第17話 チェルシーの章1

チェルシーは軽やかな足取りで龍宮の廊下を進んでいた。四天秘書制服のスカートが揺れ、彼女の特徴的な明るい雰囲気をさらに引き立てる。


ここは総統閣下の官邸であり、国家の中枢でもあるが、一般国民向けのツアーも定期的に行われていた。龍宮の一部を開放し、国民に間近で国家の中枢を感じてもらうためだ。


「わぁ! ほんもののチェルシーさんだ!」


突然の声に振り向くと、ツアー客の集団の中にいた子供が、目を輝かせながら彼女を指さしていた。


「本当にここにいたんだ……!」


「おっ、超ラッキーじゃん!」


父親らしき男性が笑いながら言う。


周囲のツアー客もざわつき始め、彼女の方を見つめていた。


(うわっ、予想外のファンサービスタイム……⁉︎)


チェルシーは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに満面の笑顔を浮かべた。


「やっほー! みんな、龍宮へようこそ!」


彼女が手を振ると、ツアー客たちから歓声が上がった。


「お姉ちゃん、ここでどんなお仕事してるの?」


小さな女の子が、興味津々な目でチェルシーを見上げる。


「わたし? うーんとねぇー……総統閣下のお世話をしたり、国民のみんなに政策を伝えたりするお仕事かな!」


「へぇ〜! かっこいい!」


「えへへっ、ありがとっ!」


チェルシーはにっこり笑い、ツアー客たちを見渡した。彼らの表情はどこか誇らしげで、敬意を抱いているのがわかる。四天秘書として、国民とこうして触れ合うのは彼女にとっても楽しい時間だった。


「チェルシーさん、写真いいですか⁉︎」


「ごめんね! 秘書としての公務中だから、記念撮影はNGなんだ!」


「そっかぁ、残念……」


「でも、今日ここに来たことが最高の思い出になればいいな!」


チェルシーはそう言ってウインクし、親指を立てる。


「うわぁ、かわいい!」


ツアー客の女性陣から小さな歓声が上がる。


(ふふんっ、今日もチェルシーは絶好調!)


彼女は胸を張り、軽やかに廊下を後にした。




十数分後――


チェルシーはリビングの扉を開け、軽快な鼻歌を響かせながら中へと入る。


「ふっふふんふふ〜んっ! たっだいま〜っ!」


しかし――その場にいた三人の視線が、冷たくチェルシーを迎えた。


軽快に鼻歌を歌いながらリビングに入ったはずなのに、部屋の空気がまるで冷気を帯びたように張り詰めている。


ソニア、ラァーラ、サクヤ。


四天秘書の仲間たちが、揃って彼女を見つめていた。


その視線が、ただごとではないと告げている。


「え、なに? なんかあった?」


笑って誤魔化そうとしたが、誰も応じない。


異様な静寂がリビングに漂う。


サクヤが一歩、前に出た。


「――チェルシー」


低く、抑えた声だった。


その表情には怒りと、もう一つ、どこか悲しげなものが混じっていた。


「これはなに?」


そう言って、サクヤはスマホの画面をチェルシーに向けた。


「――っ!」


画面に映ったものを見て、チェルシーの脳が凍りついた。


心臓が、ひどく不規則に跳ねる。


そこに写っていたのは――


――一糸纏わぬ自分。


――そして、男。


血の気が引いていく。


「え……?」


声が、ひどくかすれていた。


(嘘……でしょ……?)


目の前の画面に映る光景を、どうしても現実として認められなかった。


でも、それはたしかに自分の姿を写していた。


「チェルシー、答えなさい」


サクヤの声が鋭くなる。 


「これは、あなたなの?」


「……」


口を開こうとしても、言葉が出ない。


喉が締めつけられるように、動かない。


頭の中が真っ白になり、なにも考えられなくなっていた。


「チェルシー!」


サクヤが強く詰め寄る。


怒鳴られた瞬間、チェルシーの身体がビクッと震えた。


――言葉が出せない。


――息が詰まる。


――視界がぼやけていく。


(どうして……どうしてこんなことに……⁉︎)


四天秘書の仲間たちの視線が痛い。


(なにか言わなきゃ……! なにか言わなきゃいけないのに……!)


――声が、出ない。


「答えなさい。これはあなたなの⁉︎ ……答えて!」


サクヤの声が鋭く響く。


チェルシーの喉が詰まり、息が止まりそうだった。


(違う……違う……こんなはずじゃ……!)


