第9話 ミトオカ・エヌ

 SaIの丸メガネは真っすぐプチロマンスの出入り口を見つめていた。やがて、そこから出てきた有紀子は一人だった。通りに立っていた時と違って表情は溌溂としていた。

(元気そう……)

(うん。さっきとは違うね)

(セックスが良かったということかな?)

(いやだ……)

 千絢の顔が陰った。

(薬物とか?)

 可能性を上げた。

(まさか。あの男性は……?)

(先に帰ったのかもしれません)

 もしそうなら、千絢が食事をしていたときか、カエル男ともめていた時だ。が、その可能性は低いだろう。

(そうなのね)

 有紀子が目の前を通り、駅の方角に向かっていた。

(あるいはホテル内で死んでいるかも)

(まさか……)

(……可能性です。さあ、アマテラス。尾行してください)

(でも……)

 千絢がホテルに目を向ける。中年男性が中でどうなっているのか、案じているのだ。もし亡くなっているのなら、通報するのが市民の義務だ。

(男性がどうなっているのか、分かりません。今は、目の前にいる泊里有紀子を確保するのが優先事項です。さあ、急いで)

(分かった)

 千絢が電信柱の陰から出て有紀子を追った。彼女の青い背中は人陰に見え隠れしていて見失いそうだった。

 有紀子は快速電車に乗り、ずっとスマホを見ていた。五駅先で降りた彼女は、十分ほど軽快に歩くと古いアパートの階段を上った。彼女は2階の2番目のドアを開けて入った。それを千絢は宅配便のトラックの陰から見ていた。

 宅配員が戻り、トラックが動き出す。隠れる場所がなくなり、千絢はアパートに向かった。ポストを確認する。202号室のそれには【三埼】の名札があった。

(ここは〝ミトオカ・エヌ〟の住まいです)

(どうして、そう分かるの?)

(埼の字を分解すると土大可になります)

(三土大可で、ミトオカということなのね)

 千絢が足音を忍ばせて階段を上る。彼女は2番目のドアの前で足を止めた。

202号室に表札はなかった。

(博士を呼んで説得してもらいましょう)

 そう話すのと同時に、神山あてに三埼の住所を知らせるメッセージを送った。

 ところが、彼の到着が待てないと考えたのか、千絢は大きく深呼吸すると呼び鈴のボタンを押した。彼女の脈拍が徐々に増えていく。

(やっぱり私が……)

(どうして?)

 万が一、トラブルが発生してパニックを起こされては困る。

(……自分で解決したいの。……大丈夫よ。三埼さん、女性でしょ?)

 彼女は再びボタンを押した。

(意気込みは認めるけれど……)パニックを起こされては困る。言葉をのんだ。

 ガチャガチャと錠を開ける音がし、鈍い軋む音とともにドアが動いた。

 千絢の血圧がドンと上がった。

「ホーイ……」

 ドアの隙間から漏れた力のない声は男性のものだった。もちろん、隙間の奥にある顔も男性のものだ。白髪まじりのもじゃもじゃの髪と髭で顔の半分は隠れている。くぼんだ眼窩の奥に光る瞳は赤みを帯びていた。

 ――ドキドキドキ――

 千絢の脈拍が早まる。

(落ち着いて)

 彼女にアドバイスする。

「だあれ?」

 彼の髭が上下に割れて白い唇がのぞく。

(病気かな?)

 ツクヨミとアマテラスは同じことを考えた。千絢の血圧がスッと下がる。

「早瀬と言います。三埼さんのお宅ですか?」

「三埼は僕だけど。何の用事?」

 彼は千絢の丸メガネに視線を注いだ。

〝ミトオカ・エヌ〟はネット上では女性だったけれど、リアルの風貌はむさ苦しい男性だった。落ち着いたと思った千絢の心臓がバグバグ鳴った。

(アマテラス、落ち着いて。相手は病人よ。危険はない)

(う、うん……)

 アドバイスが効いたのか、彼女は落ち着いた。

「……と、泊里有紀子さんを迎えに来たのです」

(アッ、そんなストレートに言っちゃう?)

 彼は抵抗するだろう。仕事は失敗だ。……ツクヨミは萎えた。

「迎えに?」

「アッ、はい……」

 ホッ、と彼が吐息をもらした。

「良かった。いや、良くない……」

(どういうこと?)

(さあ?)

「……ああ、どうしたらいいんだ」

 彼は頭を抱えて座り込んだ。

(まるでハムレットだ)

(ハムレット?……何それ?)

(アマテラス、勉強不足です。17世紀、イギリスのウイリアム・シェイクスピアが書いた三大悲劇のひとつ。父王を毒殺して王位に就き母を妃とした叔父にハムレットが復讐する物語です。彼は〝To be, or not to be〟と悩むのです。その姿が、まさに今の三埼です)

(ふーん)

「何か、問題があるのですか? ハムレット」

「エッ?」

 彼が視線を千絢に向けた。

「アッ、いえ、三埼さん……」

 恥ずかしさで彼女の鼓動が早まった。

「彼女が居たら、俺は衰弱死してしまう」

 彼は真顔で答えた。

「へ?」

「彼女が居なかったら、俺は餓死してしまう」

「エッ?」

(まさに〝To be, or not to be〟といったところですね。三埼氏がどうなるかは、彼の問題です。それより、泊里さんを引き渡してもらいましょう)

(そうですね。そうします)

「泊里さん、いますよね?」

 千絢が厳しい口調で尋ねた。



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