養ってでも

「倫子、ちょっといい? お話があるの」

 中之郷の私邸で香織がりんこをリビングに呼んだ。


「松島さんのことなんだけど」


 香織が松島の名前を出した瞬間、りんこが身体をびくっと震わせ緊張した。


「もうお別れしちゃったの? 今日ね、日本橋で松島さんと会ってね、そのとき松島さんが『倫子さんとはずいぶん会ってない』みたいなことを言ってたのよ。ちょっとそれが気になっちゃって」


「お別れはしていません。でも……」

 りんこが下を向いたまま小声で答える。


「でも?」

 香織がりんこの顔を覗き込んだ。


「LINEもブロックされたままだし、電話をかけても使われていないって」

「それはいつから?」

「あの事件のちょっとあとからです」

「もう5か月くらい経つわね。なるほど、そういうことか」

 香織は、何かに納得した様子だった。


「ねえ巌ちゃん、倫子と松島さんのこと、どう思う?」

 中之郷と香織は、寝室のクイーンサイズのベッドに並んで横になっている。

「どうって?」

 中之郷が香織の髪を撫でながら首をひねる。

「なんかおかしくない? あれだけの騒ぎを起こしておいて、松島さんが一度もうちに連絡をよこしていないのよ。松島さんの性格だったら、絶対謝りに来るはずだと思うの。それに、今日デパートで会ったときも、まったく事件のことには触れなかったでしょ」

「たしかに変だな」

 香織に言われたことをしばし頭の中で反芻した中之郷も同意した。


「松島さんとの事件があった頃って、倫子が『自分を変えたい!』って言って明るいキャラを作ろうとしていた時期だったでしょ。で、あの事件以降、また元の倫子に戻ってしまったわけだけど。それでね、私考えたんだけど、倫子は松島さんに偽名を使ってたんじゃないかって。まず、見た目が全然違っていたから、名前さえ偽れば松島さんは倫子だと気づかないかもしれない」

「名前を偽る理由は?」

「分からないわ。でも、それだと松島さんが謝りに来ないのも納得できるじゃない。それに、もし倫子が偽名を使っていて、松島さんがその偽名しか知らなかったら、警察は倫子の本名を松島さんには絶対教えないはずなのよ。だから、松島さんはラブホテルに同伴した子が倫子だと知らないはず」

「なるほど。話の筋が通るな」


 翌日。

 中之郷夫妻と倫子がリビングのテーブルをはさんで座り、話し合いの場がもたれた。


「倫子は、松島さんにちゃんと名前は教えていた?」

 香織が問いかけた。

「いいえ、嘘の名前を言ってました」

「やっぱり。本当の名前を言えない理由があったの?」

「嫌だったんです。こんな根暗な女だったことを知られている松島さんに本当の名前を言うのが。松島さんの前では元気で明るい女の子でいようと決めたから」

 りんこがぼそぼそと自分の気持ちを話す。

「そっかー。分からないでもないなあ。乙女心よねえ」

 香織が背伸びをした。

 中之郷は黙ったまま二人の会話に聞き入っている。


「ところで、倫子。まだ松島さんのこと好き?」

「……」

 しばしの沈黙の後、りんこは無言で頷いた。


「どれくらい好き?」

 好きを定量化できるものではないと承知していたが、香織はあえてりんこに問いかけてみた。


「警察で松島さんがクビになるかもしれないと言われたとき『私が養ってでも離れたくない』って言いました」

「漢気だな。いい啖呵だ」

 中之郷が嬉しそうに笑顔を見せた。


「松島さんに会いたいか」

「会いたいです」

「今の倫子で会えるか」

「今の私、ですか……」

(今の私はりんこじゃない。松島さんと一緒にいたのはりんこであって私じゃない)

 りんこは逡巡した。

「まあいい。それは倫子が自分で決めなさい」

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