第12話
再生の風が、この南東の地に吹こうとしているのも、残り三十分を切っていた。
――とは言っても、この地獄という場所は、どれだけの時間が経とうとも、朝日が落ちることがなければ、同じく朝日が登ることもない。
いつの日か、シャビロッテから教えて貰ったことを、今一度と思い出す。
それを要約して語るなら、イメージは、卓上に広げた作り物の地獄という名の世界に、東から太陽の光によく似た灯りを灯しているような感じ。
まあ、私はこの目で見たことはないし、確認したこともない。
ただ、現に僅かながらにも、東に向かえば向かうほどに日差しが強くなり、逆に離れれば離れるほどに日差しが弱くなる感覚があった。
これは、どれだけの時間が経とうとも変わらない。
そうすれば、必然と東の対となる方角である西が、夜であるとも判るだろう。
故に、日の登っている地は、ずっと日が登ったままだし、逆に月が浮かぶところは、ずっと月が浮かんでいるらしい。
シャビロッテも、そう言っていた。
で、そんな地に居ると、時間感覚もあまり宛にはならない。
だから、実際に残り時間が三十分を切っているのかは分からない。
しかし、生活を送ったり、ましてや旅をするためには、時間感覚は非常に大切な要素であり、これがあやふやになってしまうと、なにもかもが狂ってしまう。
巷では、その現象に対抗するために、この地獄で“時計”というモノを作り出した人間が居たようで、私たちがこの南東の地にやって来た理由こそ、まさにその“時計”を得るためだった。
けれど、今のところ、ソレらしきモノを持つ人間は発見出来ておらず、苦戦しており、現状も現状であまり余裕のない状況下にあるために、中々に難航中。
そのため、とりあえずはこのダヒトの問題をどうにかしないことには、どうしようもないだろうとした。
そんな頃―――。
私の膝の上に座っていたシャビロッテが、欠伸を一つと掻いた。
「ぁ………」
しまった! という慌て方をして、シャビロッテは見繕う。
だが、彼女にもこれまでの疲れが溜まっていただろうし、こうしている内にも緊張しているのだろう。
ならば、眠くなってしまうのも仕方がない。
それは必然のこと。当然のことだ。
「眠たいのですか? それならば、眠ってもいいのですよ? 何かあれば起こしますから」
「ん。ダメよ。だって私は任されたんだもの。絶対に守ってみせるんだから」
言って、自分の頬を叩いてみせるシャビロッテ。
その真っ直ぐな心意気に、もう何度目か忘れるほどに持ち上がった私の口端が、また和らいでしまう。
そんな彼女の、自身が決めた意志を貫かんとする姿には、もはや誇らしい気持ちにもなる。
ただ、無闇に褒めたりはしない。
それは時には彼女を苦しめることになり兼ねないからだ。
だから、彼女の頭に手を乗せ、ただ撫でるだけにした。
「シャビロッテ、リリニアは好きですか?」
「なに? 急に。なんで、リリニアのこと?」
何の脈絡もなくされた問いに、シャビロッテが私を見上げながら、疑問を返す。
彼女からすれば、本当に意味の分からない質問だったのだろう。
でも、だからこそ、聞いておく価値がある。
純粋なままの彼女が語ることに、意味が宿るのだ。
「いや、なんとなくです。気にしなくていいですよ。それで、どうなんです?」
「んーー。どうなのかしら。好き……かもしれないわね。なんだか、気が合う感じかしら」
「そうですか……。うん。なら、その関係を大切にするんですよ? きっと、リリニアも君を好いている」
彼女の言葉を噛み締めて飲み込むように、しっかりと頷いて、続ける。
その言葉に、シャビロッテは疑問の表情に紛れ込ませるようにし、僅かに笑みを浮かべた。
「そうかしら? でも、アタイはアンタがこの世界で一番大好きよ」
「ん。ああ、ええ知っていますとも。ただ、いつか――大人になる頃には、私以上に大好きになれる存在を、君なら見つけられるでしょう」
「あら? それなら、アタシはずっと子供のままでいいわ」
「……ですか。それは困ったことになりましたね」
