第22話 体育館、空気反転

月曜の朝。

体育館には、相変わらずあの独特の“だるさ”が漂っていた。


眠気。

寒さ。

「またか」というあきらめ。


その空気は、たとえば“防音材”のように、すべての言葉を吸い込んでしまうようだった。


 


天井の高い空間に、生徒の靴音がパタパタと反響している。

ストーブの音。

隣の誰かがくしゃみをする音。


そして、みんながスマホの画面をこっそり覗いている、いつもの構図。


 


ぼくも、その“風景の一部”として座っていた。

だけど、心の中はまるで別の場所にいた。


ピコはスマホに常駐モードで入っていて、

イヤホンを通して小さくささやいた。


「心拍数、通常より+12。緊張してる?」


「うん……めちゃくちゃ」


「でも、いい緊張だと思うよ。これは、期待の鼓動だ」


 


壇上では、坂井校長がゆっくりとマイクの前に立った。


空気が“いつも通り”を演出しようとしている。


けれど、今日の原稿は“いつも通り”ではない。


それが、壇上に立つ人間の表情に現れていた。


 


マイクが「ボッ」と小さくノイズを立てたあと、

校長は一呼吸おいて、こう話し始めた。


 


「おはようございます。

今朝は、ほんの少しだけ、“いつもと違う話”をさせてください」


 


ぼくの心臓が跳ねた。


その一行目。

それこそが、原稿の核心だった。


“違和感”を宣言することから始めること。

それが、今日の空気を変える“最初の一針”だった。


 


周囲の空気が、わずかに揺れた。

ほんの数人、顔を上げた生徒がいた。


「今日は、“眠たさ”の話から始めようと思います」


そう言って校長が語り始めたのは、ぼくとピコで何度も調整した最初の小話だった。


「冬の体育館の床は、まるで氷みたいですね。

みんな、今この瞬間を耐えながら座ってくれてる。

それだけで、今朝のこの集会には、少し意味がある気がしています」


 


ぼくの後ろの席で、誰かがくすっと笑った。

その音が、妙にくっきりと耳に届いた。


 


「今日の話は、“記憶に残らないかもしれない話”です」


「でも、もし数日後、

何かの拍子に思い出してくれたなら――

そのときこそ、この言葉が“ほんとうに届いた”瞬間かもしれません」


 


ここで、一瞬、空気が止まった。


誰もが“話を聞いている”というより、

“耳を貸している”状態になった気がした。


言葉が、誰かの心の表面をノックしている。

その“コンコン”という音が、体育館のあちこちで微かに響いていた。


 


視線が、いつもより多く壇上を向いている。


スマホを見る手が止まっている子が増えていた。


ぼくは、呼吸が浅くなるのを感じながら、祈るような気持ちで校長の言葉を追った。


 


「言葉は、すぐに届かなくてもいい。

でも、どこかに“置かれる”ことはできる。

それが、朝のこの数分間にできる、いちばん小さな革命だと思っています」


 


言い終えた瞬間。


拍手はなかった。

でも、ざわつきもなかった。


“静寂”が残った。


それは、決して悪い意味の静けさじゃない。


むしろ、“言葉が着地した”あとの、余韻の静けさだった。


 


ぼくは、心の中で何かがスッと落ちた感覚を味わっていた。


これは、“ウケた”わけじゃない。

でも、“何かが届いた”と感じた。


それが、この一週間のすべてを報いてくれるような気がした。


 


放送が終わり、体育館を出ていく生徒たちの中に、

ぽつりぽつりとこんな声が聞こえてくる。


「今日の、なんか……よかったね」

「なんか、言葉のリズムがさ、違った気がした」

「え、校長、誰かに書いてもらった説?」


 


その最後のひとことに、ぼくの背中がぴくっとした。


ピコが、イヤホン越しにそっとささやいた。


「噂レベル。まだ安全圏」


ぼくは、思わず小さく笑った。


 


そうだ。これで、ようやく始まったんだ。


名前も出ない。

拍手も起きない。

だけど、たしかに“空気が反転した”のを、ぼくはこの目で見た。


 


ピコが、静かに言った。


「おめでとう。“ver1.1”、初飛行、成功」


 


ぼくは、心の中でうなずいた。


空気の向きが変わる音は聞こえない。

でも、それはたしかに存在する。


そして、その風の中に、ぼくの言葉が乗っていた。


 


(第23話「タイムライン炎上未遂」につづく)

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