第3話



 その日からキキは、毎日歌をうたった。セイは目を閉じ、静かにそれを聞く。毎日飽きることなく続けられたが、ある日キキは言った。


「ねえ、セイ。あなたも一緒に歌いましょうよ」


 思いがけない提案に、セイは目を丸くした。


「む、無理だよ!!」


 あんなに美しい歌声に自分の声を重ねるなど、考えられない。するとキキは言った。


「大丈夫よ!あなた、前に私の歌を真似たことがあったでしょう?それ、本当に上手だったわ。私がちゃんと教えるから、一緒に歌いましょうよ」


 あまりに目を輝かせて言うものだから、とうとう了承してしまった。不安はあったが、キキと一緒に歌えたらきっと楽しいと、そう思った。


 そうしてキキは、セイに歌を教えてくれるようになった。何度も、丁寧に、セイがちゃんと付いて来られるように教えてくれる。その時間はとても心地良いものだった。前の檻にいたときは分からなかったが、自分は音を真似ることに長けているらしい。


 そして数日後、セイは初めてキキと一緒に歌うことになった。セイは少し緊張していた。それが伝わったのか、キキは静かに手を繋いでくれる。


 そして、キキの合図でそれは始まった。キキの美しく澄んだ高音。セイもその音を追いかけ、高く上り詰めていく。二つの高音は螺旋状にうねり、重なり合う。それは檻を飛び越え、どこまでも突き抜けて、そして消えた。


辺りは無音。高音の余韻に浸り、静まり返る。静寂を破ったのはキキだった。


「す……」


「え?」


「すっっごい!ねえ、すごかった!私、大空を羽ばたいているようだったわ!」


「大空?」


 耳なじみのない単語に、セイは首を傾げる。キキは興奮を落ち着け、教えてくれた。


 キキの話によると、大空、というものこそ、いつか青年が言っていた青の世界のことらしかった。


「その青はどこまでも無限に続いていてね、なんのしがらみもないのよ」

「無限に続く青……」


「私、一度で良いから大空を見てみたいわ」


 そう言って、遠い目で檻の向こう側を見つめた。




 キキは、それからも毎日歌った。時々、セイと一緒にも歌った。しかし、キキの美しく澄んだ声が、日毎にか細くなっていくのを、セイは感じていた。


「ねえキキ、無理しないで。もう、声を出すの辛いんでしょ……?」


 キキは苦しそうに微笑むばかりで、歌うことをやめなかった。


「キキ、お願いだから」


 どんなにセイが懇願しても、キキは歌い続けた。高い音が出なくなっても、途切れ途切れになっても、歌うことをやめない。セイはもうキキを止めようとはしなかった。歌っている時のキキは、とても穏やかな表情をしているから──。


 キキはどんな時も、歌を途中でやめなかった。しかし、その日、キキの歌声は途切れた──。


「キキ!キキ!」

「セ、イ……」


 キキの瞳は虚ろだった。キキの横たわる身体の傍らで、セイは彼女の手を両手で握りしめる。嫌だ。こんなのは、嫌だ。


「セイ、あたた、かい、ね」


 キキの手は冷たくなっていく。自分の体温を分け与えようと、ぎゅっと彼女の手を握りこむが、温度は失われるばかりだった。


「キキ、どこに行くの。僕を置いて行くの。嫌だ、嫌だよ、行かないで」


 ぽろぽろと涙が零れ落ちる。しかし、それを拭うことはせず、頑なにキキの手を離そうとしなかった。


「セ、イ……」

「なに、なにキキ」


 キキがかすれた声でセイに語りかける。それが最後の言葉に思えて、セイは必死で耳を傾けた。


「泣かないで、セイ。私は、今から、大空へ、行くの」

「大空へ……?」


 聞き返すと、キキは儚く微笑んだ。


「大空へ行く方法、私ね、もう一つだけ、知ってるの」


「え?」


「私は、大空へ羽ばたくの。何にも阻まれず、自由に、飛ぶの。やっと、ずっと夢見た世界へ、行ける……。だから、泣かないで……」


「無理だよ、泣くな、なんて……」


 キキの手を握りながら、涙は溢れ出てくるばかり。すると、キキはかすれた声で歌をうたい始めた。


「キキ……?」


「ねえ、セイ……一緒に、うたって……」


 キキはそれきり目を閉じて、ただただ歌った。セイも目を閉じ、それに合わせて声を重ねる。不思議なことに、セイにはこの歌が過去のどの歌よりも美しく感じた。


 やがてキキは歌をやめ、セイを真っ直ぐに見つめた。


「私、ここでセイに会えて、良かった」


「キキ、待って、キキ」


「セイ、行ってきます──」


 キキはゆっくりと目を閉じ、それきり何も言わなかった。セイはただ歌い続けた。彼女を追いかけ、彼女に、音を重ねていった──。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る