緩やかな空気が流れていく。
だが、決して長いとは感じない確かな時間が送れている。
叶うならば、この感触がずっと続けばいいのにとすら思ってしまう。
それほどに心地良い。
いつか、まだ知らない未来で、この識って、得て、書き記す旅が終わったのなら、なんの変哲ない日常として、こんな感触を持って過ごしていたい。
それは、まだ不確かで、心に過った程度の不透明な理想だが、それでも願わずにはいられない。
想わずにはいられなかった。
―――途端、
ひどく冷たい風が、激しく空間を揺らした。
「――――、」
低く、太く、蠢く地鳴りのような風の鳴り方に、息を呑み込む。
続けて、遠くのほうで、小さな叫び声が聞こえた。
その動物の甲高い声に、様々な鳥が一斉に羽ばたき、遥か上空を群れで駆け抜けていく。
まるで、ある一点――私とシャビロッテが正面に据える草木の向こう側から、逃げるように。
「………っ」
つまり、草木とそれ等が作り出す影に阻まれて、黒に近い深緑の空間の向こう側に、ナニカが居るに違いない。
そして、そのナニカは、森と動物とを冷たい恐怖に惑わせる異質で、異常な存在でもある。
「……シャビロッテ」
「ええ……」
たったそれだけの会話で、お互いに感じた危機と異様さを教え、同時にするべき行動を一つに絞った。
ただ、その行為を起こすには、相手の位置や姿を見ないことには、どうしようも出来ない。
もしも、そのナニカが腕を振るような微細な動きでも、敵意を見せるような存在だったとしたなら、まずはこの身を隠す方が優先。
それどころか、時としては、身を動かさないという選択をするかも知れない。
要は相手次第。
仮に、ナニカが両脚猟豹のダヒトだったなら、荒ぶる奴を刺激するような行為は控え、逃げることが先決。
でも、人間風船のダヒトだったなら、その慟哭を誘発させないため、動かないことが重要だということ。
「…………」
やがて、叫びはより小さく、より弱くなっていく。
その変化こそ、生命の失われていく過程そのもの。
ならば、訪れる結末は決まっている。
声が聞こえなくなるには、然程の時間を要さなかった。
残されたのは、動いてもいないのに、いつの間にか荒い。
それでも静かにしようとしていた自分の呼吸音だけ。
それすらも、今となっては邪魔な要素。
其処に居るナニカに、己を知らせてしまうかも知れない不必要。
しかし、押さえ込むことが出来ない。
仕方がさえも分からない。
否。その仕方を思い出す暇さえない。
なのにも関わらず、何も無かったかのように、緩やかに過ぎようとしている森の様子に、更なる悪寒が芽生える。
あの叫びを無かったことには、もはや出来やしない。
空気が、空間が、視界がそうしようとしていても、出来るはずがない。
普遍を見せれば見せるほどに、生まれた齟齬は余計に大きくなるばかり。
その時。
ズルズル――ズルズル――と、何かを引き摺る音が、こちらへと向かって来始めた。
「っ………っ」
シャビロッテから恐怖の声が漏れる。
汗が滲んだ左手で、私の手を掴む。
小刻みに震える感触に、彼女の心が伝わってくる。
だから、握り返して、無理矢理にでも微笑みを作り上げ、シャビロッテに見せる。
「大丈夫……。大丈夫……」
何の根拠もない言葉には、出来るだけ優しく、安心させるように、震えてしまわないことに細心の注意をし、語りかける。
そんな私の言葉に、シャビロッテは瞼を力一杯に閉じて、湧き上がる恐怖抑え込み、頷いてみせた。
それを確認して、もう一度と草木の向こう側に視線を向ける。
威嚇するように。或いは、警戒するように。
どんなに微細な気配だったとしても、見逃さないために、瞳が捉える視界に全ての意識を向ける。
やがて、黒に限りなく近い緑の中に、本物の黒が見えた気がした。
それは人影で、ソレがこちらへ向かってきている。
引き摺るような音は、そこで途絶えた。
だから、人影が踏み締める地の音が、透き通って聞こえてくる。
だから、その人影との近さが、より一層と把握出来てしまう。
