第2章「島野咲羽の始まりの日」

 朝、アラームが鳴り響いた。

「……ん……」

 まぶたをゆっくり開けると、天井に朝の光が差し込んでいた。

 咲羽は小さくあくびをし、布団から体を起こす。まだ夢の中にいたような感覚が、微かに残っている。

「……今日から、高校生……なんですね」

 少しだけ自分に言い聞かせるように呟く。

 パジャマのまま、階段をゆっくりと降りていくと、いつもの朝がそこにあった。

「おはようございます。今日も……良い一日になりますように」

 誰に言うわけでもなく、けれど丁寧な口調で言葉を紡ぐ。

 咲羽は炊飯器を開け、湯気の立つご飯をよそい、味噌汁の具をかき混ぜながら器に注いだ。おかずを並べて、野菜ジュースをコップに注ぎ、両手を合わせる。

「いただきます」

 口に運んだ味噌汁の温かさが、少しだけ緊張した心をほぐしてくれる。

 ふと視線をテレビに移すと、画面にはニュースキャスターが昨日の出来事を読み上げていた。

「……いつも通り、なんですね……」

 ぽつりと呟いたその声には、どこか寂しげな響きがあった。新しい一日は、きっと特別なはずなのに、それを包む世界はいつも通りであった。

『でも……私の気持ちは、ちょっとだけ違ってる……』

 心の中でそう思い「ごちそうさまでした」と手を合わせて挨拶をして食器を洗い始める。


 やがて、食器を洗い終えると、洗面台に立ち、鏡に映る自分を見つめた。鏡の中の自分は、どこかぼんやりとしていた空気であった。

 水色の髪にブラシを通しながら、今日のことを考える。

『……どんな人と出会うんだろう。ちゃんと挨拶できるかな……』

 途中、指が少し止まる。

「……やっぱり変わらないなあ、私」

 口に出してみると、その声もどこか頼りなく、朝の静けさに溶けていった。

 けれど――

 ほんの少しだけ、瞳の奥に光るものがあった。

『それに、名前、ちゃんと呼ばれたら返事できるかな……ううん、深呼吸……』

 ブラシを置いて、制服に袖を通す。白いシャツにピンクのリボン、きちんと整えられたスカート。身にまとう空気が、少しだけ変わった気がした。

「新しい制服……なんだか、新鮮で可愛いです」

 鏡に向かって、思わず小さく笑った。

『昨日までと違う気持ち』

『あの人と出会って、芽生えてしまった何か』

 制服を整えながらそう思い、胸に手を軽く当てる。

 脈打つ鼓動が、どこか落ち着かなくて、でも嫌じゃない。

「……行こう。新しい自分へ、新しい居場所へ」

 玄関で靴を履きながら、息を深く吸う。

「いってきます」

 そう言ってドアを開けた瞬間、朝の風が私の髪を揺らした。その声は少し震えていたけれど、確かな一歩を踏み出す音でもあった。

 そこから新しい一日が、確かに始まっていた。

 それは“いつも通り”の景色に見えて、でも――

 私の心は、もう今までの自分とは違っていた。


 登校路。見慣れない風景に、足取りは自然と慎重になる。

『大丈夫、大丈夫。私はちゃんと歩けてる……』

 ランドセルを背負っていた日々から少しだけ背伸びした、そんな制服の裾が、風で揺れる。

 歩きながら、すれ違う制服姿の同級生たちをちらりと見る。

『あの子たちも……緊張してるのかな』

 だけど心臓は、少しずつ速くなっていた。

 そして学校に着いた時、目に飛び込んできたのは「入学式」と書かれた立て看板。

 新しい制服を着た生徒たちが、その前で写真を撮っている。

 咲羽はその列には加わらなかった。ただ静かに、校舎の隅へと身を寄せた。

『人が……多い……目立たないように……静かに、静かに……』

 スカートのしわを指先でなぞる。もう何度整えたか分からない。それでも、心は落ち着かないまま。

「……スカート、ちゃんと……まっすぐ……」

 誰にも聞こえない声で確認する。周囲の声が耳に飛び込んでくる。

 知らない名前、笑い声、戸惑い、そして希望の混ざった騒めき。

「……人混みは、苦手。でも……音には、気づけるから」

 自分自身にそう言い聞かせる。音は心の景色を描くもの。目に見えなくても、心に響く音を、咲羽は誰よりも感じ取ることができた。

「私、まだ少し……緊張してる……」

 胸の前でそっと手を握りしめながら、昇降口へと向かう。

 けれど、一歩踏み出そうとした足が、どうしても動かない。緊張で呼吸が浅くなり、視線も床に落ちたままだった。

 ――やっぱり無理かも……

 その時、不意に優しい声が背後から聞こえた。

「ごきげんよう。あなた、大丈夫?」

 振り返ると、凛とした雰囲気の女の子が立っていた。

 落ち着いた声に、思わず胸が少し緩む。

「ご、ごきげんよう……すみません……緊張しすぎて、新しい環境も、新しい出会いも、ちょっと怖くなってしまって……」

「……分かるわ、その気持ち」

 彼女はふんわりと微笑んだ。

「私もね、実は今すごく緊張してるの。初めての場所って、不安になって当然よ。でも、大丈夫。あなたは一人じゃない。私がついてるから」

 その言葉に、胸の奥に温かい灯がともった気がした。

「……ありがとうございます。なんだか、大丈夫な気がしてきました」

「よかった。じゃあ、高校生活、思いっきり楽しんでね」

「はい!」

 元気に返事をして、靴を脱ぎ、下駄箱にしまう。

 上履きを履き替える手にも、さっきまであった震えはもうなかった。

『あの人、とても素敵でした……まるで、白馬の王子様みたいでした……』

 そんなことを心の中で呟きながら、私は階段を上がる。

 教室の扉の前で立ち止まり、深呼吸を一つ。

 そして、ゆっくりと扉を開けた――。


 中では、スマホをいじっている人が大半だった。

『話しかけたほうが……いいのかな。でも……』

 迷った末に、空いていた席にそっと座る。机の上に置かれていた花を胸ポケットに着けた。

『……この机、ちょっと高いかも』

 手のひらを天板に滑らせながら、机の木目をなぞる。緊張を紛らわすように。

 やがて先生が入ってきて、「ごきげんよう。この後、入学式が行われるので、生徒の皆さんは廊下に並んでください」と声がかかる。咲羽は少し遅れて立ち上がり、列の最後尾に並んだ。

