序章〜現世という名の流刑地で〜
第一話 愛犬クロ、母と弟一家のこと
◆◇◆
小雨の降りしきる曇天。
火葬場の細い煙突から、白い煙がまっすぐ
大きな
愛犬クロの葬儀は、しめやかに行われた。
つるりとした黒い小さな骨壺を、墓石の下へと収めた後も、私、
成宮クロ。
享年十七歳(推定)。
彼女は、私が十三歳になる年の秋にやってきた、やんちゃな
別に、大病をしたわけじゃない。
艶のある毛並みは、いつしか柔らかく縮れていった。
今年の夏には、とうとう「散歩」と聞いても、背中を見せたまま、ふうん、と鼻息を鳴らすだけになった。
母も弟一家も忙しいときは、時折、私が病院へ連れて行ったりもした。
「老衰だね」
それが、子どもの頃からお世話になってる老先生の診断だった。
「何か、出来ることは?」
「いつもどおりの生活をして。それから、いっぱい、かわいがってあげてね」
老先生の娘である若先生が、言葉を続けた。
だから、私たちは言われた通り、今まで通りの生活をした。
引きずる足に支えをつけ、毎日の散歩を続けた。もつれる毛をブラッシングして、ほんの少しだけ、ご飯を柔らかくした。
花の咲く春も、蒸し暑い夏も、涼しい秋も、雪の降る冬も。
花びらや水たまりに鼻をひくつかせ、蝶や雪の訪れに身体を揺らす彼女を、ただ静かに見守った。
私も、実家に帰る頻度を増やすでもなく、仕事のない早朝か夕方に散歩をし、努めていつも通りを心掛け過てごした。
そして、とうとう三日前。
母から
【母】クロ、そろそろかもしれない
【私】わかった
「お邪魔します」
玄関の引き戸に鍵は掛かっておらず、カラカラと乾いた音が土間に響いた。母は留守だった。畑にいるのかもしれない。
「クロ?」
和室の隅のクッションの寝床に、クロは居た。クロの息はぜえぜえと荒く、背中が小刻みに上下した。
縁側から差し込む低い夕陽が、彼女の輪郭線を白く照らしていた。その姿は、どこか神々さすらあった。
私は、クロの乾いた鼻にそっと顔を近づけた。彼女は、大きく目を見開いた。
クロを抱きしめ、瞳を見つめる。その瞳には、命の灯火が小さく揺れていた。
その、最期の一雫。それが、ゆっくりと静かに消えてゆくのを、私はただ見守った。
私は、にっこりと微笑んだ。何故か、そのときは、そうするべきだと思った。
「クロ」
クロは、苦しそうだった。少しでも、安心させたかった。私は、クロの前足を握った。
「クロ、ありがとう。あなたが居てくれて、本当に良かった」
クロは、くふん、と鳴くと、ゆっくり瞼を閉じた。
クロの前足の力が、ふっと抜けてゆく。
クロはそうして、私の腕の中で眠るように亡くなった。
「もしも、苦しい顔で亡くなってしまったら、処置をするから、病院へいらっしゃい」
若先生たちにはそう言われていたが、クロの顔は、実に穏やかだった。
やがて日が暮れて、家族が帰宅する足音が聞こえた。
部屋の明かりも点けずにクロを抱く私に、母は、あっ、と小さく声を上げた。
☆
「お仕事、戻らなくていいの?
「うん。お休み、取れたから」
「そう?それじゃあ、みんなで、
「私は、……いいかな」
「ええ?だって、
「早く行こうよ、お婆ちゃん!じゃあ、またね!
「ええ?でもお……」
「ほら。……行って、母さん」
私は、傘を差してないほうの手で、母の背中を押し、弟夫婦に会釈した。
甥っ子の
後部座席のサイドウインドウを開けて微笑む姪っ子の
彼女の歯には、矯正器具が嵌っていた。
「バイバーイ、
「サヨウナラー!」
「もう、来なくていいからね!」
手を降る彼らの車のダッシュボードから、ハラリとレシートが飛んだ。
私がそれを掴むと、弟はハッとして運転席から身を乗り出し、私の手からひったくるように、そのレシートをもぎ取った。
それから、母を乗せた彼らの黒いワゴン車が急発進して、足早に走り去るのを見送った。
ペット葬儀場には、私と私の赤い愛車がぽつりと残された。
山々からは、鳥たちの囀りが聞こえた。
別れ際の挨拶。
あれは、労い?それとも、拒絶?