まるで、次のより良い獲物を見つけたために、自身の狩ったモノを捨て置くような行為に似ている。
つまるところ、その狩って捨てたのは、あの残響を打ち鳴らした動物で、新たに狩り取らんとするのは、此処に在る二つの存在だ。
そうして、ゆっくりゆっくりと、一つ一つの足場を確認するかのように向かって来ている人影が、木々の間から差し込んでいた日の光に、かの姿を通す。
身に纏うは、どこか古の名残を思わせる和装の衣。生成りのように淡く温かな色合いを基調とし、肩から袖へとかけて、深紅の花々が静かに咲き連なっている。
けれど、それはリリニアを思わせる百合や紅蓮華ではなく、彼岸の花。
宛ら、血液のようなより濃い朱色で、見る者に微かな喪失感を残す
そして、その下に広がるのは、彼女を少女らしく魅せる、膝に掛かる程度の丈の短めなスカートだった。
すると―――、
「………!?」
突如として、彼女が笑顔を浮かべ、こちらへ手を大きく振り、駆け足で向かって来始める。
その可笑しさ。
その異変。
まるで、旧知の友との再会に喜ぶような表情と仕草に、鼓動が早くなる。
それは、親しさからの喜びなどではない。
親しげにして来るヒトのカタチをしたナニカに、肉体が、肌が、視界が、脳が、本能が恐怖し、慄き、怯えての反応。
警戒心は、より一層と増すばかり。
「キミらー、そんなトコで何しよん?」
放たれた声も、言葉も、何もかもが普通を物語ろうとしているが、其処に在る存在そのものが可笑しいという矛盾。
耳に捉えた彼女の語りかけに、森中に響かせた動物の残響が混じって聞こえる。
微かに震える身体が、今にも逃げ出すべきだと打ち鳴らす。
手汗が溢れ出て来ながら、シャビロッテと握り合わせた手は、もはや簡単に離せず、痛いほどに力が込められている。
それでも止められない。
恐れ、怖れ、畏れずにはいられない。
なのにも関わらず、触れてはならぬナニカから向かって来るから、距離が縮まってしまう。
黒く暗い森の中から、徐々にこちらへ、明かりのある此処へと近づいて来る。
「ん。どうしたー? わえの声が聞こえてないんー?」
依然として、雲のように、或いは太陽の光が映る水面の輝きのように白く、腰元まで伸びた髪を軽快に揺らしながら、ソレは視界の中で大きくなっていく。
いつかに観た
たったそれだけで、自信が犯した判断の過ちに嫌悪感が湧く。
逸早く、何よりも先に、私たちは“逃げる”べきだった。
傷が広がろうとも、痛みが伴おうとも、そうするべきだったのだ。
だが、もう遅い。
既にナニカは、この広場に足を踏み入れた。
「んー? なんで、無視するんや?」
「………ぁ、」
甘えるようで、どこか寂しさを混ぜたような口調で語るナニカ。
その言葉に遅れて、やっと私の喉が動き出す。
「あぁ、すみません。日に当たり過ぎたみたいで……」
「おー。そっかそっかぁ。なら、仕方ないな。ゆっくり休むんやよ?」
「え、えぇ……」
「うん。それで良し。無事でなによりな」
言って、カラカラと笑い出すナニカ。
心配や安堵の文言を語っていても、そこに裏があるように思えて仕方がない。
――否。実際に、裏があるに違いない。
何故なら、次なる獲物を目の前にして、やる事なんてのは相手の状態の把握だけしかないのだから。
現に、放たれた文言の意図と、実際に見えている上で、本来なら語られる言葉が違う。
一体どこの誰が、血だらけで満身創痍というのが一発で判る“私”という存在を前にして、日に当たり過ぎたからなんて返しを受け入れるのか。
普通なら、それだけじゃない。もっと先に云うべき、問うべきところがあるはずなのにだ。
しかし、ソレは納得してみせた。
正しく、“私”が“誰に”どうやって傷つけられたかなんてのは、全く興味などありはしないように。
「なぁ、キミらなんて云うん? わえはリロットって云うんやけど」
「……えっと。“ワタシ”と、ある方からは呼んで貰っています」
「ふぅん。じゃあ、ワタシ。キミの膝上に乗ってるそっちの子は?」
リロットと名乗ったナニカから視線を向けられ、反射的にシャビロッテの身体が跳ねた。
