第七章:魂の継承、あるいは誇りの儀式
ソクラテスの口から放たれた「パイデラスティアの蘇生」という言葉は、我々の間に、希望よりもむしろ深い困惑を広げていた。その沈黙を破ったのはパイドンだった。
「師よ……私には到底信じられません」その声は、弱々しい響きを帯びていた。「あの古代の亡霊を、パイデラスティアを、現代に蘇らせることが可能だなんて。我々がこれまで積み上げてきた議論は、その不可能性をこそ示していたのではありませんか」
皆の目が、同意を示すかのようにソクラテスに注がれる。だが、ソクラテスは揺るがなかった。彼の声音は、もはや我々の知る師のものではなく、まるでアリストデモスの肉体を借りたダイモーンが、今度はソクラテスへと乗り移ったかのような、荘厳な響きを帯びていた。
「ならば、その不可能性の中心にあった問いから始めよう。ケベスが我々に突きつけた、あの問いだ。『師が、弟子に超えられることを喜び、利益となるような関係性は、いかにして可能なのか』。これを、我々の新たな議論の糸口とすることに、異論はあるかね?」
誰も反論しなかった。その問いこそが、『境界の融解』モデルを座礁させ、我々を絶望の淵に立たせた、巨大な岩礁だったからだ。
「よろしい」ソクラテスは頷いた。「まず、なぜ『師が弟子に超えられることを喜ぶ』のが難しいのか、その根源を分析する必要がある。これは単なる嫉妬心の問題ではない。より深く、構造的なジレンマが存在するのだ。それはアイデンティティの喪失だ。師のアイデンティティは『教える者』『優れた者』であることに深く根差している。弟子に超えられることは、そのアイデンティティの基盤を揺るがし、『自分は何者なのか』という存在意義の危機を引き起こす」
ソクラテスは、弟子たちの顔を一人一人見渡し、言葉を続けた。
「このジレンマを乗り越えるには、個人の人格、たとえば『師が良い人である』という偶然に頼るだけでは不十分だ。我々が必要とするのは、師が、弟子に超えられることを、自らの『損失』ではなく『利益』だと感じられるような、強固な『規範(システム)』なのだ。この困難な問いに対する解決の糸口として、次のモデルを提示しよう。『魂の継承』モデルだ」
魂の継承。その言葉は、詩的霊感を孕み、我々の心を慄かせた。
「このモデルは、師の価値を『個人の能力の頂点』から『自らの思想や技術を次世代に繋ぐ能力』へと再定義する。この規範の下では、師の偉大さは、彼自身が何を成し遂げたかによってではなく、彼が育てた弟子が何を成し遂げたかによって測られるのだ。弟子が師を超えることは、師の教えが正しく、力強かったことの最高の証明となる。そして、師の利益とは何か。弟子が師を超えることで、師は『教育者としての成功』という、個人としての成功よりも大きな栄誉を手にする。彼の思想や技術は、彼の死後も弟子の中で生き続け、発展していく。これは、一種の精神的な不老不死だ。弟子の勝利は、師の勝利なのだ。この規範の下では、コミュニティ全体が『偉大な弟子を育てた師』を最高に称賛する文化を持つ。『魂の継承』という規範モデルこそが、現代版パイデラスティアの回答となる。師の持つ魂の最良の部分が、エロースを通じて弟子の魂を陶冶する。そして、師の魂は弟子へと『継承』される。つまり、弟子にとっての『魂の陶冶』は、師にとって『魂の継承』なのである」
一同は、その壮大な構想に息を呑んだ。だが、その静寂を破ったのは、やはり、師弟関係に強い警戒心を抱くケベスだった。その声は、かすかに震えていた。
「ソクラテス……その規範は、師の価値を『個人の能力』から『次世代に繋ぐ能力』へと再定義する、とおっしゃる。しかし、それはむしろ、我々が一般的に考える教師の評価基準に近いのではありませんか? それでも現実には、弟子の成長を妬み、その道を阻む教師がいるのです。高らかに教育者の理想像を語るだけで、それを現実のものにするメカニズムがなければ、結局は現状維持になってしまうのではないでしょうか」
「その通りだ、ケベス」ソクラテスは、ケベスの鋭い指摘を称賛した。「教育者の徳性は、真空から生まれはしない。それを生じさせる何らかのメカニズムがいる。そのメカニズムとは、『師が弟子に超えられることを喜ぶ』という望ましい価値観を、いかにして自発的に採択させることができるのか。そのための『文化的な環境』を設計することではないだろうか。その『文化的な環境』とは、その人が属するコミュニティが語る物語、行う儀式、そして共有する目的意識のことである。それによって教育者に相応しい徳性が育まれるのだ」
ソクラテスの答えに、今度はシミアスが冷静な問いを重ねた。 「真空から生まれないのは教育者の徳性だけではありません、師よ。その徳性を引き出す物語、儀式、目的意識だって真空からは生まれない。それらの『文化的な環境』を生み出す動力源は、一体何なのでしょうか」
「その動力源は、我々に『魂の継承』を求めさせる渇望と同じものだ」ソクラテスは答えた。「我々の魂のあり方。それは、人生という苦闘の末に、無数の過ちと痛みの中から、ようやく見出した生き方、美意識、愛の様式。自分が自分であるために守らなければならないルール。それは、単なる情報ではない。それは、『私の人生は、無意味ではなかった』という、自らの存在を肯定するための、唯一の証なのだ。それを、我々は大切にする。我々が、自らの魂を次世代に遺したいと願う、その根源にあるたった一語の感情。それは何か?」
