第五章:亡命者たちの建国記
ケベスの試みが、規範の『構築』ではなく『解体』へと向かう自己矛盾を露呈し、牢獄の空気は再び重く沈んだ。その沈黙を破り、シミアスが静かに立ち上がった。その目は、友への憐れみと、しかし真理の前では一切の妥協を許さないという、哲学者の冷徹な光をたたえていた。
「ケベス君、そして友よ」シミアスは、その場にいる全員に語りかけるように、はっきりとした声で話し始めた。「君が示した道は、我々の愛に新しい形を与えるものではなかった。それは、ただ社会の無理解を批判し、正義という名の憎悪を紐帯にして、何も築くことのない者たちが、徒党を組んでいるに過ぎない。その道からは、崇高な価値は生まれない」
彼は一度言葉を切り、ケベスの思想の価値を認めつつも、その役割がすでに終わったことを宣言した。
「しかし、君たちのような批判の精神が、同性愛者の社会的権利という、我々を守る精神的な城壁を築いたこともまた、紛れもない事実だ。その城壁の内側、安全が確保されたこの空間でなら、我々は役割を変えることができる。我々はもはや、単なる『逸脱者』ではない。我々は、新たな世界の『建国者』となるのです」
その力強い宣言に、弟子たちの顔が上がる。シミアスは、自らが提示する規範の名を告げた。
「私の規範の名は『亡命者たちの建国記』**。**我々は、古い世界の法が及ばぬ、主権を持つ国へと亡命したばかりの民だ。城壁はあるが、その中でどのような文化を育み、どのような暮らしを営むのか、その『内実』がまだ何もない。我々は、異性愛社会が用意した『成功』の脚本を持っていない。だが、それこそが我々の最大の武器なのだ。完璧でなければならないという呪縛から解放され、『失敗』を恐れず、何度でも試行錯誤を繰り返すことができる。この『芸術的自由』こそが、我々の創造への意志を支える、無尽蔵の活力となるのだ」
「これまで我々は、あまりに漠然と『関係性』というものを扱ってきた。だが、それは複雑すぎる。私は、この巨大な問題を、取り扱い可能な四つの要素へと分解したい。『家族』『様式』『言語』そして『物語』。これら一つ一つを、我々自身の手で創造していくのです」
シミアスは、その具体的な内容を、一つ一つ指折り数えるように語り始めた。
・新しい家族を創造する、『血縁なき共同体』。 それは、血縁という偶然に頼らず、純粋な意志の力だけで、選択的な共同体を築き上げる規範です。
・新しい様式を創造する、『様式としての愛』。 それは、既製のモデルに頼らず、二人だけの日々の儀式や美学の共有といった、関係性そのものをデザインする規範です。
・新しい言語を創造する、『二人だけの命名』。 それは、社会の出来合いの言葉では掬いきれない感情や関係に名前を与えることで、独自の意味の宇宙を構築する規範です。
・新しい物語を創造する、『恋物語の共同編集者』。 それは、社会が用意した恋愛の定型から脱却し、結末のわからない、未知の冒険を二人で紡いでいく規範です。
そして、シミアスは、その演説を、壮大な宣言で締めくくった。
「これらが、我々の建国のための、最初の四本の柱です。血縁に代わる意志の共同体を我々の『国土』とし、日々の美学を我々の『法』とし、二人だけの言葉を我々の『国歌』とし、そして、我々が紡ぐ未知の物語を、この国の最初の『歴史書』とする。
さあ、始めよう。我々の愛を、世界で最も美しい建国神話として、この手で紡いでいくのです」
シミアスの演説は、牢獄の重い空気を一変させた。ケベスが示した破壊への衝動とは対極にある、緻密で、壮大で、そして何よりも創造的なビジョン。皆の顔に、今度こそ本物の希望の光が宿ったかのように見えた。だが、その熱狂に静かに水を差したのは、ソクラテスの古くからの友、クリトンだった。彼は、感嘆と、そして深い疑念の入り混じった表情で、ゆっくりと口を開いた。
「シミアス君、君の演説は実に見事だった。壮大で、希望に満ちている。だが、私のような実務家の目から見ると、そこには一つ、根本的な疑問が浮かぶのだ。その壮麗な計画は、果たして、誰のためのものなのだね?」
「と、おっしゃいますと?」シミアスが問い返す。
「君は『芸術的自由』を謳ったが、真に創造的な営みというものは、ごく限られた一部の者たちにしかできぬ、極めて困難な仕事ではないかね? 現に、ここにいる我々を見たまえ。哲学的な訓練を受けた者が何人もいながら、未だ、ただ一つの確固たる『規範』すら作れずにいる。君の言うように、『関係性』を構成要素へと分解したとしても、その一つ一つの要素に、全く新しい形を与えることなど、我々凡人には、そう簡単にできるとは到底思えぬ」
クリトンの声には、次第に切実な響きが帯びていった。
「それなのに、君の計画――『亡命者たちの建国記』――は、一体、何を要求しているのか。それは、日々の仕事に追われ、生活に疲れ、愛に悩む、ごく普通の人々、その一人一人に対して、『お前は社会学者たれ』、『芸術家たれ』、『言語学者たれ』と、そう命じるものではないか。我々ですら解くことが困難なこの難問を、彼ら一人一人に、自力で解けと、そう言うのか。シミアス、君の輝かしい建国プランは、あまりに高尚すぎて、我々のような普通の人々が住む場所ではない、神々のための国造りに見えてしまうのだよ」
