第八話
ゴールデンウィークが終わり、中間テストが迫った五月の序盤。
ここ数日の文芸部は、読書よりもテスト勉強をしている時間が多かった。
「うああ……もう勉強なんて嫌だぁ……」
机に突っ伏しながら嘆く瀬名くんに対し、時雨くんが穏やかな口調で返事をした。
「赤点取ってもいいならやらなくていいけど?」
「うっ……鬼由希ぃ……!」
沈んだ声で抗議する瀬名くんは、時雨くんが作った問題を気だるそうに解いている。
「すごいね、時雨くん問題作れるんだ」
「人に教えることが多いから、自然とね」
「実際由希は教え方上手いぞ、中学の時から助けられてる」
「冬樹はやればできるのにやらないから……」
「うっせー、どうしてもやる気になれないんだよぉ……」
密かに感心してしまう。時雨くんはなんでもないように笑っているものの、人に教えるのは案外難しい。
(なんとなくわかってたけど、頭も良いんだ……)
「……」
ふと浮かない表情で参考書を読んでいる久遠さんに目を向ける。
ここ最近の彼女は元気がない。やはり、成績のことでお父さんに何か言われることを悩んでいるのだろうか。
邪魔をしてはいけないと思いつつも、声をかけずにはいられなかった。
「久遠さん……?」
「はい……?」
「えと……大丈夫?無理しないでね……?」
「ありがとうございます。でも、もっと頑張らないと……」
一瞬だけ笑ってくれたのだが、すぐに険しく思い詰めたような表情に戻ってしまった。これ以上はお節介になってしまう。
(私も頑張らなきゃ……)
国語や社会は比較的得意なのだが、数学と英語が不安だ。チラリと時雨くんの方を見つめ、図々しいことを考える。
(私も教えてもらいたいな……)
頼んで良いのか分からないまま、しばらくの間教科書を見つめ、恐る恐る声をかけてみた。
「あ、あの……時雨くん?」
「ん?」
「その……迷惑じゃなければ、私にも勉強教えてくれませんか?」
しどろもどろになりながらも言い切ると、彼は迷いなく頷いた。
「いいよ。どの教科教えてほしいの?」
「あ、ありがとう。数学と英語が不安なんだけど……今日はもう時間ない、よね」
今日は金曜日。教えてもらうのは来週の月曜日になってしまう。そう思ったところで、瀬名くんが声を上げた。
「んじゃさ!明日、由希の家で勉強会やろうぜ!」
「え!?」
テンションの高い瀬名くんを見つめ、時雨くんは呆れ気味に口を開いた。
「それ、冬樹が遊びたいだけでしょ?」
「違ぇって!ちゃんと勉強する気あるし!美琴だって早い方が嬉しいよな!」
「……仕方ないなぁ」
乗り気ではなさそうに頷く時雨くんを見て、申し訳なくなってしまう。
「え……でもいきなりだと時雨くん困るよね?ご両親の迷惑にもなっちゃわない?」
「美琴は優しいね、冬樹にも見習ってほしいくらい……」
「なっ……!!」
「でも一人暮らしだから大丈夫。冬樹がいきなりなのはいつもの事だしね」
「そ、そうなんだ」
仲の良さが窺えたのと同時に、時雨くんが一人暮らしだということに親近感が湧いてしまった。
(同じ、なんだ……)
「じゃあ決まりってことでいいか?久遠も来るよな?」
「へ……?」
勉強に集中していたのか、久遠さんはキョトンとした表情で瀬名くんを見つめる。
「明日、由希の家で勉強会するって話してたんだけど来るか?」
「あ……」
彼女は数秒迷った後、チラリと時雨くんを見てから頷いた。
「お邪魔でないのなら……」
「うん、もちろんいいよ」
「よし!明日が楽しみだな!」
瀬名くんが起こした流れで参加することになってしまった。
時雨くんに申し訳ない反面、彼の家に行けるという不純な楽しみが湧き上がる。
(どんな部屋なんだろう……?)
――ワクワクしながら迎えた翌日。
焼いてきたチョコレートタルトを片手に、時雨くんの部屋の前で立ち尽くしていた。
(五階の504号室……ここだよね?間違ってないよね?)
