第2章 赤銅の人魚と絶望の棺

しかし、一度抱いた疑いはイリアーテの心を固く閉ざした。


 彼はもう、誰かに利用され踏みにじられることに耐えられない。こんなことは一度きりで十分だった。どうせこんな体では、何処に行ってもお荷物扱いの厄介者でしかない。


 ならばいっそ、己を思うなら、その心地よい振動だけを与え、穏やかな死へ導いてくれと願った。


「おい、しっかりしろよ。ふざけるなバカ!」


 イリアーテが死を望んだ瞬間、外の声が少々乱暴に響く。


 イリアーテの推測は一部正しかった。シエリと名乗った存在は、赤銅色の鮮やかな人魚だった。シエリは周囲に集まるサメを追い払いながら、反響定位の力でイリアーテの存在を探り当てていたのだ。


 この海底の広大な闇の中、僅かな音の歪みと生命の気配を感じ取って――シエリは、イリアーテがまだ生きていることを確信していた。


 シエリは一つ息をついて冷静さを取り戻すと、頑強な溶接跡を残す棺に向かって語りかけた。


「お前が本当に絶望して死を望むなら、このまま安らかに逝けるよう音を送ってやる。乗りかかった船だ、最期まで付き合ってやるよ。


 だけど、まだ少しでも生きることに興味があるなら。顔も素性もわからないオレを、ほんの少しでも信じる気があるなら、これだけは絶対だ。約束する。オレは生きようと足掻くやつを見放したりはしない」


 シエリはイリアーテに呼びかけながら、必死に彼を棺ごと移動させていた。


 海底にはいくつかの空気溜まりが存在している。その一つに、シエリはイリアーテを一時的に避難させるつもりだった。


 だが、その行動は想像以上に困難で、シエリの集中力と体力を容赦なく消耗していった。


 シエリが行わなければならないのは、ただ棺を運ぶことだけではない。


 常にサメたちを警戒し、しなやかな尾による牽制と威嚇音を出し続けなければならなかった。それに加え、反響定位を駆使して──聴音ちょうおんと呼ばれる人魚特有の能力で、サメと自身の位置を把握する必要がある。


 そして何より、今も棺の中で瀕死の状態にあるイリアーテを──治癒音ちゆねという同調治癒能力によって癒やし、命を繋ぎとめておかなければならない。


 シエリは人魚の中でも音の扱いに優れている。


 反響定位を使った聴音ちょうおんと、同調治癒による治癒音ちゆねにおいては群を抜いていたが、しかし指向操作に難があるため攻撃音波は力を制限しなくては使えない。


 下手をするとイリアーテのいる棺ごと砕いてしまう危険があるからだ。


 そんなシエリにとって、サメたちを威嚇することは非常に効率が悪く、人魚の尾を振りかざす威嚇行動は消耗が激しい。


 そして、問題はもう一つあった。


 シエリの体格は、同世代の人魚に比べても力仕事に向いているとは言い難い。重い棺を海底で運ぶことは、シエリにとって想像以上に過酷な作業だった。


 音を使うことに集中すればするほど、体力も尽きていく。腕は痺れ、尾が重たく感じられる。呼吸も次第に浅くなり、全身が鉛のように感じられた。


 やがて、シエリは条件の整った空気溜まりの洞窟へたどり着いた。


 疲弊した体に鞭を打ち、棺の鉄壁を外すために再び音波を放つ。慎重に溶接部分を壊し、ついに棺の蓋がガタリと音を立てて外れた。


 そこに横たわっていたのは、蒼白な顔をした痩せ細った少年だった。


 彼の身体は疲弊しきっており、息も絶え絶えだった。


 その姿を見た瞬間、シエリは胸が締めつけられるような痛みを覚えた。この少年がどれほど過酷な目に遭い、絶望の中で棺に閉じ込められていたのかが、その痩せた身体から伝わってきた。

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