閑話集①

SideTalk:姫と執事の夜会話 †ノクターン家の不文律

 ノクターン侯爵邸の西棟、厚手のカーテンに覆われた窓からは、星明かりがかすかに漏れていた。秋深まる夜、薔薇の香りが漂う寝室で、イリスは硬く結われた髪を解き始めていた。成人の儀を終え、政略結婚の話が具体的になってきたこの時期——彼女の心は今宵も冷たく凍えていた。


 銀色の髪が淡いラベンダー色の瞳を覆い隠すように流れ落ちる。イリスの白い指が、滑らかな髪を梳かしていく動作は、まるで人形を扱うかのように機械的だった。彼女の着ている寝間着は、純白のシルクに薄い金の刺繍が施された上品なもので、その袖は長く、ひらひらとしていた。


「失礼します」


 三度のノックの後、低い声と共に扉が開く。


 そこに佇むのは、高身長で筋肉質な体格の獣人男性だった。|漆黒《しっこく》に近い灰色の髪に琥珀色の瞳が、月明かりを受けて淡く光っている。黒を基調とした執事服は完璧に着こなされ、銀の留め具が胸元で冷たい輝きを放っていた。


「お嬢様、就寝前のお茶をお持ちしました」


「ヴァルト…」イリスは振り向きもせず、鏡越しに彼を見た。「今日は|紫蘇《しそ》のお茶かしら」


「はい。お嬢様の寝つきを良くするために、シルヴィア様が特別に調合されたものです」


 ヴァルトは静かに部屋に入り、銀のトレイを窓際の小さなテーブルに置いた。彼の動きには無駄がなく、それでいて優雅さが宿っていた。


「いつもこの時間に来るのね。他の執事や侍女たちは決して入ってこないのに」イリスの声は感情を感じさせない平坦なものだった。


「失礼ながら、他の者たちは『薔薇の籠』の決まりを守っているだけです。お嬢様に触れることは許されていませんから」


 ヴァルトは一歩下がり、姿勢を正した。彼の視線はイリスの顔から決して離れない。


「そう…『令嬢閉門制度』ね。父上の言う『完璧な貴族の娘』を形作るための、この屋敷の不文律」


 イリスはゆっくりと立ち上がり、窓際のテーブルへと向かった。月光に照らされた彼女の肌は、まるで上質な白磁器のように滑らかで透き通っていた。


「ヴァルト、あなたは知っているの? ノクターン家の令嬢が守るべき三つの|鉄則《てっそく》を」


「はい。シルヴィア様から伺いました」彼は真っ直ぐに答えた。「第一に、男性使用人との接触禁止。第二に、十五歳の社交界デビューまでの外出禁止。第三に、感情表現の抑制…」


