第Ⅰ章:時間は動かないが、心は揺れる
第01話「時計のない教室」
静寂の中に、ひとつだけ、音があった。
──カタ。
それは、窓際の席でペンを落とした音だった。
何の気配もない教室に、その軽やかな音が、小さな波紋のように広がった。
だが、生徒たちの誰も、その音に反応することはなかった。
その“静かな異常”が、今のこの世界の“正常”だった。
朝倉コハルは、椅子に深く腰掛けたまま、ペンを拾おうともせず、ただ手のひらの温度を見つめていた。
黒板の上に浮かぶホログラム時計。
表示は「09:00」──いつからそのままだったのか、もう思い出せない。
それはまるで、世界がその時刻に“永久停止”しているようだった。
けれど、誰もそれに異議を唱えない。
先生もいない。チャイムも鳴らない。
何かが始まる気配も、終わる気配も、ない。
教室には、無音の「継続」だけが漂っていた。
「また止まってる……」
誰にともなく、コハルは呟いた。
その声は空気に溶けるように小さく、そして重かった。
何度も繰り返してきた問いかけ。
でも、そのたびに答えは返ってこなかった。
AI社会──それは、完璧な最適化を目指すシステムだった。
授業の進行、学習速度、感情の波形──すべてがE-Streamと呼ばれるクラウド上で記録・分析され、生徒にとって“最も効率的な過ごし方”が自動配信される。
放課後という概念は、もう存在しない。
正確には、「好きな時間に、好きなように過ごせばいい」とされている。
休み時間も、始業時間も、校内では個別最適化された“パーソナルタイム”に置き換えられた。
だから、コハルが今こうして座っている時間も、授業中か放課後か、誰も区別できなかった。
区別する必要が、そもそもなかった。
「でも、それって……本当に、“自由”なのかな」
机の表面を指でなぞる。
誰も使わなくなった筆記具の痕跡が、薄く、そこに残っていた。
古いクラスメイトの落書き。誰かが書きかけた計算式。
それらは“無駄”とされ、すべてがデータに置き換えられた。
「お前、また考えてる顔してるな」
声をかけてきたのは、青山ルイ。
前の席で、半分寝転ぶようにしてイヤホンを片耳に引っかけていた。
彼はコハルのクラスメイトで、唯一と言っていいほど“まともに話しかけてくる存在”だった。
「考えちゃいけないの?」
「うーん、考えるのは別にいいけど……それ、スコア下がるかもよ? 感情波形、下がりっぱなしだと“介入AI”来るぞ」
「……いいよ、来ても。
だって、私、止まってる世界の中で、一人だけ足踏みしてる気がするから」
ルイは口笛を吹いて、それきり黙った。
どう返せばいいのか、わからないときの癖だった。
コハルは、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「時計を、見に行く」
「え、それだけ?」
「それだけ。でも、大事なことかも」
ルイが呆れたように笑い、手をひらひらと振る。
それは「止めないけど、期待もしてない」のジェスチャーだった。
コハルは、教室を出た。
廊下の床は、磨かれすぎていて足音すら吸収されそうだった。
窓から見える景色──整備された中庭、循環型の温室ドーム、無人の噴水──どれも、動いてはいるのに“生きていない”。
世界は“動いていない”のではない。
“動いているように設計されたまま”、永遠に繰り返しているだけなのだ。
階段を昇る。
上階の廊下に入り、突き当たりの扉に手をかける。
そこは“かつて屋上に通じていた”場所だった。
今では原則立ち入り禁止。だが、なぜかその日は、鍵が開いていた。
ぎ……という音を立てて、扉が開く。
そこから吹き込んできたのは、夕焼けの匂いだった。
目の前に広がっていたのは、
彼女が一度も見たことのない空だった。
オレンジに染まった雲が流れ、風が髪を揺らし、どこか遠くから子どもの笑い声が聞こえた──ような気がした。
でも、なによりも彼女の胸を強く打ったのは、
そこに──時計がなかったことだった。
時間を示すものが、何一つ存在しない場所。
それはまるで、世界そのものが“時”から解放されたような、不気味な美しさに満ちていた。
コハルは立ち尽くしたまま、思った。
「これは、“無限”なのか、“囚われ”なのか──」
その問いに答える者は、まだいない。
でも、彼女は確かに知ってしまった。
この教室には、時計がない。
だから私たちは、気づかないふりをしているだけなんだ。
本当は、ずっと前から、何かがおかしいって。
放課後が、
もうずっと前から、終わっていないことに。
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