何度もスマホのメッセージを見返し、五分近くもここでオロオロと迷っている。
(き、緊張する……)
思えば休日に会うのなんて初めてだ。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
(でも、いつまでもこうしていたら、不審者だと思われちゃうよね……)
淡いピンクのワンピースを見下ろし、変なところがないか軽く確認してから、インターホンを押した。
軽快な音が鳴り響き、中から私服姿の時雨くんが姿を現す。
「やぁ美琴、いらっしゃい」
「こ、こんにちは、時雨くん」
黒い長袖のシャツに、グレーのパンツを着用しており、シンプルながらとてもよく似合っている。
思わず見蕩れていると、彼は不思議そうに首を傾げながら中へ招き入れてくれた。
「……?とりあえず入って」
「あ、うん。お邪魔します……!」
ドキドキしながら部屋の中へ足を踏み入れた私は、その光景を見て立ち止まった。
(え……?)
白いベッドと机、そしてクローゼットだけが置かれており、それ以外は折りたたみ式のテーブルが隅に立て掛けられているだけだった。
よく見ると、壁に収納スペースもある。
「……」
カーペットもなにも無い、殺風景すぎる光景に戸惑っていると、時雨くんは困ったように微笑んだ。
「なにも無い部屋でしょ?」
「う、うん……。時雨くんってミニマリストだったりするの?」
「そういうわけじゃないけど、あっても仕方ないかなって」
その言葉に得体の知れない不気味さを感じてしまった。部屋を見ればその人のなりがわかると言うものの、これでは全くわからない。
「まぁ適当に座って。クッションくらいはあるから」
彼は折りたたみ式のテーブルを中央に置き、収納スペースからクッションを四つ取り出した。
そこでようやく我に返り、手に持っていた箱を時雨くんへ差し出した。
「あ……これ、作ってきたんだ。勉強のお供にって思って」
「お菓子?今日は何を作ってきてくれたの?」
「チョコレートタルトだよ。時雨くんチョコ好きでしょ……?」
「え、よくわかったね」
ここ数日、みんなの好みを密かに観察させてもらった成果だ。
ちなみに、久遠さんは抹茶や紅茶系、瀬名くんはフルーツ系を好んでいるようだった。
「勉強教えてもらうから、そのお礼にと思って。ホールのまま持ってきちゃったから切り分けないといけないんだけど……包丁ある?」
「……多分?」
酷く曖昧に答えられ、目を丸くしてしまう。
「えぇ?あの、もし無かったら切りに戻るよ……?」
「いや、大丈夫だと思うけど……ちょっと待ってて」
彼がキッチンへ探しに行っている間、改めて部屋の中をぐるりと見回す。
(綺麗にしてるんだなぁ……)
掃除の行き届いたフローリングを眺め、ふとクローゼットの方へ視線を止めた。
一番下の引き出しが半開きになっており、中から何かがはみでている。
(なんだろう、これ……)
そっと近づき、隙間から勝手に中身を覗いてしまった。
「……っ!?」
病院から処方された薬が何袋も入っている。はみでていたのはその内の一つだったようだ。
(え……?)
頭が追いつかず、もう少し詳しく見ようと手を伸ばしかけたところで、後ろから声をかけられた。
「なに、してるの」
ビクリとしながら振り返ると、そこには表情の無い時雨くんが立っていた。
過去の光景と彼の冷ややかな視線が重なり、自分の愚かな行動に血の気が引いていく。
「し、ぐれく……」
蔑むように見下ろした時雨くんは、足で引き出しを乱暴に閉め、ビクリと体が揺れた。
そんな私に彼はもう一度問いかける。
「で?何を勝手に見てたの?」
重たい圧力のある声に、体が硬直してしまう。
どこまでも無表情で私を見つめる姿は、いつもの優しい彼とは別人のようだった。
(私、また……)
せっかく優しくしてくれていた人に不快な思いをさせてしまった。だから私はダメなんだ。
震える声で、なんとか謝罪の言葉を口にする。
「ご、ごめ……ごめん、なさい」
すると、彼は目を閉じながらため息をつき、スイッチを切り替えるようにいつもの笑顔に戻った。
「はぁ……もう、気をつけてよ?」
声も明るいものに戻っている。それが却って恐ろしい。
「ほ、本当に……勝手なことして、ごめんなさ……」
「もういいから、大人しくしててくれる?」
声は柔らかいのに、言い方からまだ怒っているのを感じる。
嫌われてしまった絶望感に陥り、何も言えまま視線を落としていると、部屋のインターホンが鳴り響いた。
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