 そして、入学式が始まった。

 式典を述べたり、校長先生が挨拶されたりして、内容は中学時代とほぼ同じであった。

 そして、新入生代表の挨拶。名前を呼ばれた人が起立する。

 ふと壇上に目を向けると——あの子が、いた。

 黒く、長い髪。凛とした姿。まっすぐな瞳。

 マイクの前に立ったその瞬間、咲羽の鼓動がまた一つ、大きく跳ねた。

『あ……あの子……朝の子だ……すごい目立つ……』

 スピーチが始まる。

 彼女の声は、まるで音楽みたいに流れていた。震えもせず、詰まることもなく、言葉一つ一つがしっかりと心に届く。

 ——ああ、やっぱり、あの人はすごい。

 拍手が鳴り響く。咲羽の中に広がった想いは、言葉にはできないほどに柔らかくて、温かくて。

『……また、会えたら、いいな』

 入学式が終わり、各クラスに戻ると、ホームルームが始まった。

 教室の中は、先ほどまでの厳かな雰囲気とは打って変わって、ざわざわとした熱を帯びていた。

 前後左右、見知らぬ人たちの声が飛び交い、少しずつ席が決まっていく。

『私の席……あ、ここ……』

 出席番号で示された自分の席にそっと腰を下ろす。窓際の席。陽が優しく差し込む場所だった。

 けれど、その光に包まれても、心の緊張はまだ解けなかった。

「えっと……隣、いいですか?」

 ふいに話しかけられて、咲羽は少しだけ肩を跳ねさせた。

 隣の席の女の子が、控えめに笑いながら自分の席に座ろうとしていた。

「……はい。どうぞ」

 そう返すのがやっとだった。けれど、それでも相手はにこっと笑ってくれた。

 その笑顔が、少しだけ心を和らげてくれる。

『話しかけてくれる人が……いるんだ……』

 自分の存在が、この新しい教室の中に、少しだけ溶け込んだ気がした。

 担任の先生が入ってくると、教室は徐々に静まっていく。

「皆さんごきげんよう。このクラスの担任の夏原 郁未です。それでは、ホームルームを始めます。みんな、改めて入学おめでとう。今日からここが、みんなの教室です」

 その言葉に、誰かが拍手をした。それが連鎖して、教室全体が柔らかな空気に包まれる。

 だけど咲羽は、心の中で小さく呟くだけだった。

『“ここ”が、わたしの場所になるのかな……』

 自己紹介や今後の予定の説明が進む中、先生の言葉がふいに耳に入ってきた。

「それから、今日はクラスごとの写真撮影もあるからね。制服をきちんと整えて、あとで廊下に並んでください」

 写真。その言葉に、咲羽の心はまた少しざわついた。

『写真……うまく、笑えるかな……』

 記念に残る一枚。けれど、知らない人たちに囲まれて、咲羽はどう振る舞えばいいか分からなかった。

 それでも、列に加わる時間はすぐにやってきた。

 廊下に出て、列に並ぶ。桜の枝が見える窓辺。ふと外を見やると、風がそよぎ、花びらが舞っていた。

「島野さん、こっちこっち」

 隣の席の女の子が、場所を譲ってくれるように咲羽に手を差し出してくれた。

 驚いて、でも嬉しくて、咲羽は小さくうなずいてその場所に立つ。

 カメラマンの人が、少し高い台から声をかけてくる。

