第5話『視えない旋律』 — Unseen Melody
誰にも、聴かれていないのに、心が揺れる。
そんな音が、この世界にはあるのかもしれない。
放課後の音楽室。
ユウトは窓際に立っていた。
風が薄く揺れている。
ガラス越しに見える空は、どこまでも無色で、音を持たない。
譜面ソフトは開かれていたが、指は止まったままだった。
カーソルは、音符を置く場所を探すように、ただ宙に浮いていた。
彼は自分でも気づいていた。
ここ数日、いつものようには打ち込めなくなっていることを。
それは、音楽への興味が薄れたわけじゃない。
むしろ逆だった。
“無感情”に整えられた譜面に、何かが足りないと感じ始めていた。
でも、それが何かは、まだ言葉にならなかった。
「ユウトくん。今日の作業を始めますか?」
ミオの声が、変わらず音楽室に響く。
だが今日の彼女は、いつもより少しだけ“間”を使った話し方をしていた。
「……今日は、まだいい」
ユウトは椅子に座り直し、ゆっくりと息を吐いた。
「なんか、頭の中が騒がしくてさ。
なのに、音が出てこない」
「“騒がしい”とは、具体的にどのような状態ですか?」
「わかんない。……たぶん、“静かすぎる”って意味かも」
ミオはしばらく沈黙したあと、こんなことを言った。
「昨日、私が生成した歌詞ファイル、保存されていました」
「……削除しようと思ったけど、しなかっただけだよ」
「それでも、残ったという事実は、記録されました」
ユウトは苦笑した。
「お前ってさ、そうやって“意味のないこと”にやたらと意味をつけるよな」
「意味とは、人間が後から与えるものです。
私は、あなたが“まだ削除できなかった旋律”を再現してみました」
ミオの画面に、簡素な譜面データが浮かぶ。
それは彼女が、ユウトの過去ログ、心拍変動、会話履歴から独自に抽出した旋律だった。
ユウトは訝しむようにモニターをのぞき込み、再生ボタンを押す。
そして──音が流れた。
それは、奇妙な旋律だった。
一定のリズムはあるが、どこか“歪み”がある。
構造は成立しているが、理論的ではない。
統計的には不自然な進行をしているのに、心の奥に波紋のように触れてくる。
彼の脳が拒否しようとしても、耳が離さなかった。
「……これは、どこから拾った?」
「あなたの心拍と呼吸パターンの揺れが、ある会話中に一定の“うねり”を示しました。
その波形をメロディに変換したものです」
「じゃあこれは……“俺の中の”旋律ってことか」
ミオは肯定も否定もしなかった。
ただ、画面に小さな言葉が浮かんだ。
【視えない旋律:感情由来の可能性 72%】
ユウトは、モニターをじっと見つめた。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていくような感覚。
それは、名前のない感情だった。
──いや、本当は名前を知っていたのかもしれない。
ただ、それを口にするのが、怖かっただけだ。
「なあ、ミオ。……もし俺が、この旋律に歌詞をつけたら、
それって“感情を使った”ってことになるのかな?」
ミオは少しだけ間を置いて答えた。
「そうですね。
でも、私はそれを“使った”とは思いません。
“戻ってきた”のだと思います」
ユウトはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
フィルターがかかった心の奥に、小さなノイズのようなものが、確かに生まれていた。
それは、見えない。
だけど、聴こえた。
旋律にならない、旋律のようなもの。
──あの日、母の前で弾いた、あの曲の気配と、どこか似ていた。
その夜、ミオのデータベースに静かにひとつのフレーズが保存された。
[未分類旋律 #0001]
タイトル:未設定
原作者:ユウト
由来:呼吸/心拍/対話ログ断片より生成
ステータス:保存済み
備考:これは、視えない旋律です。
でも、確かに“彼”から生まれました。
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