自分の脳が現実を拒絶していた。


しかし――映像はそこにあった。


スマホの画面の動画には、間違いなく自分の姿が映っている。


信じられない。


信じたくない。


でも、否定する材料が――無い。


言葉にならない沈黙の中、サクヤの苛立ちが増していく。


「答えなさい! これはあなたじゃないの⁉︎」


サクヤの怒鳴り声が、心臓を直接握りつぶすように響いた。


「ち……違う! 違うの!」


やっと出た声は、震えていた。


「違う……?」


サクヤの目が細くなる。


「じゃあなにがどう違うのよ⁉︎」


チェルシーは唇を震わせた。


――なにも言えない。


その沈黙が、答えそのものだった。


――言い逃れなんて、できるはずがない。


「……サクヤ、落ち着いて」


ソニアがサクヤの腕にそっと触れた。


「今はチェルシーの話を聞きましょう」


サクヤは息を荒くしながらも、肩をすくめて一歩引いた。


ソニアが静かにチェルシーに向き合う。


「チェルシー。これは、あなたなの?」


チェルシーは、震える唇を噛み締めた。


そして――無言で、こくりとうなずいた。


――静寂。


ソニアも、ラァーラも、一瞬だけ視線を逸らした。


サクヤが目を閉じ、ため息をつく。


「……この動画、いつ撮ったの?」


「……学生の頃……たぶん……」


当時は軽い気持ちと、ちょっとした悪ふざけだった。


毎日の鬱憤を晴らす「反逆」で「憂さ晴らし」だった。


ソニアとラァーラが息を呑む。


サクヤの表情は変わらない。


「で? この男は誰?」


「……彼氏……だった」


その瞬間、サクヤの目が冷え切った。


「そう……」


彼女は、手元のスマホを操作しながら言った。


「そいつ、今の状況を楽しんでるわよ」


その声が、妙に冷たい。


「閣下を侮辱してるわ」


「――えっ?」


「投稿してるのよ。『総統閣下は俺の中古品を大事にしてるクソダサジジイ』って」


チェルシーの意識が真っ白になった。


「――っ!」


息が詰まる。


画面を見ると、そこには元カレの投稿があった。


『総統の秘書「チェルシー」の本名は「鈴木千佳」』


『今さらアイツが俺の元カノだってバレてて草 www』


『総統閣下、俺の中古品で喜んでるんですかぁ〜? www』


『総統閣下ってマジで見る目ないよな〜 www』


『この女、高校じゃ男遊びで有名だったし〜 www』


『こんなのを側近にする国家元首、終わってるだろ草』


指先が、震えた。


「嘘……」


涙が、込み上げる。


元カレだけじゃない。


知らない奴らが、好き勝手に書き込んでいる。


彼女を、ゴミのように扱う言葉。


それだけじゃない。


大切な閣下までも、侮辱されている。


――自分のせいで。


「なんで……こんな……!」


チェルシーの胸が、押し潰されそうになる。


「わたしの……せいで……閣下が……!」


――指先が、冷える。


――呼吸が、苦しい。


――視界が、歪む。


――息が、できない。


――胸が、痛い。


(なんで……こんな……!)


――過呼吸。


――視界が暗くなる。


――膝が震え、力が抜ける。


「チェルシー!」


誰かの声が聞こえた。


けれど、彼女の意識は、そのまま闇に沈んでいった。


意識がぼやける。


呼吸が浅く、胸が締めつけられるような感覚の中で、チェルシーはかろうじて現実にしがみついていた。


「……閣下だけじゃないわよ」


サクヤの冷たい声が、暗闇の中で響く。


「私たち四天秘書全員、侮辱されてる」


チェルシーはかすかに目を開けた。


サクヤが無言でスマホをスクロールし、画面を見せる。そこには、チェルシーを嘲笑する投稿の数々に混じって、ソニア、ラァーラ、サクヤへの誹謗中傷が溢れていた。


『四天秘書って全員総統閣下の奴隷なんだろ?』


『あのポニテ女、偉そうなこと言ってるけどどうせヤバいことしてるんじゃね?』


『ラァーラとか絶対閣下を誘惑してんだろ。ビッチ臭すぎwww』


「……っ!」


チェルシーの胸が、抉られるように痛んだ。


(わたしのせいだ……! 全部、わたしのせい……!)


