彼の勲章、私の誓い

「ようやくお会いすることが、叶いました。聖奈さんからお話を伺い、ずっと楽しみにしておりましたよ」



音無家のリビングで、今、わたくしの正面のソファに座っているのは、幸せというオーラを全身から放出している、高梨兄妹でございます。

特に聖奈さんは、その内側から湧き出る幸福成分を抑えきれないのでしょう。満面の、花が綻ぶような笑顔で、わずかに身体を左右にゆらゆらと揺らしているお姿。もう、可愛くてたまりませんね。本物の天使とは、かくも人の心を蕩かすものでございますか。


そして、その隣に座る殿方が、この度、聖奈さんの婚約者となられたお兄さま。百合から事前に伺っていた通り、聖奈さんより頭二つ分は身長差がございます。小さく愛らしい聖奈さんとは実に対照的で、大きく、どこか武骨な印象を受けますね。上質なシャツの上からでもはっきりとわかる、鍛え上げられた筋肉の鎧。上腕二頭筋、大胸筋、三角筋……。


ぜひ、サイドチェストのポージングをお願いしたいところで…… よっ、切れてる。 切れてるよっ



……大変、失礼いたしました。


わたくしの、秘めたる妄想が暴走しておりました。本日は、決してそのような場ではございません。精神統一、精神統一でございます。わたくしは聖女。わたくしは聖女。可愛い妹が、心から憧れる、立派な聖女です。よし、落ち着きました。



「初めまして。ご挨拶が遅れ、大変申し訳ございません。高梨樹と申します。この度は、妹が大変お世話になっております。何かと無理を言っておりませんでしょうか。あまりに都合の良いお話ばかりを伺っておりますので、恐縮するばかりでして」


樹さん、と仰るのですね。立ち上がった彼はその大きな身体をこれでもかと小さくしながら、まるで名刺でも差し出すかのような勢いで、丁重にご挨拶をしてくださいました。絵に描いたような、ジャパニーズ・ビジネスマンでございますね。その誠実で謙虚な態度に、好感が持てます。



「この度は、ご婚約、誠におめでとうございます。音無雪と申します。お二人の結婚式の立会人という大役を賜り、わたくしこそ、光栄に存じます」


こちらも、礼を尽くしてお返事いたしましょう。こちらもソファから腰を上げ、スカートの裾をそっとつまみ、柔らかく腰を落としてカーテシで返します。



「わたくしも、リングガールという大役を頂き、大変光栄に存じます」


わたくしに続き、妹の百合も同じくカーテシで並びます。一度『聖女ちゃんモード』に入った妹は、にわかに年齢不詳の雰囲気を纏います。少なくとも、普通の中学生には到底見えません。一体、誰の影響なのでしょうか。……ええ、その責任の一端は、感じております。



――――



「あいにくの空模様で、お庭に直接出ていただけないのは残念ですが、どうぞ、硝子越しにご覧ください。本日は装飾をしておりませんが、結婚式の会場になる場所です」



しばらくお話をさせていただいただけでも、樹さんの根底にある優しさが、ひしひしと感じられます。そして、その意識が、常に、片時も離れることなく、隣にいる聖奈さんに向けられていることも。ご家族をはじめ、周りの方々はこの糖度120%の光景を、日々見せつけられてきたのでございますね。お疲れ様でございます。そのご心中、お察しいたします。



樹さんの前に、コトリ、と音もなく紅茶がサーブされます。そして聖奈さんの前にも。カップを置いたのは、いつの間にか現れた、あかねです。


「あかねさんですよ」


聖奈さんが嬉しそうに言うと、樹さんも「あぁ」と思い出したようです。



「ご婚約おめでとうございます、樹さん。何年ぶりでしょうか。まさか、聖奈ちゃんの婚約者として再会するとは、夢にも思いませんでしたよ」


悪戯っぽく笑いながら、あかねが言う。そうでした。聖奈さんのご友人として、以前「お兄ちゃん」を紹介されたことがあったのでしたね。


照れを誤魔化すように紅茶を一口飲む樹さん。その手が左だったことに、わたくしは内心、少し驚きました。あかねがサーブするとき、ごく自然にカップの取っ手を左右逆に置いたので、一瞬違和感があったのです。彼女は、事前に知っていたようですね。隣にいる百合さんも、その細やかな心遣いに気が付いたようです。少しずつ、乙女の作法を学んでいってくださいな、我が妹よ。



幸せいっぱいの樹さんですが、やはり殿方でございます。目の前に、物理法則を無視したかのように凶悪に揺れるものがあれば、視線がそちらに向いてしまうのは、生物のさがでございましょう。ええ、責めはしません。責めはしませんが、バレていますよ。