おそらく、……後者だろう。
さっきのレシート。会食の予約明細だった。
大人三人、子ども三人。
そこに、私は含まれていない。
私がノコノコついて行ったら、『あら、
しかも、クレジットカードの名義は母のものだった。
正月も盆も、祖父母が亡くなってからは、ずっとそんなミスのような、嫌がらせのような状況が続いていた。
優しげに私を誘い出しては、みんなで
やんわりと指摘をすれば、そんなつもりはない、姉さんはいつもそうやって妻を虐める、
クロのことがあるとはいえ。
頻繁に実家に出入りする私のことを、弟一家は、疎ましく思っていたんだろう。
もちろん母もだ。
母の生活は、いつだって
私に似て、下の子は、男の子はかわいい。長男は偉い。
それが、母の口癖だ。
母に、悪気なんて一ミリもない。
しかし、父に似て、上の子で、女の子で、長女の私の立場はどうなるのだ?
かわいくない、下僕?
はいはい、そうですか。
了解、了解。イエッサー。
実の親である、祖父母にたしなめられても、母は、本当のことだからと、まったく悪びれなかった。
(本当のことだからって、……何でも口に出していいわけじゃないと思うけど)
アラサーにもなれば、こちらもいい大人だ。
母には母の事情。
私には私の事情。
今更、傷つきはしない。
――天。あなた、遺産相続は、放棄してくれるわよね?
おひとりさまなんて、相当に自分勝手な生き方をしてるんだから。
祖母の葬儀で母にそう宣言されたときも、私は特に反対しなかったし、弟一家の同居が、私の知らぬ間に決まったときだって、私は何も言わなかった。
前々から荷物は減らしていたから、淡々と私物を引き上げ、部屋を明け渡し、鍵を返却した。
保証会社を探し、会社と実家からほど近い、一人暮らしのアパートを契約した。
しかし、車庫や物置にしまった私物まで手を出されたのは、流石に想定外だった。
カー用品やキャンプ用品は、いつの間にか母や彼らの所持品になり、園芸用品やバイク用品は、知らぬ間に庭に放り出され雨に打たれて、その殆どを処分せざるを得なかった。
私は、レンタルルームを借りるべきだったのだ。
そんな設定、受け入れるつもりはサラサラないが、なにせ実家は母名義だ。
老兵は、ただ立ち去るのみ。
弟一家は、土地も建物も、まるっと持っていく算段なのだろう。
――遺留分の請求なんてしようものなら、お前もこうなるぞ。
あの日、雨に打たれたライダースジャケットは、弟の、私に対する警告のように思えた。
そうして、クロに別れを告げて、私は家を出た。
義妹の
「はあ」
甥も姪も、大きくなったな。
休日のたびに母に呼び出され、おむつを換え、積み木やボールで遊んだ日々が懐かしい。
しかしそれらの思い出は、彼らの記憶からは抹消されたのだろう。
もう、実家に行くのは止めよう。
母に会いたければ、外で会えばいい。
クロのお参りをしたければ、ここへ来れば良い……。
そんなふうに考えていたら、いつしか小雨は止んでいて、私は傘を降ろした。
山々の向こうの空には、薄く細い虹がかかっている。
「虹……」
私はゆっくりと傘を畳むと、その虹をスマホで撮った。
亡くなったペットは、虹の橋の
クロはあそこに居るのだろうか?
母か、弟に
一瞬考えたが、止めておいた。
それならば、他の誰かに送ろうか?とも思ったが、虹を送る相手なんて、別段思い当たらなかった。
◆◇◆
***
――テンちゃん。
テンちゃん。
聞こえる?
私だよ。
嫌な記憶を掘り起こして、ごめんね。
虹の回廊の通行には、審査が必要なの。
悪いものが混じらないように、私たちが一度、
だから、もう大丈夫。
今は、安心して眠っていて。
目が覚めたら、一緒にお散歩しようね。
自由気ままな、おひとり様。
テンちゃんはいつだって、私の憧れなの。
のんびり、ゆったり、モッフモフ。
とびきりのスローライフを用意して待ってるよ!
***
―――――――――――
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