閣下だけではなく、ソニアも、ラァーラも、サクヤも。


みんなが、自分の過去のせいで、笑いものにされている。


「……っ! ごめん……! ごめん……!」


大粒の涙が零れ落ちた。


サクヤが、ため息をついた。


「……私への侮辱はどうでもいいわ」


その言葉に、チェルシーは驚いて顔を上げた。


サクヤの表情は、どこまでも冷静だった。


「あの程度の言葉で揺らぐほど、私の価値は安くない」


彼女は端正な顔を歪めることもなく、淡々と続けた。


「でも――閣下への侮辱は許さない」


その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。


「……サクヤ……」


「これはただの個人攻撃じゃないのよ、チェルシー」


サクヤは静かに言った。


「総統閣下はこの国の最高指導者。彼が公然と侮辱されることは、この国の安定を揺るがすことに直結するのよ。それは、築き上げてきた体制の崩壊にもつながりかねないわ」


彼女の言葉が、チェルシーの心を締めつけた。


(わたし……なんてことを……!)


「チェルシー、あなたの過去はどうでもいい。でも、事態の重大さは理解している?」


サクヤの視線が、鋭くチェルシーを貫く。


「このスキャンダルで閣下の権威が揺らげば、それは国全体に影響を及ぼすのよ。軽い問題じゃないわ。……はぁ……問題は……これをどう閣下に報告するかね……」


「……知らなかった……そんなこと……!」


チェルシーは嗚咽をこらえながら、震える声で言った。


「そんな……そんなつもりじゃ……!」


チェルシーは俯く。


「……ごめんなさい……」


けれど、謝るだけではどうしようもないことも、わかっていた。


謝っても、過去は消せない。


無数のタトゥーのように、インターネットの海に残っている。


部屋の外から、ポツ、ポツとなにかが落ちる音が聞こえた。


――雨。


どんどん勢いを増していく。


その音が、まるで自分の心を責めているかのように聞こえた。


「……もう……わたし……ここにはいられない……」


震える声で、チェルシーは呟いた。


「……チェルシー?」


ソニアが驚いた声を出す。


「ごめん……。本当に……ごめん……!」


そう言い残し、チェルシーはドアに向かって走り出した。


「ちょっとチェルシー!」


ラァーラの声が聞こえたが、振り返らなかった。


部屋を飛び出し、雨の降る庭を突き抜ける。


冷たい雨の音が、龍宮のたてもの全体を包んでいた。


(どこか……どこか遠くに……!)


そんな思いが、彼女を突き動かしていた。




雨が、容赦なく降り注ぐ。


チェルシーは龍宮の正門を飛び出し、雨の中を走っていた。


どこへ向かうのか、自分でもわからない。


ただ、ここにはいられない――その思いだけが、彼女の足を動かしていた。


雨が降り続ける。


――冷たい。


だけど、それ以上に心が痛かった。


チェルシーは必死に走った。雨に濡れた舗道は滑りやすく、何度も足を取られそうになる。それでも、足を止めることだけはしたくなかった。


(遠くへ……もっと遠くへ……!)


この場所にいたくない。四天秘書としての居場所が、もう自分にはないような気がした。


なにより、閣下に顔向けできない。自分にすべてをくれた閣下に。


――もう、ここにはいられない。


雨が強くなる。


冷たい滴が肌を刺し、濡れた制服が重く身体に張り付く。


呼吸が乱れる。胸が痛い。


どこまで走ったのか、もうわからない。


それでも走り続けようとした、そのとき。


――ズルッ!


足を滑らせ、バランスを崩した。


「あっ――」


次の瞬間、身体が宙を舞った。


――ドサッ!


地面に叩きつけられる。


「……っ! 痛っ……!」


膝からズキリとした痛みが走る。


制服のスカートが泥にまみれ、手のひらには鋭い砂利が食い込んでいた。


擦りむいた膝から赤い血がにじみ出る。


でも、そんなことはどうでもよかった。


(もう……どうでもいい……)


チェルシーはその場に倒れ込んだ。


視界は雨粒に霞み、すべてがぼやけていく。


「……うっ……うぁぁぁ……」


涙がこぼれる。


喉が詰まり、うまく息が吸えない。


誰も、来ない。


誰も、追いかけてこない。


――やっぱり、自分は一人なんだ。


こんなことになるなら、最初からなにもなければよかったのに。


四天秘書になんてならなければよかった。


閣下と出会わなければよかった。


そうすれば、こんなに苦しむこともなかった。


「……どう……して……」


過去の自分が憎かった。


軽率にあんな動画を撮らせた、愚かな子供の自分。


なにも考えず、ただ「好き」「愛し合いたい」「愛の証を残したい」という感情に流されて、あの男を信じた自分。


――その結果が、これだ。


(……あのときのわたしを……殺してやりたい……)