「お兄ちゃんっ」


ゴッ、と鈍い音が響きました。かなりキツい肘鉄が、樹さんの鍛え上げられた脇腹を的確に直撃したようです。あの見事な筋肉をもってしても、乙女の聖域を侵した罪の代償は耐えられなかったご様子で、ソファの上で悶絶しております。乙女のパンチと違い、乙女の肘鉄は本当に痛いのですよ。


聖奈さんのお胸も、相当なものでございます。そんな美しい婚約者の目の前で、他の女性に目移りしてしまうのは、殿方の悲しいさがでございましょう。しかし、我らが天使様は、今、激おこぷんぷん丸でございますよ。



「雪さんの婚約者だって、昨日、ちゃんと説明したでしょ。 失礼よ。 怒られるわよ」


「も、申し訳ありません……。悪気は、本当に無いんです。つい、その、引力に……」


「いえいえ。どうぞ、お気になさらず」


ああ、もう。わたくしは否定することに疲れました。どうせこの家で、わたくしに味方などいないのです。爆乳な婚約者を持つ(と誤解されたままの)世界樹の聖女は、今日も強く生きるのでございます。Hey!



――――



私の貴い犠牲により和やかな雰囲気が流れる中、ふいに聖奈さんが真剣な面持ちで、あかねさんに問いかけます。



「あかねさん、気が付いてますよね。この、キズのこと」


聖奈さんの視線の先にあるのは、樹さんの右手の甲。そこに刻まれた、痛々しい傷跡でした。


「お兄ちゃんが左利きなのは、私のせい、なんです」



「聖奈。その話は、もういいじゃないか。俺にとっては、これは勲章なんだ。お前を守り抜いた、漢の証だからな」


右手の甲、ちょうど中指の付け根あたりから手首にかけて、何か鋭いもので引き裂かれたような、白い跡が残っています。これだけの瘢痕が残るのです。きっと、骨が見えるほどの大怪我だったのでしょう。それが原因で、利き腕であった右手を以前のように上手く使えなくなり、左手に持ち替えた。そういうことなのでしょう。



「実は、あの時……」


聖奈さんが、何かを語ろうとした、その瞬間。あかねが、それを遮るように、しかしはっきりとした口調で口を開きました。



「聖奈さん。お兄さんが、それを勲章だと誇りに思っているのなら、守られた女は、その想いを黙って心の中で感謝しなさい。それ以上、その傷を蒸し返して、彼の誇りを惨めなものにするのは、女が廃ります」


珍しく、厳しささえ感じさせる口調で諭すあかね。その気迫に、聖奈さんは何も言えなくなります。それで良いのです。あかねの言う通りなのですから。



わたくしは、静かに言葉を継ぎました。


「聖奈さんに、大好きな聖奈さんに、『自分のせいで』という罪を一生負わせたとしたら、樹さんは、きっとその方が苦しいですよ。人というものは、ごめんなさい、と言われ続けると、いつしかその重さに押しつぶされてしまうものです。それよりも、ありがとう、という感謝の気持ちを、たくさん彼に送りましょう。わたくしの尊敬する人が教えてくれた、私の大好きな言の葉なのです」


「雪さんは……心まで、聖女さまなんですね。俺には、そんな価値観はありませんでした」


肩の荷が、すっと下りたような。そんな晴れやかな顔をして、樹さんがわたくしを見つめます。


「いえ。わたくしが尊敬する、ある女性の受け売りです。命をかけて、たった一つの恋をした。そんな方の、魂の言の葉でございます。わたくしは、ただそれを代弁しただけですよ。我らが天使様は、いつだって笑顔でいてください」


わたくしの言葉に、聖奈さんは、はっとしたように顔を上げました。そして、涙で潤む瞳のまま、樹さんの、傷跡の残る右手を、自分の両手で優しく包むようにして、ぎゅっと抱き寄せました。



「この傷も、全部、ぜんぶ、私が受け止めて。そして、二人で、ううん、みんなで、幸せになります」



もう、このお二人には、障害となるものは何もありません。過去の傷も、罪の意識も、すべてが溶け合い、心の底から、本当の意味で繋がったのです。



「雨が、上がりましたね」


百合さんが、ぽつりと呟きました。

その言葉に促されるように外を見ると、厚い雲の切れ間から、眩しいほどの陽光が差し込み、雨に濡れた世界樹の葉一枚一枚を、きらきらと黄金色に照らし出していました。


伝説の大樹が、静かに笑っていらっしゃいます。

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