イリーナ・アシュグレイア編「黒薔薇の誇りと、夜を焦がす熱」


──夜の王都は、静かだった。

薄く霞む霧の中、石畳を高く鳴らすブーツの音。

その持ち主は、夜会服のままひとり歩いていた。


「……また、“婚姻の申し出”か」


イリーナ・アシュグレイアは深く溜息をついた。

舞踏会に現れる貴族たちの笑顔は、どこか薄気味悪い。

かつては一族の威光と財で令嬢として持ち上げられ、

そして“聖女を陥れた悪女”として一度すべてを奪われた。


「何を今更……。わたくしは、もう“誰かに選ばれる”つもりなど、無いのに」


凛とした声で言いながらも、その胸の奥には、ひとつの名が熱を持っていた。


──フェサリア・ローズ・アルメリア。


アルメリア帝国の第二皇女にして、“物語を救う者”。


彼女に救われた。

悪意に晒された過去も、名誉を奪われた未来も。

そして何より、誇りを失いかけたこの“自分”そのものも。


(あの方は言ったのよ。「貴女は、貴女のままで美しい」と)


初めて、涙がこぼれた日のことを思い出す。


孤独の中に咲いた黒薔薇。

どれだけ人を斬り捨てても、心は空っぽだった。

それが、“誰かに必要とされる”ということが、あんなにも眩しいとは。


「……ほんとうに、ずるい方」


ふと見上げた空。王宮の尖塔に、灯りがまだ残っている。


彼女の部屋だ。


「遅かったじゃない、イリーナ。何かあったの?」


部屋に入ると、フェサリアは読書をしていたようだ。

月明かりを背に受け、金の髪がふわりと揺れる。

その姿だけで、息が止まるほどに美しい。


「……あのような宴会、時間の無駄ですもの。

 わたくしが求めるのは、“貴女”ただ一人なのに」


フェサリアは微笑んだ。イリーナの言葉には慣れている。

けれど――その声には、いつもと違う焦りが混じっていた。


「……何か、あったの?」


問いかけに、イリーナはつい唇を噛む。

感情を抑えきれず、カーテンの向こうへと視線を逸らした。


「……この一年、フェサリアは皆に平等だった。

 シェリルも、クラウディアも、そしてわたくしも。

 だけど……わたくしは、貴女に“選んで”欲しいのです」

「イリーナ……」

「“同情”ではなく、“情愛”で、わたくしを見てほしい。

 強く、美しく、誰よりも誇り高く、そして……貴女だけに弱い、この私を……!」


感情が、溢れていた。

あの時失った名誉や地位などどうでもいい。

欲しいのは、ただひとつ――彼女の心。


すると、ふわりと、抱きしめられた。


「……そうやって、泣くとこ初めて見たわね」

「っ……泣いてなど、いません……」

「でも、声が震えてる」

「……うるさい……フェサリア……」


少女が少女を抱きしめる。

頑なだった黒薔薇が、そっとほぐれてゆく。


「私も選んでるわよ。

 “貴女じゃなきゃ駄目だ”って、ずっと思ってた」

「……ほんとうに?」

「ええ。

 シェリルは聖女として私を支えてくれた。

 クラウディアは知識の盾になってくれた。

 でも――貴女は、“私の誇り”だった。

 誰にも媚びず、傷ついても毅然としていた。

 そんな貴女を、私はずっと、見ていたの」

「……ひとつ、条件があるわ」

「なに?」

「これからもずっと、“わたくしだけ”を見て?」


フェサリアは、笑って頷いた。


「ええ。貴女の誇りも、意地も、全部ひっくるめて愛してる」

「っ、ん……今の、もう一度……」

「全部、愛してるわ。イリーナ」


それが、長い夜の終わりだった。



後日。

アルメリア帝国宰相府より、ある告知が出された。


【イリーナ・アシュグレイア殿、第二皇女フェサリアの“騎士”として正式任命。

 並びに、皇女近衛隊筆頭並びに、皇宮執政官代理として重用す――】


「ふふ……“騎士”ね。フェサリアに膝をついたことなんて、一度もないのに」


苦笑しながら、イリーナは夜の廊下を歩いていた。

その手には、“彼女のために”選んだ純白の指輪がある。


「だからこれは、わたくしからの“忠誠”ではなく――

 貴女からの“恋人の証”として、受け取っておくわ」


月明かりの下、黒薔薇が静かに咲く。

その中心に、確かに灯るのは愛。


そして、“共に歩む未来”への誓いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る