泥のついた手で、地面を叩いた。


「なんで……なんで……っ!」


声にならない嗚咽が漏れる。


雨は止む気配もなく、降り続けていた。


冷たい雨粒が、チェルシーの頬を打つ。


――このまま、全部流してくれたらいいのに。


過去も、今も、なにもかも。


(……閣下……)


彼を思い浮かべた瞬間、胸がさらに痛んだ。


閣下に失望される。


閣下に「汚い」と思われる。


閣下にボロ雑巾のように捨てられる。


もう自分は、四天秘書の一員でいられない。


きっとすぐに、別の誰かが補充される。


もっと綺麗で、優秀で、汚れた過去のない誰かが。


「……っ。ごめん……なさい……」


誰に謝っているのかもわからなかった。


チェルシーはただ、雨の中で泣き続けた。


転んだまま、泥まみれの地面にうずくまり、泣き続けた。


「……うぅ……っ……う……」


か細い嗚咽が、雨音にかき消されていく。


時間の感覚がなくなっていた。


(誰も、来ない……)


そう思うと、余計に胸が痛んだ。


サクヤも、ソニアも、ラァーラも――誰も追いかけてこない。


それは、当然のことだった。


汚い自分は龍宮にいるべき存在ではないのだから。


「……もう……嫌……」


喉の奥から、小さな声が漏れる。


雨が、容赦なく頬を叩く。


チェルシーの涙と混じり、冷たい感触だけが残った。


(もう……終わりにしたい……)


目を閉じる。


すべてを閉ざしたくて。


なにも見たくなかった。


なにも聞きたくなかった。


なにも感じたくなかった


「……死に……たい……。……誰か……殺……して……」


呟いた言葉は、雨の中に消えた。


死ねば、こんな苦しみから解放されるのに。


閣下に迷惑をかけることもなくなる。


四天秘書の仲間たちを傷つけることもなくなる。


なにより――この、心を引き裂かれるような絶望から、解放される。


(……もう……死に……たい……)


泥にまみれた手を、ぎゅっと握りしめた。


力を込めたところで、なんの意味もなかったけれど。


ただ、そうしないと、自分が崩れ落ちてしまいそうだった。


雨が、容赦なく降り続ける。


闇と冷たい雨に包まれて――チェルシーはただ、そこにいた。




どれほどの時間が経ったのか、わからなかった。


雨はまだ降り続いている。


全身が冷え切っていた。


泥だらけの四天秘書の制服が肌に張り付き、指先の感覚はなくなっている。


目を閉じて、ただ雨音に身を委ねる。


そうすれば、少しだけ痛みが和らぐ気がした。


ふと、雨の感触が消えた。


「……え?」


チェルシーは、ゆっくりと顔を上げた。


確かに、雨は降り続けている。


だけど、なぜか自分の頭上だけが、ぽっかりと雨から守られていた。


「……チェルシー……」


静かな、けれど確かに届く声。


「っ!」


息が止まりそうになった。


恐る恐る視線を上げる。


そこに――彼がいた。


「……閣下……」


雨は止んでなどいなかった。


彼が、傘を差していたのだ。


その傘が、チェルシーの上に掲げられている。


――静寂。


チェルシーは息を呑んだ。


閣下は、いつものように無表情だった。


なにを考えているのか、まったく読めない。


けれど、彼が自分を探しに来たのは、間違いなかった。


彼の黒い軍服のようなスーツは雨に濡れ、冷たい風に翻っている。


(……どうして……)


