お兄ちゃん捕獲計画

大学4年の冬。


吐く息が白く染まる師走の街を、私は少し浮かれた気分で歩いていた。就職先も無事決まり、卒業論文の最終チェックもほぼ終えた今、残された学生生活はまさに黄金のモラトリアム。サークルの仲間とはしゃぐ卒業旅行の計画、研究室の謝恩会で着るドレス選び、そして、長かった学生生活の終わりを惜しむかのような、友人たちとの他愛ないお喋り。その全てが愛おしく、キラキラと輝いて見えた。



「聖奈は本当に綺麗になったわよねぇ。ミスコンに出てたら間違いなくグランプリだったのに」


行きつけのカフェで、親友の裕美が温かいカフェラテの泡をスプーンで弄びながら言った。窓の外は、夕暮れが迫り、街路樹のイルミネーションが瞬き始めている。クリスマスソングが微かに流れ、年の瀬の慌ただしさと華やかさが混じり合っていた。



「またまた、裕美は大袈裟なんだから。それより、卒論の進捗どうなの」


私たちは、お互いの近況を報告し合いながら、いつものように時間を忘れて話し込んだ。



「それにしても、聖奈が進学塾の講師になるって決めた時は、正直驚いたわ。だって、あんなに小学校の先生になりたがってたじゃない」


裕美の言葉に、私はふっと息を吐いた。テーブルに置かれた自分のカモミールティーの湯気が、頼りなげに立ち上っては消えていく。



「うん、自分でも意外だった。入学当初は、それ以外の道なんて考えられなかったもの。教育実習も本当に楽しかった。子供たちの素直な瞳、何にでも一生懸命な姿……。 でもね、どこかで物足りなさを感じていたのも事実なの」


それは、ある種の無力感だったかもしれない。子供たちの成長をすぐそばで見守れる喜びは大きかったけれど、彼らが抱える家庭環境や社会の歪みといった、より大きな問題に対して、一教師としてできることの限界を感じずにはいられなかった。クラスの中には、明らかに愛情に飢えている子や、家庭の事情で学習機会が十分に与えられていない子もいた。彼らに寄り添いたいと思っても、学校という枠組みの中では、踏み込めない領域が多すぎた。



「アルバイトで始めた塾講師は、最初は本当に繋ぎのつもりだったの。時給も良かったし、教えること自体は好きだったから。でも、そこで出会った生徒たちが、私の価値観を少し変えてくれたの」


中学生や高校生という、多感で複雑な年代。彼らは、子供のような純粋さと、大人びた冷めた視点の両方を持っていた。そして、目の前の「受験」という壁に、それぞれの思いを抱えて必死に立ち向かっていた。親の期待、将来への不安、友人との競争。そんなプレッシャーの中で、彼らは必死にもがいていた。



「難しい問題が解けた瞬間の、あの達成感に満ちた顔。苦手だった科目が得意になった時の自信に溢れた笑顔。そして、第一志望に合格したって報告に来てくれた時の、あの涙……。 彼らの人生の大きな岐路に立ち会って、少しでもその背中を押せることに、ものすごく大きなやりがいを感じたのよ」


塾長から「うちで正社員として、本格的に生徒たちの指導に当たってみないか」と声をかけられたのは、そんな充実感を覚え始めていた矢先だった。教育学部で学んだ知識も活かせるし、何より、生徒たちの「分かった」という瞬間の輝きが、私自身の喜びになっていた。



「もちろん、すごく悩んだわ。小学校の先生になるという長年の夢を、本当に手放していいのかって。両親にも相談したし、大学の先生にも色々話を聞いてもらった。でも、考え抜いて、私のやりたい教育はここにあるって確信したの」


「聖奈の授業、分かりやすいって評判だもんね。熱意もすごいし。きっと天職よ」


裕美は、自分のことのように嬉しそうに微笑んでくれた。その笑顔に、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。



「塾の生徒たちからも、既に『美人講師が来る』って噂されてるらしいわね。春からの本格デビューが待ち遠しいって。一部の男子生徒なんて、聖奈先生の担当クラスに入れてもらうために、今から塾長に嘆願書を出す勢いだって聞いたわよ。まったく、受験生を骨抜きにしちゃダメだからね」


裕美がからかうように目を細める。その視線が少し気恥ずかしい。



「もう、その話はやめてったら。私のファンクラブなんて、学内だけじゃなくて、アルバイト先の塾の周辺高校にまで広がってるみたいだし。どうしてくれるのよ、まったく」


口では不満を言いつつも、表情はどこか楽しんでいるのが自分でも分かった。目立つことは嫌いじゃない。むしろ、注目されることで自分を律し、高めていけるタイプだと自負している。



