第3話 露呈する弱点

 千絢は警察官の横を通り過ぎ、猫の声がした方角に向かった。彼が振り返ったのは、気配で分かった。

 5分ほど歩いた先は住宅に囲まれた空き地、いわゆる旗竿地だった。深夜、そこを照らす明かりは夜空の星か隣接する住宅の窓から漏れるわずかなものだった。

(ツクヨミ、温度センサーに切り替えて)

 彼女は、頭の中でならすらすら話せた。

(了解)

 メガネを、赤外線を利用した暗視モードから温度センサーモードに切り替える。20度前後の青い映像の中、38度の小さな生き物の姿が二つ、赤くくっきりと見えた。雑草の向こう側、隣地の塀の基礎辺りだ。

(いた)

 アマテラスの感情が跳ねた。

(ミー君とは確定していない)

(冷たいなぁ。きっとミー君よ)

(冷たい? 意味不明)

(ツクヨミはAIだから)

(機械のAIと一緒にしないでほしい)

 抗議すると、(ごめんなさい)と彼女は謝った。彼女はすぐに謝るのだ。実に自己肯定感が低い。

 千絢はポケットの中のビニール袋から煮干しを取り出した。飼い主から預かったものだ。それはミー君の好物だという。

 ほんのりと煮干しの香りが広がっていく。

「ミー君、おいで、おやつよ」

 果たして、その影のどちらかがミー君だろうか?……彼女が優しく声を掛ける。

 ――ニャーゴ――

 高体温の生き物が向かってくる。

(ツクヨミ、暗視モードに切り替えて)

(了解)

 メガネのモードが変わると、草むらから顔を出したトラ猫が映った。その背後に、黒猫がいた。頭から尻尾の先まで真っ黒で、光る目だけが浮かんでいるように見えた。

(データ、照合。……トラ猫の方がミー君に間違いない。アマテラスの勘が当たっていた。あっぱれ!)

 彼女を褒めてやるのは自己肯定感を上げるためだ。

(良かった)

「ミー君ね。おいで」

 屈んで煮干しを差し出すと、トラ猫がそれをんだ。

 千絢は白杖を地面に置き、煮干しをもうひとつだして地面に置く。ミー君を確保する準備だ。

 ところが、それを黒猫が盗った。

「それはミー君のものよ」

 抗議すると黒猫は距離を取った。

(仕方がない。猫だから)

 黒猫の横取りをツクヨミは擁護した。障害にいちいち感情を動かしていては判断を誤りかねない。

(そうなのかしら? 動物の世界にだってルールがあるのでは?)

 アマテラスは応じながら、もうひとつ煮干しを置いた。

 最初の煮干しを食べ終えたミー君が面前にやってきて煮干しをくわえた。その隙に、千絢は両手でつかんで抱き上げた。ミー君は抗うことがなかった。

(ヨシ、ミッションクリア。速やかに研究所へ帰ろう)

 促すと、彼女は猫を片腕で抱き、白杖を拾って立ち上がる。

(大成功ね)

 彼女は喜び、その場でくるりと一回転した。

(千絢、デバイスのバッテリー残量は1時間)

(うん、分かった)

「帰りますよ。ミー君」

 彼女の腕の中のトラ猫は反応することなく、煮干しをムシャムシャ食べている。

「食いしん坊なんだから」

(猫だからね)

(猫は食いしん坊なの?)

(獣は本能に忠実なのよ)

(人間だって……)

 千絢が言葉をのみ、歩き始めた。神山博士の事務所まで、彼女の脚なら三十分ほどの道のりだ。


 明かりの多い繁華街に入る。ツクヨミはSaIのメガネを可視光線モードに変えた。

 神山博士の事務所兼研究所は、居酒屋や無国籍料理、スナック、アダルトグッズショップが入っている古いビルの屋上にあった。そこは神山探偵事務所でもあり、都会で生じる様々な謎に取り組んでいる。

 千絢は周囲に目をやらないようにしてエレベーターホールに向かって直進する。

(こんなビルに入るところをあの警察官に見られたら補導されてしまうわね)

 彼女は怯えていた。

(周囲、半径三十メートル内に、警察官の反応はない)

 千絢を安心させるために教えた。

(もし、ですよ。もぉし!……警察官の反応って、どうして分かるの?)