「ふふ…よく覚えているわね」イリスは小さく笑ったが、その表情には何の温かみもなかった。「でも、あなたはその鉄則を破っているわ。私の髪に触れたじゃない」


「おそらく、獣人は人間扱いされてないからかと」


「そう」


「執事というのは、単に給仕をするだけの存在ではありません。貴族の面目めんもく矜持きょうじを守る者。そして…」


「貴族の秘密を守る者」


 イリスが静かに言葉を継いだ。「父から聞いたことがあるわ」


 二人の間に沈黙が落ちた。その静寂は重く、しかし不快なものではなかった。


「ねえ、ヴァルト」


 イリスが再び口を開いた。「ノクターン家の令嬢としての不文律ふぶんりつを知りたいの」


 ヴァルトは少し驚いた表情を見せた。


「それはシルヴィア女史の方が…」


「シルヴィアは教えてくれないわ。『ご本人にはお教えできません』だって」


 イリスの声音には珍しく苛立ちが混じっていた。


「私は…ノクターン家の令嬢として何をすべきで、何をしてはいけないのか。父は私に何を期待しているの?」


 ヴァルトは少し考え、それから静かに答えた。


「ノクターン家の令嬢は、完璧な淑女しゅくじょであることを求められます。それは見た目だけではなく、内面も含めて」


「内面…?」


「はい。特にあなた様の場合は、感情を表に出さないことが重視されてきたように見受けられます」


 イリスの表情が僅かに曇った。


「感情を出さない人形…それが父の望みなのね」


「しかし」


 ヴァルトは一瞬躊躇したが、続けた。


「私が見る限り、それはあなた様を守るためのよろいだったのではないかと」


 イリスは驚いて目を見開いた。


「どういう意味?」


「ノクターン侯爵家は王国内でも古い家系かけい。政治的な謀略ぼうりゃく陰謀いんぼうが渦巻く世界です。感情を見せることは、時に弱みになる」


 ヴァルトは窓際へと歩み寄り、月明かりに照らされた庭園を見た。


「あなた様が感情を表に出さない仮面かめんを身につけたのは、侯爵様があなた様を守るためだったのかもしれません」


「…それは優しい解釈かいしゃくね」


 イリスは皮肉っぽく言ったが、その声には不思議な温かさが混じっていた。


「でも、ヴァルト。もしそれが本当なら、私はその鎧を脱ぎ捨てる時が来たと思うの」


「お嬢様…」


「私は人形じゃない。感情がないわけじゃない」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、ヴァルトに近づいた。二人の間には、まだ一定の距離があった。


「ヴァルト、あなたは私をどう思う?私は本当に完璧な令嬢?それとも…」


 ヴァルトは一瞬だけ言葉に詰まった。彼の金色の瞳が、何かをうれうように揺れた。


「あなた様は…完璧ではありません」


 イリスの目が僅かに見開かれた。


「しかし」


 ヴァルトは続けた。


「完璧でないからこそ、人間として美しい」


 彼の言葉は、部屋の静寂の中に響き渡った。イリスは驚いて彼を見つめたが、すぐに表情を平静に戻した。それでも、彼女の頬が僅かに紅潮していることをヴァルトは見逃さなかった。