ソクラテスの視線が、うつむきがちなパイドンに向けられた。パイドンは、恐る恐る手を挙げ、囁くように答えた。 「それは……誇り……です」
「そう、誇りだ」ソクラテスの声に、力がこもった。「我々が愛する者に自らの魂を移植したいと願うのは、その魂が客観的に優れているからではない。それが、『これこそが私なのだ』と胸を張れる、誇りの結晶だからだ。この誇りを、世界でただ一人、完全に理解し、受け継いでくれる存在を求める。その切実な渇望こそが、この規範の、そしてあらゆる教育の根源的なエンジンなのだ。教育者の徳性を生み出す物語、儀式、目的意識は、この『誇りへの渇望』から生まれるのだ」
その言葉に、またもケベスが疑義を呈した。「しかし、ソクラテスよ。師が、弟子を抑圧してしまうのも、自らの誇りを守ろうとしているからではありませんか? 弟子を抑圧する師と、弟子の成長を喜ぶ師。二人を動かす根源的な感情が、同じ『誇り』なのだとしたら、なぜ、正反対の行動へと向かうのでしょうか?」
「違いは、誇りを抱く対象が自己に閉じているか、それとも、弟子へと開かれているかだ」
「では、師の誇りをいかにして弟子へと開かせるか、それを問うべきなのですね?」
「そうだ。いわば、誇りの共有、とでも言うべき事態を現出させられるかだ。誇りの共有の儀式。その元となるものは、すでに我々の手中にある」
「それは何なのですか?」
「その儀式は、特別な祝祭なのではなく……我々の関係性そのものに織り込まれた、日常的な実践。男性同性愛という関係の本質に基づく行為、その象徴的行為。それは何だろうか。パイドン。勇気を振り絞って答えておくれ」
牢獄の沈黙の中、パイドンは羞恥を払いのけ、決然とした声で答えた。
「……その行為とは……性交、それも……肛門性交ではありませんか?」
その言葉に、皆が息を呑み、静まり返る。ソクラテスは、静かに頷いた。「その通りだ、パイドン。アナルセックスこそが、男性同性愛の本質に根差した、日常的な実践であり、我々が求める『誇りの共有』の儀式となるのだ。まず私は、アナルに付随する象徴的な意味を改めて見直し、新たな解釈を提示する」
ソクラテスは、床に倒れたままのアリストデモスを瞥見した。その瞬間、彼の声音にある荘厳さが一層高まり、我々はそこにソクラテスの皮を被ったダイモーンの顕現を見た。
「これから述べるのは、ダイモーンから授けられた知恵だ。一般的に、アナルは排泄のための器官として『恥』の象徴とみなされてきた。排泄は『体外に出す』行為であるのに対し、挿入は『体内に入れる』行為だ。これらは、運動の方向性が正反対であるため、それぞれが象徴する意味も逆転すると考えられる。そして、私たちは不要なものや有害なものを外へ出し、必要なものや有益なものを内へ取り入れる。つまり排泄は『負』の意味を、挿入は『正』の意味を帯びるのだ。では、パイドン。負の意味をもつ『恥』の対極にあるのは何だろうか? 『恥』の対立概念にあたるものは何かね?」
パイドンの声は、もはや恐れを帯びていなかった。神託に応える巫女のように、澄み切っていた。
「ソクラテス、いえ、ダイモーンよ。あなたが問う、『恥』の対極にあるもの。その答えは、たった一つしかありません。それは、『誇り』です」
「そう、誇り。『恥』の対極にあるのは『誇り』だ。アナルを排泄のためだけでなく、挿入を受け入れる穴として活用すると、その象徴的意味も逆転する。こうして、アナルは『恥』の象徴から『誇り』の象徴へと転換される。アナルが『誇り』の象徴となることで、アナルセックスにおける性器の役割が明確になる。アナルは『誇り』を受け入れる受容体として機能し、ペニスは『誇り』を受け渡すための連結器としての役割を担う。この役割分担を通じて、タチからウケへ、師から弟子へと『誇り』が継承される。師の誇りは、もはや師一人のものではなく、その最も深い部分で結ばれた、二人の共有財産となるのだ。これにより師弟の主導権争いはなくなる。師にとって弟子に乗り越えられることは、誇りを満ちた慶事となるのである」
ダイモーンが放つ聖性は牢獄を満たし、一同は身動きすらできなかった。
「よいか。人が自らの人生を賭して築き上げた誇り、その聖なる結晶こそを、我々は『魂』と呼ぶ。師の『魂』が、その最も凝縮された形で弟子の『魂』へと挿入され、移植され、そして継承される神聖な儀式。これによって、師は『魂の父』となり、弟子は『魂の子』となるのだ。この『魂の継承』という規範は、『師=魂の父』にとっては自身の魂を次世代に託し、定命の身を超えた永遠を得る機会となり、『弟子=魂の子』にとっては偉大な魂を糧として成長し、より良き自己を探求する旅路となるのだ。」
その言葉を最後に、ソクラテスからダイモーンの気配がふっと消え、彼は我々の知る師の顔に戻った。
長い沈黙の後、クリトンが万感の思いを込めて呟いた。その頬を、涙が伝っていた。
「これならば……この規範ならば、我々はもはや『恥辱にまみれた存在』として、日陰を歩く必要はない。これからは『誇りを共有し、創造する者たち』として、胸を張って生きていける。この規範は、我々同性愛者の生き方に、揺るぎない意味と価値を与えるものだ。ソクラテスよ……心から感謝する。君は、我々が彷徨っていた荒野に、確かな道を、そして、進むべき先を照らす、北極星を示してくれた」
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