「でもね、最近ちょっと困ったことになってて。真剣に告白してくる子とか、ストーカーまがいのことする子まで出てきちゃって……。 だから、自衛策を講じてるの」


「自衛策 なにそれ、気になる」


私は周囲をそっと見回し、声を一段落として裕美に耳打ちした。


「実は…… 私には婚約者がいるって公言し始めたの」


「ぶふっ」


裕美は飲んでいたオレンジジュースを盛大に吹き出しそうになり、慌てて口元をナプキンで押さえた。



「ちょ、聖奈 本気で言ってるの 誰よ、そんな勇気のある…… ううん、幸運な殿方は」


興奮気味に身を乗り出す裕美に、私は得意げに微笑んでみせた。



「ふふん。それはね…… お兄ちゃん」


一瞬の沈黙の後、裕美は宇宙猫のような顔になった。



「……はっ  お、お兄さんなの」


「そうよ」


「いやいやいや  それはいくらなんでも無理があるでしょ。 お兄さん、その壮大な計画、ご存知なの」


裕美のツッコミが的確すぎて、思わず笑いが込み上げてくる。


「ううん、まだ内緒。でも大丈夫。外堀からしっかり埋めて、既成事実を積み重ねていけば、お兄ちゃんもきっと観念してくれるはずだから。いわば『高梨聖奈お兄ちゃん捕獲計画』よ」


「捕獲って…… 聖奈、あんたねぇ……。お兄さん、ちょっと可哀想になってきたわ」


「あら、どうして お兄ちゃんだって、私みたいな可愛い妹が奥さんになるなら、幸せだと思わない」


本気とも冗談ともつかない私の言葉に、裕美は深いため息をついた。



「まあ、聖奈の美貌と人気なら、その『婚約者』の存在は効果絶大でしょうけどね。ファンクラブ的には、その婚約者がお兄さんだって知ったらどうなるのかしら。暴動が起きるか、それとも禁断の香りに逆に燃え上がるか……」



「一部の熱心なファンからは『お兄様との禁断の愛、尊すぎます』なんて声が上がるかもしれないわね。実際、塾の生徒たちからも、『聖奈先生に婚約者がいるなんてショック…… でも、先生が幸せなら応援します』とか、『その婚約者さんを拝見したい』とか、色々言われてるのよ」


「幸せそうな聖奈の顔を拝めるだけで尊い、ってわけね。なるほど、アイドルとそのファンの関係性に近いのかも」


裕美は妙に納得したように頷いた。



「そういえば、塾の生徒が言ってたらしいんだけど、『天使先生に怒られるなら、むしろご褒美です』って公言してる子がいるんですって。塾長が頭抱えてたわよ」


「うわぁ…… それはさすがにちょっと引くわね」


口ではそう言いつつも、生徒たちにそれほど慕われていることは、素直に嬉しかった。彼らの純粋な好意は、私にとって大きな励みになっている。


(お兄ちゃんは昔から、本当に私のことが大好きで、何でも言うことを聞いてくれた。優しいし、頭もいいし、頼りになる。でも、いつまで経っても私を『可愛い妹』としか見てくれない。それが少しだけ、寂しかった)


だからこその、この「婚約者作戦」。最初は冗談半分、周囲の過剰なアプローチをかわすための方便だったけれど、最近は本気でこの作戦を成功させたいと思うようになっていた。兄妹という安定した関係性を壊すのではなく、新しい、より深い関係性にステップアップさせるために。


(もちろん、お兄ちゃんにはちゃんと私の気持ちを伝えて、理解してもらうつもり。でも、その前に、周りの状況を固めておくのは大事な戦略よね。それに、こうでもしないと、鈍感なお兄ちゃんは永遠に気づいてくれないかもしれないし)


そんなことを考えていると、自然と口元に笑みが浮かぶ。


講師の仕事は、本当に奥が深い。生徒一人ひとりの個性も学力も違う中で、どうすれば彼らの知的好奇心を引き出し、自ら学ぶ力を育てられるか。日々、試行錯誤の連続だ。

「天使先生」なんて愛称で呼ばれて、見た目ばかりが注目されがちだけど、授業では一切手を抜かない。時には厳しい言葉で叱咤激励もする。それは、彼らの可能性を信じているからこそ。表面的には優しくても、本気で向き合わなければ、生徒たちの心には響かない。その信念だけは、誰にも曲げられないつもりだった。


卒業して正社員になれば、担当する生徒の数も増え、責任も重くなるだろう。でも、不安よりも期待の方がずっと大きい。あの真剣な眼差し、問題を解き明かした時の輝き、そして合格を勝ち取った時の笑顔。それらに出会えるなら、どんな困難も乗り越えられる気がした。


「まあ、聖奈が決めたことなら、私は全力で応援するわよ。その『お兄ちゃん捕獲計画』も、ね」


裕美は悪戯っぽく笑って、私の肩をポンと叩いた。


「でも、くれぐれも、お兄さんの心を弄びすぎないようにね。ちゃんと本気でぶつからないと、聖奈が泣きを見ることになるかもしれないから」


「分かってるわよ。ありがとう、裕美」


カフェを出ると、冬の澄んだ空気が頬を刺した。でも、心は温かい。大切な親友からのエールと、これから始まる新しい生活への希望、そして、ちょっぴり大胆な恋の戦略。それら全てを胸に抱き、私はきらめく街の光の中へと、一歩踏み出した。卒業までの残り少ない日々を、そしてその先の未来を、思いっきり楽しんでやろう。そんな決意を新たにする。その胸には、講師としての情熱と、一人の女性としての秘めた想いが、熱く燃え続けていた。


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