クリトンの切実な問いかけは、シミアスの壮大な建国論に熱狂しかけていた青年たちを、現実に引き戻した。その疑念が、牢獄の空気を再び冷やしかけたが、シミアスは少しも動じなかった。彼は、クリトンの心配をこそ、待っていたかのように、穏やかな笑みさえ浮かべて、静かに語り始めた。
「クリトンさん、あなたの懸念はもっともです。私の言葉が、まるでアテナイ中の恋人たちに、書斎に籠って難解な論文を書けと命じているように聞こえたかもしれませんね。ですが、あなたは私の言う『創造』を、あまりに大袈裟に考えすぎています。私が語っているのは、もっとささやかで、もっと日常に根差した、誰もがその胸の内に持っている、小さな創造性の輝きのことなのです」
「『血縁なき共同体』を築くとは、新しい社会制度を発明することではありません。ただ、『今年のお正月は、血の繋がった家族ではなく、あの親友を招いて祝おう』と、そう決める意志のことです。
『様式としての愛』とは、美術館に飾る彫刻を彫ることではありません。『毎朝、相手のために特別な淹れ方で珈琲を淹れる』、その小さな儀式を慈しむ心のことです。
『二人だけの命名』も、新しい文法を構築することではない。二人の間でしか通じない、馬鹿げたニックネームのことです。
『恋物語の共同編集者』になるとは、叙事詩を書くことではなく、『来月はどこへ行こうか』と、既成の筋書きのない未来のページを、二人でわくわくしながらめくる、その心持ちのことなのです」
シミアスは、クリトンを、そして青年たち一人一人を真っ直ぐに見つめ、その結論を告げた。
「クリトンさん、私は誰にも『芸術家たれ』とは言っていません。ただ、『あなた自身の人生の、ささやかな詩人であれ』と、そう呼びかけているに過ぎないのです。我々の規範は、人々に重荷を課すものではありません。むしろ、誰もがすでに持っている創造性という宝物に光を当て、それがどれほど尊い価値を持つかを気づかせるための、ささやかな『招待状』なのです」
シミアスの反論は、クリトンの懸念を巧みに和らげ、再び牢獄に創造への希望を灯したかに見えた。だが、その穏やかな空気を切り裂いたのは、これまで対話の行方を見守っていたソクラテス自身の、静かだが、どこまでも鋭い声だった。
「……シミアスよ。君の反論は、クリトンの懸念を和らげるには十分だったかもしれん。だが、我々がここで探求している、最も根源的な問いには、何ら答えてはいない」
ソクラテスは、その深く穏やかな眼差しでシミアスを射抜き、言葉を続けた。
「我々が求めているのは、同性愛の固有価値だ。それは、この性的指向に生まれたことを、不運な宿命としてではなく、心からの喜びとして受け入れられるようなものでなければならない。『ゲイであって良かった』と、魂の底から思えるものでなければならんのだ。そのためには、君の言うような、ささやかなものでは足りない。我々が社会から受けている構造的な不利益、そのすべてを補ってなお余りある、異性愛の生殖に匹敵するほどの、圧倒的な価値が必要なのだ」
ソクラテスは、そこで一度言葉を切り、一つの比喩を語り始めた。
「考えてもみよ。不条理にも足を失った人にとって、高性能の義足は大きな価値があるだろう。しかし、それはあくまで補償的な価値だ。義足があったからといって、その人が『足を失って良かった』と、心から思うことにはなるまい」
その比喩は、シミアスの理論の核心に、鋭く突き刺さった。
「君が例に挙げた『血縁なき共同体』という規範も同じだ。もし男同士のカップルが、努力の末に養子を迎え入れたとしよう。それは尊いことかもしれん。しかし、その価値の本質は、異性愛の家族が持つ価値の模倣であり、血縁がないという欠落を埋め合わせるための、補償的な価値に過ぎない。その営みをもって、『同性愛者に生まれて良かった』と、真に誇ることはできぬのだ」
ソクラテスは、弟子たち全員に宣告するように、その結論を述べた。
「同性愛が、異性愛に対する何らかの優位性を主張しようとするならば、その規範が提供する価値は、構造的な不利益を埋め合わせるだけの『補償的価値』であってはならない。それは、異性愛には構造的に持ち得ない、純粋なプラスを生み出す『創造的価値』でなければならないのだ。これを、我々の規範が満たすべき、第六の条件としよう。『創造的価値の原理』、と」
ソクラテスが提示した第六の条件、『創造的価値の原理』は、牢獄の空気に、これまでにないほどの重みと厳しさをもたらした。シミアスが築き上げた『亡命者たちの建国記』も、この新たな原理の前では、その輝きを失いかねない。皆の視線が、シミアスに注がれた。
しばらくの沈黙の後、シミアスは深く息を吐いた。その表情に悔しさはなく、むしろ、より困難で、より真実に近い道筋が見えたことへの、静かな覚悟があった。