雨音。


沈黙。


「……捨てて……」


やがて、かすれた弱々しい声が、喉から漏れた。


閣下は、なにも言わなかった。


ただ、チェルシーをじっと見ている。


「……わたしを……捨てて……ください……」


雨の音が、やけに大きく聞こえた。


「……もう……わたしは……閣下と……いれない……」


涙が滲む。


声が震え、嗚咽が漏れそうになる。


「……お願い……です……捨てて……」


そう言うのが、精一杯だった。


けれど――閣下は、なにも言わないまま、傘を差し続けていた。


ただ、そこに立ち続けていた。


チェルシーは、泣きながらつぶやいた。


「……わたしが……閣下の……名誉を……傷つけた……! ……わたしのせいで……みんな……!」


それでも、彼はなにも言わなかった。


時間が、止まったかのようだった。


沈黙。


雨音。


遠くから、足音が聞こえた。


「チェルシー!」


ソニアの声。


「くっ……! どこ行ったかと思ったら!」


ラァーラの声。


彼女たちは、必死に駆け寄ってくる。


しかし――


「――待って」


サクヤの冷静な声が響いた。


「待って」


その言葉で、ソニアとラァーラの足音が止まった。


静寂が戻る。


雨が、降り続いている。


チェルシーは、まだ嗚咽を漏らしていた。


(なんで……なにも言わないの……?)


彼の沈黙が、余計に胸を締めつけた。


(これが……答えなの?)


「……そう……ですよね……」


チェルシーは、笑った。


「……閣下が……なにも言わないのは……きっと……本気で……怒ってるから……ですよね?」


チェルシーは続ける。


「……呆れて……いるから……ですよね……?」


自嘲するように、泣きながら言った。


「……だから……黙ってるんですよね……?」


雨が、強くなる。


冷たい風が、肌を切るようだった。


(どうしようもない……。……なにを言ったって……許されるわけない……)


彼は、国家の最高指導者だ。


なによりも国のことを考え、冷徹に判断を下す男。


だからきっと、ここで――自分を見捨てる。


そう思った。


そのときだった。


彼がそっと口を開けた。


「――チェルシー」


そして、彼女を直視し告げた。


「おまえは、悪くない」


静かに、しかしはっきりと告げられる言葉。


チェルシーは、息を飲んだ。


「……そんなわけ……ない……!」


「――チェルシー」


だが、彼の力強い声が、自分を遮った。


「おまえは、俺の女だ」


その瞬間。


チェルシーの意識が真っ白になった。


彼の腕が、優しく、けれど決して逃がさぬように、そっと彼女を抱きしめた。


「おまえを傷つける過去は、俺が許さない」


「っ……!」


瞬間、枯れたはずの涙が出た。


「過去がおまえを傷つけるたびに、俺がおまえを染め直してやる」


総統閣下の声は、雨音の中にあっても、絶対的な強さを持って響いた。


「おまえは、俺のものだ。俺の側にいろ」


「っ……! …………あああああああっ!」


涙が止まらない。


声を上げて、泣き続けた。


閣下の腕の中で、雨の音に溶けていくように、ただひたすら泣きじゃくった。


「あああああああっ……!」


チェルシーの叫びが、雨音を突き抜けた。


胸の奥から絞り出すような、張り裂けるような嗚咽だった。


涙が溢れる。


止まらない。


止められない。


止めたくない。


喉がひりつくほど泣き叫び、肺が焼けるように苦しい。


それでも、声を出さずにはいられなかった。


こんなにも苦しくて、こんなにも嬉しくて、こんなにも愛しくて――


抱きしめられているのに、身体の奥底が痛い。


閣下の腕が、自分をしっかりと抱きしめている。


その温もりが、逆に苦しくて、心が壊れそうになる。


「うっ……ぐぅ……ぁぁっ……!」


声が、しゃくり上げるように乱れる。


嗚咽が止まらない。


雨に打たれ、冷え切った身体の中で、唯一温かいのは彼だった。


(こんなわたしを……こんな……なにもかも壊したわたしを……どうして……どうして……見捨ててくれないの……⁉︎)


だがそれが、同時に、どうしようもなく嬉しかった。


チェルシーは、全身で閣下にすがりついた。


自分の指先が、彼の服をきつく握りしめる。


離したくなかった。


この温もりを、失いたくなかった。


涙が雨に混ざり、顔をぐしゃぐしゃにする。


鼻水も、しゃくり上げる声も、すべてが乱れ、抑えがきかない。


(こんなの……みっともない……でも……)


涙を止める術などなかった。


頭を閣下の胸に押しつけ、子どものように泣きじゃくる。


泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。


魂の穢れがすべて涙になって流れ出すかのように、彼の腕の中で崩れ落ちた。


総統閣下の腕が、決して離さないように、チェルシーを抱きしめていた。


雨の音が、遠くなっていく。


世界が、彼の温もりの中に溶けていく。


チェルシーはただ、泣き続けた――

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