 その思考には珍しく挑戦的な色があった。怯えているのがばれたことに対する反発、強がりというものだろうか?……彼女の心を想像しながら返事を考える。

(警察無線機は、定期的に同期しているからです。その電波はSaIが拾っています。……もぉし、警察無線を持たない警察官がいるなら、私は補足できない。で、〝もぉし〟というのは、私に対する批判と受け止めてよいですね?)

(批判なんて大げさなものではありません)

(それに近いものではある、ということですね)

 小さないざこざも良い経験だ。

 深夜のビルに出入りするのは、酔っ払いやアウトローと思しき目つきの悪い男女ばかり。千絢にとってはエレベーターに乗るのにも勇気が要った。

 彼女が乗った直後、耳に沢山ピアスを付けた青年が乗り込んで七階のボタンを押した。千絢は十五階のボタンを押す。七人乗りの小さなエレベーターだ。二人の距離は近い。

(揚げ足を取るのは止めて)

(おや、そんな言葉も覚えたのですね)

 彼女は間近のピアスに目をやった。

(ツクヨミが難しい言葉を使うからです。毎日、一冊は本を読んでいるのよ)

(それは承知しています。千絢は、期待以上の努力家です。が、まだまだです。体力がない。それに、今の脈拍は分94、早すぎます)

(だって……)

 ピアスの青年の方に目を向けると視線がぶつかって彼女の血圧が跳ねあがった。彼は、ずっと千絢の方を見ていたようだ。

(やだ……)

 彼女は慌てて視線をそらした。

(千絢はこんな男性が好みなのですか?)

「違う」

 跳ねるような声が出た。

「何が違うって?」

 青年の声は苛ついているようだった。

「すみません。独り言です」

「何だよ。変なメガネしくさって。目が見えないのか?」

 彼はいきなり千絢のメガネに手をかけた。

(危ない!)

 ツクヨミは思わず叫んでいた。

「アッ、止めてください」

「杖とメガネ、どうせコスプレだろ」

 彼が強引にメガネを奪った。特殊な眼鏡はツルの一部が両耳内のアダプターに接続するように分岐している。それが引っかかって痛みが生じた。

「痛い……」

 千絢の痛みと同時に、ツクヨミから光と音、電波、……様々なデータが消えた。そうして生まれたのは完璧な暗黒だった。流れる音は遥か遠くでモーターが唸るような鈍いノイズだけ……。

 千絢は白杖を握りしめる。(助けて!)と叫んでいた。

(緊急事態、救助を呼ぶ……)

 ツクヨミは言ったものの、その声がアマテラス以外の誰かに届くことはなかった。

(できるの?)

(不可能、SaIがないとネットにアクセスできない。アマテラス、ここは踏ん張りどころだ)

(踏ん張るって、どうやって)

(彼に抗議して、SaIを返してもらうのです)

(怖いわ……)

 千絢の脈拍が108に上がる。彼女は勇気を振り絞り、青年に顔を向けた。

「ヤバ……」

 彼が息をのんだ。千絢の目に黒目はなかった。眼球はウズラの卵のように乳白色、ただ一色。

 ツクヨミと千絢は、彼の驚きを薄く感じていた。多くの人が千絢の目を見ると同じ反応をする。

「悪い、悪かった……」

 彼がぎこちなく千絢の耳にSaIを戻した。

(ほら、私、かわいくない)

(SaIがおしゃれじゃないから)

(SaIが外れたから、もっと嫌がられたのよ)

 ツクヨミは美醜を判断する能力を持たなかった。それで一般論を受け入れていた。その観点から見れば、丸メガネをはずした彼女を受け入れる男性は少ないだろうと想像できた。アマテラスを、いや、千絢を慰める言葉が見つからない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る