲ませた表情で、ソクラテスに向き直った。
「だが、ケベス……我々は、理想だけでは生きてはいけないのかもしれん。ソクラテスが言うように、我々のパイはあまりに小さい。それをさらに分割したらどうなる? アテナイの広場で、我々がどのような目で見られているか、君も知っているだろう。美しく、正しいだけの理想を掲げても、多数派の反感を買えば、我々はたやすく踏み潰されてしまう。少しでも、コミュニティの規模を大きくし、自衛せねばならんのだ」
クリトンは、一度言葉を切り、深くため息をついた。
「もちろん、喜んで受け入れられる話ではない。むしろ、毒を飲むような気持ちだ。だが……我々のコミュニティが生き残り、我々が作り上げた『魂の継承』という文化を、次の世代へと確かに手渡していくためには……あるいは、この毒を、我々自身の手で飲み干さねばならない時もあるのかもしれない。ソクラテス……あなたの言いたいのは、そういうことなのだろう?」
クリトンの言葉は、ケベスのような純粋な倫理的怒りとは違う、現実の泥にまみれた者の、重い肯定だった。理想と現実、倫理と戦略。その間で、弟子たちの魂は激しく揺れ動いていた。
沈黙が支配する中、ソクラテスが静かに口を開いた。彼の表情は、先ほどの冷徹な君主のそれとは違い、弟子たちの苦悩を深く理解する、賢者の穏やかさを取り戻していた。
「ケベス、君の怒りはもっともだ。我々が、我々自身の軛を創り出すことなど、あってはならない」
ソクラテスは一同を見渡し、ゆっくりと言葉を続けた。
「では、別の道はないのだろうか。君主の冷徹さでもなく、理想家の無力さでもない道が。……真の解決策ではないかもしれぬ。だが、現実的な選択肢として、規範とその運用を、分けて考えてみるのはどうだろうか」
「規範と、運用を……?」シミアスが、訝しげに呟いた。
「そうだ。規範は、鋼のように強固に構築する。だが、その運用は、絹のように柔らかく行うのだ」
ソクラテスは、弟子たちに語りかけるように続けた。
「人間社会における規範の実態を思い浮かべてみよ。学校や会社、あるいは政治・宗教団体といった組織では、成文化された厳格な規範を持つ。だが、その実際の運用においては、確かにある種の柔軟性が存在するのではないか。規則の軽微な違反は、共同体の和を乱さぬ限りにおいて、しばしば黙認される。この『規範の厳格な構築』と『運用の柔軟性』という組み合わせは、共同体の秩序を維持しつつも、個々の状況や人間的な側面に対応するための、人類が編み出してきた現実的な知恵と言えるのではないか」
弟子たちの目に、かすかな理解の光が灯り始める。
「我々の『魂の継承』も、様々な規則や暗黙のルールを持つことになるだろう。だが、それを実際の関係性において、原理主義者のように適用するのではない。例えば、我々はアナルセックスに『誇りの共有』という、他に代えがたい特別な意味を与えた。これは、規範の根幹をなす、譲れない柱だ。だが、中には身体的な問題で、ウケとなることに大きな苦痛が伴う者もいるかもしれん」
ソクラテスは、ケベスのほうを向き、優しく語りかけた。
「そのような者を、規範からこぼれ落ちさせてはならない。彼らのための救済措置として、挿入を、ピストン運動なしでも良いものとするのだ。我々にとって精液は、快楽の証ではあっても、『魂の子』を成すために必須のものではない。抜き差しをせず、ただ挿入したまま互いの体温を感じ合うのであれば、苦痛は大幅に和らぐだろう。それでもなお、『誇りの共有』という儀式の本質は、十分に達成されるはずだ」
さらにソクラテスは、クリトンにも視線を送った。
「他にもある。我々はこれまで、『魂の父』となるタチを年上、『魂の子』となるウケを年下だと、暗黙の裡に想定してきた。これもまた、魂の継承を安定させるための、一つの理想形ではある。だが、これも絶対の掟とすべきではない。仮に『魂の子』が年上であったとしても、その『魂の子』が、とても若い『孫』を幾人も作る可能性はある。相手の年齢に拘り過ぎることは、魂の家系を広げる好機を失うことにも繋がりかねん。年齢の逆転を許容したほうが、結果として、我々の魂はより豊かに繁栄することになるのだ」
ソクラテスは、静かに話を結んだ。
「このようにして、規範の峻厳な骨格は維持しつつ、その細部において、個々の事情に応じた柔軟な運用を許していく。規範が持つ排他性の刃を、こうして和らげていくのが、現実的な落としどころではあるまいか。どうだろうか、諸君」
ソクラテスが提示した柔軟な運用。それは、ケベスの理想主義とクリトンの現実主義、その双方に配慮した、極めて高度な統治の技術だった。
ソクラテスの提案に、最初に力強く頷いたのはクリトンだった。彼は安堵の表情さえ浮かべて、ソクラテスを称賛した。
「さすがはソクラテスだ。それこそが、生きた知恵というものだ。理想の柱は決して折らず、しかし、その枝葉は風になびくようにしなやかに保つ。これこそ、共同体を長く、健全に保つための秘訣に違いない」
クリトンは、まるで自らの商売の経験から得た教訓を語るように、あるいは国家の行く末を案じる政治家のように、熱を込めて続けた。
「あの、鉄の規律を誇るスパルタでさえそうだ。彼らは、個人の財産所有を厳しく制限し、市民の平等という建前を掲げている。だが、その裏では、有力な市民たちが抜け道を見つけ、広大な土地や富を事実上、私有化しているではないか。もちろん、それは褒められたことではないかもしれん。だが、その『建前と本音』の使い分けが、あの強大な国家の現実的な活力を生み出している一面も、我々は否定できないだろう。」
クリトンの現実に基づいた説得力のある言葉に、多くの弟子たちが頷き、安堵の空気が牢に満ちていく。しかし、その中で、ケベスだけは、苦悶の表情を浮かべたまま、首を横に振った。
「師よ、クリトンよ、それは根本的な解決にはなっていません!」
ケベスは、悲痛な声で反論した。
「厳しい法律を掲げておきながら、裏ではこっそり違反を見逃すというのは、法そのものの尊厳を、自ら貶める行為ではありませんか? それは、法治ではなく、人治への堕落です! 一度例外を認め始めれば、その例外が当たり前になってしまう危険を、どうしてお考えにならないのですか!」
彼は、ソクラテスが示した具体例に、鋭く切り込んだ。
「『苦痛が伴う』と自己申告すれば、誰もが『誇りの共有』という、我々の規範の心臓部とも言える儀式から逃れられるようになるかもしれません。その柔軟な運用が、規範そのものの価値を貶め、共同体の規律を弛緩させてしまうのです。その先にあるのは、あの、我々が必死で抜け出そうとした、無規範という名の荒野への回帰ではないのですか!」
ケベスは、両手で頭を抱えるようにして、呻いた。
「しかし、だからといって、規範の手綱を厳しく絞れば、今度は、必ずそこからこぼれ落ちる者や、抑圧される者が出てきてしまう……。なんと、なんと難しいことなのだ……」
ケベスの言葉は、再び弟子たちを絶望的な問いへと引き戻した。柔軟な運用は、共同体を腐敗させる甘い毒なのか。それとも、生き残るための苦い薬なのか。彼らの探求は、出口のない迷宮へと、再び迷い込もうとしていた。
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