それは、驚きだけではない。恐怖も含んだ反応で、私と握り合わせる手に、更なる力を込めながら、恐る恐ると口を開く。
「しゃ、シャビロッテよ」
「うん。シャビロッテとワタシね。ところで、二人とも何をしよんや? キミら旅人よな?」
覗き込んで、伺うように首を傾げる姿。
愛らしささえ覚えてしまう行為に、喉が鳴って、眼前に大蛇が居るような、とてつもない恐怖と悪寒が、痺れのように身体中を駆け巡る。
けれど、問いかけには返さなければならない。そんな審判にも似た予感が、嫌な気配と共に訪れる。
「え、ええ……。旅をしてまして、今はある方を待って居るんです。もうそろそろ来ると思うのですが……」
「へー。なあ、それってどんな子なん? もしかして、紅くて赫い髪をした
「――――!?」
息が詰まる。
視界が嫌というほどに広がる。
リロットというナニカが語った特徴――その全てが、此処には居ず、ついさっきまで居たリリニアを連想させる。
―――違う。
リリニアを思わせるのではなく、リリニアのことを言っているのだ。
これは完全で、絶対で、確実。
もはや疑う必要すらない。
このナニカは、リリニアがこの地の執行人だと知った上で、此処へ現れたのだ。
そして、リリニアが自分から執行人であると云うとは考え難い。
なんなら、彼女は自分がこの南東の地の執行人――傲慢なるリリィの象徴たる赫く紅い髪を、わざわざ見せなくしていたのだ。
となると、やはり、このナニカは―――、
「やっぱな。うん、そうやと思ったんや。あの子が持ってた鈴の付いた布紐を、その子が持ってたからなぁ」
また、カラカラと笑ってみせる。
自分の想定が合っていたことを喜ぶ子供のように。或いは、自身が食らわんとする獲物が、足場を踏み外したときのように。
純粋に、純悪に、狂気にも似た無感動な笑い声が、ヒトのカタチをしたナニカから放たれる。
筋肉が震えて、心臓に冷たい感触が流れ込んでくる。
肉体の節々が固まって、まるで蝋にでも漬けられたように動かせない。
凡そ十五歳程度の見た目をした少女の存在をも含むその全てに、この世には在ってはならないと確信する。
産まれ落ちてはいけなかったのだと、理解してしまう。
だから、シャビロッテが腕を振ろうとして、力の流動を見せた。
それは布紐に着けられている鈴を鳴らすため。
リリニアを呼ぶためだ。
―――が、その動きに笑い声が止む。
「おっと! ソレ鳴らさんといてや。色々と面倒なことになるやろうし。その代わりにお
続けて言ってみせ、シャビロッテの動きを自然に止めさせる。
シャビロッテは、自分がまだ動き出しさえしていないのに察せられ、止められ、それを意思があろうと打破出来ない絶対的な事実に、体をより一層と震わせている。
それこそ、生物としての本能。生存するために従わざるを得ない確信だ。
まるで存在の格が違う。王でも、神でもない。なのに、それ以上になり得るナニカ。
その名も、カタチも、語り方や声に至るまでの全てを逸脱する絶対性。
それは、死にたくないと想っての行為も、たった一言で諦めさせてしまう異常さ。
まさに、“従わなければならない”という、本来なら本人に有るはずの決定権を無にする不可解を引き起こさせる。
そして、ソレはシャビロッテの諦めに、満足したように頷いて、少女の笑みを浮かべた。
「んじゃ、そろそろ行くわ。ワタシ、シャビロッテ。二人とも、またな?」
「ええ……。機会があれば」
別れの挨拶にすら、もはや返事が出来ないシャビロッテが、言葉を返すよりも先に、遮るようにして返事を返す。
すると、自身をリロットと名乗ったナニカは、無邪気に軽く手を振ってみせ、くるりと振り返る。
そのまま、此処へ向かって来た時と同じ駆け足で、来た道を辿るようにし、黒く暗い緑の中へと姿を紛れ込ませて行った。
私とシャビロッテに、安堵を許さない恐怖心を残して―――
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