「……その通りです、ソクラテス。我々が求めるものは、足を失った者のための義足ではない。誰もが持つささやかな創造性に頼るという私の考えでは、多くの者が、結局は不出来な義足を引きずって歩くことになりかねない。それは、我々が目指すべき理想とは程遠い」
そして、彼はソクラテスが示した『補償』と『創造』の違いを、より鮮明なイメージで、皆の前に描き出してみせた。
「我々が目指すべきは、補償を超えた『創造的価値』。それは、いわば、体毛を失った我々人類が、ただ寒さを凌ぐために衣服を発明した、という話に留まらない。その機能を進化させ、動物が生まれ持つ毛皮よりも遥かに精緻な体温調節を可能にし、さらにはファッションという自己表現、芸術という新たな付加価値まで獲得した。まさに、そのような、欠落を埋め合わせてなお余りある価値の提供こそが、必要なのですね」
自らの言葉で、そのあまりの理想の高さを確認したシミアスは、最後に、自らが提示した規範を、その峻厳な基準に照らし合わせて、静かに結論を下した。
「その基準に照らし合わせるならば、確かに、私が提唱した規範『亡命者たちの建国記』は、ごく一部の、極めて創造的な精神の持ち主にしか実践できない、あまりに狭き門だったのかもしれません」
「では、シミアスよ」ソクラテスは、静かに問いかけた。「君はこの規範を、もはや捨て去るというのかね?」
ソクラテスの問いに、シミアスはすぐには答えなかった。彼は深く考え込むように目を伏せ、牢獄の沈黙が、まるで彼の思考の重さを表しているかのようだった。やて、彼は顔を上げた。その目には敗北の色ではなく、困難な迷路の先に、新たな扉を見出した者の、静かな発見の光が宿っていた。
「いえ、ソクラテス。捨てるには、まだ早いと思います。私は、あまりに傲慢な前提に囚われていました。『すべての人間が、自力で新しい関係性の形を発明しなければならない』という、不可能で、そして傲慢な前提にです」
彼は一度言葉を切り、自らの過ちを認めた上で、その先の地平を指し示した。
「しかし、人類の歴史を振り返れば、むしろ現実は逆だったではありませんか。ごく一握りの、上位1%の天才が発明したものを、残りの99%の人々が使えるように改良し、共有してきたのです。社会が用意した既製の『家族、様式、物語、言語』を、無自覚に受け入れることができる異性愛者と違って、我々は、自分たちの関係性の細部に至るまで、常に意識的であることを強いられる。その切実な環境の中から、必ず、各自の才覚で新しい関係性の形を創造する者たちが、自然発生的に現れるはずです。たとえ、それが上位1%の者たちだけであったとしても、彼らは確実に存在するのです」
そこで、シミアスの声に、熱がこもった。
「問題は、その貴重な発明が、恋人同士の『秘密の工房』で作られているということです。その工房は、強固で、親密な、二人だけの世界に閉ざされ、その外部に知られることがないのです」
「我々の規範『亡命者たちの建国記』がもたらす、本当の課題が見えました。それは、『その、ごく一握りの天才たちが発明した翼を、いかにして、残りの99%の人々の背中に届け、その使い方を教えるか』という、文化の継承と普及のシステムを、我々の共同体の中に構築することだったのです」
シミアスの言葉は、牢獄の空気を再び震わせた。それは、敗北を認めた者の声ではなく、絶望的な難問の中から、唯一の活路を見出した者の、力強い宣言だった。ソクラテスは、その若き弟子の姿を、深い満足と、そして隠しようのない喜びをたたえた眼差しで見つめていた。
「素晴らしい、シミアス。実に、素晴らしい」ソクラテスの声には、心からの称賛が響いていた。「君は、自らの理論の弱点を乗り越えただけではない。我々の探求そのものを、より本質的な段階へと引き上げてくれた。君を、誇りに思う。……ぜひとも、その『文化の継承と普及のシステム』が、どのようなものになるのか、聞かせてもらえないだろうか?」
師からの最大限の賛辞を受けたが、シミアスの表情は晴れなかった。彼の眉間には、新たな、そしてより困難な問いに直面した者の苦悩が刻まれていた。
「それについては……まだ、あまりに漠然としています。とても、今すぐにお話しできる段階にはありません」
その答えを聞き、ソクラテスは、ふっと寂しげな笑みを浮かべた。
「そうか。……できれば、私がまだ生きている間に、聞きたいのだがな」
その、冗談めかした、しかしあまりに痛切な言葉に、シミアスの顔が苦痛に歪んだ。
「私も、聞いてほしいのです。あなたにこそ、聞いてほしい……。ですが、師よ、我々に残された時間、あなたが我々と共にある時間が、一刻、また一刻と、失われていく……!」
その声には、もはや哲学者の冷静さはなかった。それは、敬愛する師の死を前に、あまりに無力な自分自身を苛む、悲痛な叫びだった。
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