第2章 誰にも知られない契約

第8話 坂井校長、最低点

職員室の一番奥、窓のそばの机に座っていた坂井校長は、ゆっくりと眼鏡を外した。


午後の光が白く机の上を照らし、うすく広がる紙の束の上に、眼鏡の影が長く伸びた。


その上に一枚、薄い緑のA4用紙。


「生徒対象 校長講話に関する自由記述アンケート」


そこに並んだ言葉たちは、どれも率直で、そして……刺さった。


 


「話が長い」

「何を言いたいのか分からない」

「毎回“昔は〜”ばかり」

「誰も聞いてないのに気づいてないの?」

「時間のムダ」


そのどれもが、書いた本人たちにとっては“ただの感想”だったのだろう。


けれど、読む側――つまり話していた本人にとっては、

まるで水が染み込むようにじわじわと、痛みが身体の奥へと広がっていった。


 


坂井校長は、背もたれに深く体を沈めた。


天井の蛍光灯がにじんで見えたのは、ただの疲れか、それとも。


 


「坂井先生、会議資料、揃いましたよ」


若手教員の藤井が、データを保存したタブレットを差し出してきた。

校長は「ありがとう」とだけ返し、資料に目を通しながら言った。


「……今回のアンケート、なかなか手厳しいね」


「ええ。まあ、生徒たち、正直ですから」


藤井の笑い方は、軽いけれど、気を遣っているのがわかる。


校長自身も、自嘲気味に笑った。


「自由記述に“もうちょっと面白い話を”って書いてあったよ。……これでも、昔は“話がうまい”って言われてたんだけどね」


「そうなんですか?」


「いや。たぶん、社交辞令だったのかもしれないな」


 


言いながら、心のどこかでふっと思う。


“本当に、ぼくの話は、誰にも届いていなかったんだろうか?”


誰も寝ていないか気を配りながら話していた。

例え話を交えて、なるべくかたくなりすぎないように気をつけた。


それでも、あの“空気”は……静かすぎて、無風だった。


 


届いていないのだ、と、そう認めるしかない。


講話の時間は、義務であり、習慣であり、誰にも期待されていない“通過儀礼”になっていた。


 


「坂井先生、無理にバズらせようとか、面白くしようとか、

そういうのはあまり気にしない方がいいですよ。

生徒なんて、何やっても文句言いますから」


藤井の言葉に、坂井校長は苦笑する。


そうかもしれない。

けれど、それでも――何かが引っかかっていた。


 


「彼らは、きっと、どこかで“言葉”を求めてるんだと思うんだよ」


「言葉、ですか?」


「“ちゃんと伝わる言葉”……いや、もしかしたら、“届く形”って言った方がいいかな。

言っていることが正しくても、届かなければ意味がない。

それが今の、ぼくの最低点なんだと思う」


 


その言葉を聞いた藤井が、一瞬だけ黙った。


やがて、ふっと思い出したように言う。


「あ、そういえば……校長先生、Twitter見てます?」


「ん? まあ、アカウントはあるけど、そんなに詳しくは」


「#校長レトロ説ってタグ、ちょっと話題になってます。

うちの学校のことっぽいって、他のクラスでも話題で」


「……なんだって?」


坂井校長の表情が変わった。


藤井はスマホを取り出し、該当の投稿をいくつか見せた。


そこには、朝礼で話した例え話が、ユーモアたっぷりにまとめられ、

“語録”のように並べられていた。


“レコードの溝は心の溝”

“駅員の土下座は時間厳守の象徴”

“ポケベルは心の通信機”……


どこかで聞いた、いや、自分が言った言葉だった。


だが、その言葉は今、思いもよらない形で“届いて”いた。


 


「……これは、誰が?」


「匿名ですけど……うちの生徒っぽいです。

なんか、文章の感じが……誰かの作文に似てるって言ってた先生もいたな」


 


坂井校長はスマホを受け取り、しばらくその投稿を見つめていた。


“笑われている”のかもしれない。


けれど、その文章には、冷笑だけではない何かがあった。

どこか、温度があった。

読み手を惹きつける“声”があった。


 


それは、自分にはない“何か”だった。


 


校長は、しばらくしてスマホを返し、静かに立ち上がった。


職員室の窓の外、午後の日差しが傾きかけている。


「……ちょっと調べてみようかな。誰か、言葉を持ってる生徒がいるのなら」


「はい?」


「いや。なんでもないよ。ありがとう、藤井先生」


そう言って、坂井校長は眼鏡をかけ直し、また机に向き直った。


だけど、さっきまでと違っていた。


彼の中に、ひとつの種が、静かに蒔かれていたのだった。


 


(第9話「職員室の本音録」につづく)

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