2 幻覚と真実と

 月明かりを浴びた高貴なる命は目線を振り下げて、ガラス細工のような青い髪を夜空になびかせながら弓なりに笑っている。

 あどけない、でもそれ以上に怖い。


 僕は出会えたのだろうか、出会ってしまったのだろうか。目前にいる生き物は一体何なんだ。


「キミは誰」

「誰でしょう」


 くぐもり声がよく聞き取れなかった。ああ、こんな奇妙ないたずらは精霊しかしない。

 すぐに嫌な予感が駆け巡る。もしかすると彼は邪精と呼ばれる類のものではないのだろうか。邪精とはノーブルの手記にあった、一般的に呪いを施す種族の精霊だと。


(いってる場合か)


 身を引き上げようと思ったがまるで持ち上がらない。体が何かに大きく混乱していて震えている。透いた胃を駆け巡る違和があった。

 精霊は崩れ落ちたスタックリドリーを冷たく見下しながら歩いてきた。片膝を折り、すっとしゃがみこむとこういった。


「知っているかい、ぼくは偉大なる幸運だよ」

「えっ」


 旅に出たばかりというのにもう目標が見つかった? 景色と脳は相変わらず空回

りを続けている。


「本当かい、本当に?」


 彼はこの問いかけに少しも微笑まなかった。これまで触れたどんな感情よりも冷たい、身が竦んだ。

 彼は手をすっと頬に当てるとこういった。


「遺恨が欲しいんだろう?」


 体を恐怖が駆け上がる。背筋をだくだくと冷汗が流れ始めた。



——欲しくない!



 脳内で叫んだのに一言にならない。焦燥が駆け上がる。額はじっとりと濡れて、気持ち悪い。のどの奥から悲鳴が打ちあがった。


「ぎゃああああああああ、ぎゃあああああああああ、ぎゃあああああああ」


 三度叫びを繰り返し、空を振り仰いだ。助けて、誰か助けて。


 精霊の凍るような指先が耳の穴に突っ込まれる。到底入らないはずなのに、小さな指はぬるりと鼓膜を突き破り、脳をなぞるように抱きしめる。頭皮の内側に指先を張り巡らし抱え込んだ後、液状のものを握りつぶす感触があった。


 つんと神経がはち切れた。穴という穴が開き切る。意識が振り切れて、スタックリドリーは地に落ちた。






 気が触れそうななかでずっと夢を見ていた。

 凪いだ湿原に孤独に立っている。光芒が厚い雲の隙間から水辺に向けて射していた。


 遠くに視線を伸ばしても山並はない。ここはどこだろう。


(ああ、そうか。ここが天国か)


 想像していた通りの場所かもしれない。自身は精霊の遺恨に侵されてとうとう絶命した。短い人生だったな、端的にそう思う。

 祖母は九十歳生きて、両親は何歳か、たぶん三十半ばだろう。わずか十五歳のスタックリドリーには生き抜くということが果てしないことに思えた。


(もういいんだ)


 心はすでに諦めの境地で、根性なんてなければ執着もない。虚ろってこういうことなんだな。気持ちは達観していた。


「本当に?」


 打ち寄せた言葉に目を見開いた。湿原のぬかるみに足を突っ込んで男の子が立っている。まさに今、目の前で。身の丈はスタックリドリーの半ば、凛としていたがはっきりものをいう年頃には思えなかった。


「キミは誰……」

「約束したんじゃなかったのかい。誰かと例えばこんな風に」


 彼は左手を突き出すとくいくいと小指を曲げる仕草をした。その瞬間、数多の思い出が駆け巡る。精霊と出会った過去、与えられた言葉と概念。あの雨の日の洞穴で。

 すべての思いに胸が詰まった。


「キミも精霊なのかい」

「精霊は真理を与えてくれるんだ。あいつが与えたのも真理、こうしてキミが今見ているのも真理」


 そういって柔らかく頭に触れた。破裂して萎んだ脳が膨らんでいく。頭中を渦巻いていた憎悪が緩やかに消え去った。


 気づくと誰もいなく、ぽつねんとしていて景色が次第に白み始めた。


 夢のまどろみから静かに目覚めると頬が冷たい土に触れているだけだった。

 体を起こすとすべての幻視が消えていて、傍らに夕食に食べたキノコを吐いていた。

 唇を噛んでゆるゆると首を振る。そうか、すべて幻だったのか。会えたと思ったけれど、そうじゃない。すべては幻のうち。


「やっぱり食べるんじゃなかったな」


 後悔は先に立たず。内省しながら腹をさする。結局、精霊が見えたか幻覚だったのかその真実は分からない。でも、その時自身は確かにあの瞬間、真理に触れたのだとそう思えた。


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