「随分と奇妙きみょうな物言いね、執事としては」


 イリスは少し顔を背け、月明かりに照らされた窓辺へと戻った。


「明日から礼儀作法の練習を始めましょう」


 ヴァルトは一礼した。


「何の練習?」


「社交界デビューに向けた準備です。舞踏、会話術、食事のマナー…」


「それはシルヴィアの仕事じゃないの?」


 イリスが振り返り、首を傾げた。その仕草は彼女自身が気づいていない愛嬌あいきょうがあった。


「シルヴィア女史に基本を教わりましたので、私でも務まるかと」


 ヴァルトは淡々と言ったが、その瞳は妙に真剣だった。


「それに…男性との応対おうたいの練習には、男性の相手が必要でしょう」


 イリスは一瞬だけ動きを止めた。それから小さくため息をついた。


「わかったわ。明日からよろしく頼むわ、ヴァルト」


「はい、お嬢様」


 ヴァルトは深々と一礼した。彼が顔を上げた時、その顔には普段見せない柔らかな表情が浮かんでいた。


「それでは、お休みなさい」


 彼は静かに部屋を出ようとした。


「ヴァルト」


 彼が扉に手をかけた時、イリスの声が彼を呼び止めた。


「…ありがとう」


 その言葉は、風のように小さかった。ヴァルトは振り返らず、僅かに頷いただけだった。


「お役に立てて光栄です」


 扉が閉まり、部屋にはイリスだけが残された。彼女は月明かりの中で、初めて小さな微笑みを浮かべていた。その表情は、人形のそれではなく、確かに生きた少女のものだった。


 ---


 翌朝、ヴァルトは時間通りにイリスの部屋を訪れた。


「失礼します」


 彼がノックをして入室すると、イリスはすでに起きて窓際に立っていた。昨夜と同じ場所だ。彼女は振り返り、普段通りの無表情でヴァルトを見た。


「おはよう、ヴァルト」


「おはようございます、お嬢様」


 ヴァルトは銀のトレイを持っていた。その上には小さな紅茶のポットと、バラの花が一輪。


「今日のお茶はアールグレイです。レモンの香りを加えました」


 彼はテーブルにトレイを置き、手際よく紅茶を注いだ。その動作は昨日までより洗練せんれんされていた。


「昨晩は…」


 イリスが言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「はい?」


「いいえ、何でもないわ」


 彼女はカップを受け取り、一口啜った。


「美味しいわ」


「光栄です」


 ヴァルトは頭を下げた。


「今日からの礼儀作法の練習ですが」


 彼は話題を変えた。


「まずは基本的な立ち居振る舞いから始めましょう。社交界では、あなた様の一挙手一投足が注目されます」


 イリスは紅茶を置き、ヴァルトをまっすぐに見つめた。


「なぜあなたがそこまで気にかけるの?単なる執事の仕事以上のことをしているわ」


 彼女の質問は鋭かったが、敵意はなかった。純粋な好奇心だった。


 ヴァルトは一瞬考え、それから正直に答えた。


「私は…あなた様に借りがあります」


「借り?」


「私を選んでくださったこと。それだけで十分な理由です」


 イリスは彼の金色の瞳をじっと見つめた。そこに嘘はなかった。


「わかったわ」


 彼女はようやく言った。


「でも約束して。私を人形のように扱わないで。私は…感情を持っている」


 ヴァルトの表情が柔らかくなった。


「もちろんです、お嬢様。あなた様は人形ではなく、血の通った人間です」


 イリスの顔に安堵の色が浮かんだ。それは彼女自身が気づかないほどの小さな変化だったが、ヴァルトの鋭い目は見逃さなかった。


「では、始めましょうか」


 ヴァルトが言うと、イリスは頷いた。


「どうぞ、師匠」


 彼女が冗談めかして言ったのを聞いて、ヴァルトの唇が微かに上がった。笑顔とは言えないまでも、確かに彼の表情に変化があった。


 こうして、人形姫と獣の執事の不思議な日々が始まった。それは二人が知らない間に、互いの心壁しんへきを少しずつ溶かしていく時間となるのだが——その物語はまた別の機会に。


 ___


 執事の心得:ヴァルトのメモ


 1. 主人に対する絶対ぜったいの忠誠

 - 命令には無条件に従うこと

 - 主人の利益を最優先すること

 - 秘密は墓場まで持っていくこと


 2. 威厳いげんある立ち振る舞い

 - 常に背筋を伸ばし、顎を引くこと

 - 視線は常に前方か主人に向けること

 - 足音を立てず、存在感を出さずに動くこと


 3. 完璧な給仕きゅうじ

 - 主人の好みを把握し先回りすること

 - 料理の温度、飲み物の濃さを確認すること

 - 給仕は左側から、下げるは右側からが基本


 4. 主従の礼節れいせつ

 - 主人との距離は常に三歩以上を保つこと

 - 目線は直接合わせず、やや下方を見ること

 - 感情は表に出さないこと


 5. **追記:イリス様に限り**

 - 彼女は人形ではない

 - 感情を持つことを恐れさせないこと

 - 時には規則よりも彼女の心を優先すること


 ___


 令嬢の心得:ノクターン家の不文律


 1. 感情の抑制よくせい

 - 喜怒哀楽は最小限に留めること

 - 特に公の場では完璧な無表情を保つこと

 - 笑顔は社交辞令としてのみ許される


 2. 言葉遣いと礼儀

 - 常に丁寧語で話すこと

 - 声のトーンは一定に保つこと

 - 質問は最小限に、返答は簡潔に


 3. 立ち居振る舞い

 - 背筋は常に伸ばし、肩の力は抜くこと

 - 歩く際は床を滑るように、音を立てないこと

 - 手は常に前で組むか、脇に添えること


 4. 身だしなみ

 - 服装は常にノクターン家の格式に合わせること

 - 髪は乱れなく、装飾は最小限に

 - 香水は控えめに、純白や淡色を基調に


 5. 交際

 - 男性との接触は一切禁止

 - 会話は公の場でのみ許可される

 - 婚約者以外との親密な関係は絶対に禁止


 **イリスの密かな追記:**

 これらの規則は、いつか破られるために存在するのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る