第4話 広がる波紋

朝の教室は、まるで嵐の前の静けさのように張り詰めていた。

私は席に座り、教科書を広げるふりをしながら、周囲の空気をそっと窺った。クラスメイトたちは普段通り話をしているように見えたが、その声にはどこか不自然な抑揚があった。ひそひそと囁かれる言葉、ちらりと投げかけられる視線。それらが、私の心をざわつかせる。


加藤さんの事件から三日が過ぎていた。彼女はまだ学校に戻ってきていなかった。教室の隅にある彼女の机は、まるで主を失った遺物のように静かに佇んでいる。私はその机を見るたび、胸の奥で重いものが蠢くのを感じた。あの日の彼女の表情、羞恥に歪んだ顔。それは、私の記憶とあまりにも重なり合っていた。


「美咲、ねえ、聞いた?」


佐藤玲奈が私の席に近づいてきて、小声で囁いた。彼女の目は好奇心と不安が混じった光を帯びていた。私は少し身を引いて、

「何?」

と尋ねた。


「昨日、隣のクラスの子が……その、また、だよ。」


私は息を呑んだ。

「またって……お漏らし?」


玲奈はこくりと頷き、声をさらに低くした。

「うん。1年B組の田中さんって子。授業中に急に立ち上がって、そしたら……もう、みんなびっくりしてたって。」


私は言葉を失った。私のクラスだけでなく、隣のクラスでも同じことが起きたという事実が、まるで冷たい手で私の心臓を握り潰すようだった。

「そんな……。」


「でさ、なんか噂になってるよ。この学校、ほんとに呪われてるんじゃないかって。」

玲奈はそう言うと、肩をすくめた。彼女の口調は軽かったが、目は真剣だった。私は無理やり笑顔を作り、

「そんなわけないよ。たまたま、だよ。」

と答えた。だが、声は震えていた。


玲奈が自分の席に戻った後、私は窓の外を見つめた。校庭では、桜の花びらが風に舞っている。その美しさとは裏腹に、私の心は暗い予感で満たされていた。水野葵の言葉が、頭の中で反響する。

「去年も似たようなことがあったの。まるで伝染病みたいに。」




その日の昼休み、私は一人で図書室に逃げ込んだ。教室のざわめきが耐えられなかったのだ。図書室は静かで、埃っぽい空気が漂っていた。私は適当に本を手に取り、奥の席に座った。だが、本を開いても、文字が頭に入ってこない。


ふと、視界の端に誰かの気配を感じた。私は顔を上げた。そこには、葵が立っていた。彼女は静かな笑みを浮かべ、私をじっと見つめている。


「また会ったね、美咲さん。」


彼女はそう言うと、許可も求めずに私の向かいの席に腰を下ろした。私は少し身構えながら、

「うん……何?」

と答えた。


「聞いてるよ。隣のクラスの子も、だろ?」


葵の言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。彼女はどうやってそんな情報を知るのだろう。まるで、この学校の隅々まで見透かしているかのようだった。私は黙って頷いた。


「やっぱり、始まったね。」

葵はそう呟き、窓の外に目をやった。

「始まったって……何が?」

私が尋ねると、彼女はゆっくりと私に視線を戻した。

「この学校の呪い。去年と同じように、どんどん広がっていくよ。」


「そんなの、ただの噂でしょ。」

私は反発するように言った。だが、声には力がない。葵は小さく笑い、

「噂だとしても、事実は事実だよね。あなた、加藤さん、田中さん。次は誰かな?」


その言葉に、私は身体が硬直した。彼女の目は、まるで私の心の奥底を覗き込むようだった。私は慌てて目を逸らし、

「そんなこと、わからないよ。」

と呟いた。


葵は立ち上がり、去り際に一言だけ残した。

「気をつけてね。あなた、狙われてるかもしれないよ。」


彼女の言葉は、まるで呪文のように私の心に刻み込まれた。私は図書室の静寂の中で、ただ震えることしかできなかった。




その週の終わり、事態はさらに悪化した。

金曜日の最終授業中、私のクラスでまた事件が起きた。


それは、クラスの中心的な存在である高橋優奈だった。彼女は明るく、誰とでも気さくに話す人気者だった。そんな彼女が、数学の授業中に突然立ち上がり、顔を真っ赤にして教室を飛び出した。


「優奈!? どうしたの!?」


担任の先生が慌てて追いかけようとしたが、そのとき、教室の床に小さな水たまりが広がっているのが見えた。クラス中が一瞬静まり返り、すぐにざわめきに包まれた。


「うそ、優奈まで!?」

「なにこれ、ほんとに呪い!?」

「やばい、うちのクラスやばいよ!」


私はただ、呆然とその光景を見つめていた。優奈の机の周りに広がる水たまり。彼女の逃げ出した背中。すべてが、まるで私の悪夢の再現のようだった。


放課後、教室は異様な空気に包まれていた。生徒たちは小さなグループに分かれ、ひそひそと話をしている。私は誰とも話さず、ただ静かに荷物をまとめた。だが、教室を出る前に、玲奈が私を呼び止めた。


「美咲、ちょっと待って。」


彼女の声はどこか切迫していた。私は振り返り、

「何?」

と尋ねた。


「ねえ、これ、ほんとにやばいよね。うちのクラスだけで三人だよ。しかも、隣のクラスでも起きてるし……。」

玲奈は目を潤ませながら言った。

「私、なんか怖いよ。次、誰か分からないじゃん。」


私は彼女の言葉に、胸が締め付けられるのを感じた。彼女の言う通りだった。この連鎖は、止まる気配がない。私の呪いは、私を超えて、クラス全体に広がっているのだ。


「大丈夫だよ。きっと、ただの偶然だよ。」

私はそう言って、彼女を安心させようとした。だが、言葉には力がなかった。玲奈は小さく頷いたが、その目は不安に揺れていた。




週末、私は家に閉じこもった。母にはまた体調不良だと嘘をつき、部屋で過ごした。だが、頭の中は学校の出来事でいっぱいだった。私の事件、加藤さん、田中さん、優奈。そして、葵の言葉。


「あなた、狙われてるかもしれないよ。」


私はベッドに横になり、目を閉じた。だが、すぐに水音が聞こえてくる。ぽたぽた。笑い声。冷たい水たまり。私は飛び起き、汗に濡れた身体を震わせた。


月曜日の朝、学校に行くのが怖かった。だが、いつまでも逃げ続けるわけにはいかなかった。私は深呼吸し、制服を着て家を出た。


教室に入ると、いつもより静かな空気が漂っていた。優奈は休んでいた。加藤さんもまだ戻っていない。クラスメイトたちの目は、どこか怯えた光を帯びていた。


そして、その日の昼休み、また事件が起きた。

今度は、1年C組の女の子だった。廊下で突然立ち止まり、泣きながらその場に崩れ落ちたという。彼女の足元には、いつものように水たまりが広がっていた。


噂は瞬く間に学校中に広がった。

「1年生のクラス、全部やられてる!」

「ほんとに呪いだよ! この学校、おかしい!」


私は教室の隅で、その話を聞いていた。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。


これは、ただの偶然ではない。

何かがある。この学校には、確かに何かがあるのだ。


私は決意した。

この連鎖を止めるために、何かをする必要がある。

だが、何を? どうやって?


その夜、私は再び悪夢を見た。

水音。笑い声。そして、どこからか聞こえる、葵の声。

「次は、誰?」


私は叫び声を上げ、目を覚ました。

暗闇の中で、私は震えながら呟いた。

「もう、終わらせたい……。」





















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