「はい、それじゃあ、もう少し左に寄ってくださーい……はい、目線こちらです! 笑顔、お願いしますねー!」

『笑顔……』

 口元をぎこちなく上げる。でも、それはきっと不自然じゃない。

 隣から、少しだけ温かな体温を感じる。

 誰かと並んで立っている。そんな“今”が、写真の中に刻まれていく。

 シャッター音が響く。


 カシャッ


 その音は、どこか心の奥に静かに届いた。

『私……写ったんだ……』

 誰かと同じ空間に立って、同じ時間を刻んでいるという実感。

 それが、胸の奥をほんの少し温かくしてくれる。

 写真撮影が終わり、教室に戻ると、あちこちで「変な顔してたかもー」と笑い合う声が聞こえた。

 咲羽はそれを聞きながら、ふと窓の外を見上げる。

『さっきのあの人……入学式のあの舞台にいた人……』

 その記憶が、ふいに胸を占める。

 名前も、クラスも分からない。けれど、確かに強く残っている。

『また会えたらいいな……今度は、ちゃんと名前……知れるといいな……』

 制服の胸元をそっと握る。そこには、まだドキドキが残っていた。

 けれど、それは不安よりも、きっと希望の鼓動だった。


 帰り道。桜が風に揺れていた。花びらが髪に触れ、咲羽は足を止めた。ふと後ろを振り返る。けれど、あの子の姿は、もうなかった。

「……また、会えるでしょうか……」

 小さく零れた声は、春風に溶けていった。

 桜の花びらがふわりと髪に舞い降りる。咲羽はそっと指先でそれを摘んだ。

 白く淡いそのひとひらを、目の高さにかざす。透けるように薄いその花びらは、朝に見た彼女の横顔のようだった。

『……胸が、まだドキドキしてる……』

 それは怖さではなくて、多分、初めて感じた種類の鼓動だった。

『あの人の姿……声……目を閉じると、すぐに思い出せる』

 教室でも、廊下でも、式の間ずっと息を潜めていた咲羽の心に、彼女は光のように差し込んできた。

 誰にも気づかれずにいた自分に、誰よりも真っ直ぐな姿で、音のように——いや、音以上に——響いてきた人。

『あの時、なんであんなに、胸がぎゅっとなったんだろう……話しかけられたからかな……』

 その問いの答えは、まだ見つからない。けれど確かに何かが芽吹いた。

 胸の奥が、かすかに温かい。

 それは言葉ではまだ言い表せない感情だった。恋かもしれないし、憧れかもしれない。

 でもそれがどんな名前だったとしても——

「……この気持ちが、明日も続いたらいいな……」

 咲羽は、小さく笑った。自分でも気づかぬほどの、ほんのわずかな笑顔だった。

 彼女はもういない。目を凝らしても、あの人の姿は桜の向こうにはなかった。

 けれど、その“不在”さえ、心のどこかを満たしていた。

『また会える……かな。会いたい……です』

 この“始まり”が、どんな物語になるのかはわからない。

 けれど確かにそれは、咲羽の中の“いつも通り”を静かに壊して、

 これからの毎日を、少しずつ変えていくものになる——そんな気がしていた。

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