第三十六章 『ただいま』を言える場所があるなら

 ふたりが再会した日から、数日が経った。

 奏和は、正式な任務報告までのあいだに与えられた短い休暇を、辺境都市ハラデアの外れにある小さな宿で過ごしていた。

 そして、その静かな時間を――光莉とともに、ただ過ごしていた。

 大きな出来事もない。ただ、朝に一緒にパンを裂き、昼には街を歩き、夜には静かな部屋で本を読む。どれも当たり前のような、けれど彼らにとっては特別だった時間。

 宿の窓辺には古びた木製のテーブルがあり、その上に開かれた二冊の本。片方には光莉のしおりが挟まっていて、もう一方には奏和の無言の付箋が貼られていた。

 光莉はページをめくる手を止め、ふと、窓の外を見つめた。

 夕暮れがゆっくりと町を染めていく。淡い光に照らされた横顔が、どこか遠い記憶の中のように穏やかだった。

「こういう時間が、ずっと欲しかったんだなって思ってます」

 その呟きに、奏和は本を閉じて、彼女の方に目を向けた。

「時間というより、君の隣にある空気だと思う」

「……難しいですね、それ」

 光莉は小さく笑った。けれど、その笑みにはどこか切なさも混じっていた。

「ねえ、奏和さんは――“帰りたい場所”って、ありますか?」

 その問いかけに、彼は少しだけ言葉を探すように間を空けた。

「今まではなかった。でも、君といた日々を思い出すと、そこに戻りたいと思う」

 それは、飾りのない率直な本音だった。

 光莉はその言葉に頷いて、テーブルに指先で小さな輪を描いた。

「じゃあ私は……あなたの“ただいま”を受け止められる人になりたいです」

 その声は、言葉というより、願いのように宿の空気に溶けていった。

 一瞬、時間が止まったようだった。

 そして、静かな沈黙のなかで、ふたりの間に何かが結ばれた。

 誰に証明されるでもない。

 制度も契約もいらない。

 ただ、ふたりがふたりの意志で、存在しあえる場所を信じられるようになった、その証。

 やがて、奏和がそっと言葉を継いだ。

「居場所は、“残る人”が作るものだと思っていた。けれど、君と離れて初めて、“帰りたい”と思った」

「私は……“待つこと”って、自分にはできないと思ってました。でも、あなたが“ただいま”って言ってくれる気がして、なんとか待てたんです」

 光莉は、胸の奥を震わせながら、そう告げた。

 ただ静かに、ただ深く、想いを重ねる時間だった。




 時間は、まるで水のように流れていた。

 それがゆっくりか、早くかはわからない。けれど、確かにふたりの心を潤しているようだった。

 宿の夜は早い。時計の針が二十時を指すころには、廊下の灯りも落ち始め、各部屋の扉はそっと閉じられていく。

 光莉と奏和は、夕食を済ませたあとも並んで座っていた。

 テーブルの上に置かれた湯気の立つハーブティーのカップ。

 その香りが、どこか懐かしさを連れてきた。

「……学院のときも、こういう時間、欲しかったですね」

 光莉が言った。

「あの頃は、目の前の任務や訓練に追われて、ふたりでただ“何も考えずに”いる時間がなかったから」

「そうだな。常に誰かの視線があった」

「そして、“主と従”という枠のなかでしか、呼吸できていなかった」

「今なら、できるのか?」

「え?」

「何も考えずにいることが」

 その問いに、光莉は少しだけ目を見開き――そして、ゆっくりと笑った。

「……はい。今なら、できます。あなたが隣にいて、ただ黙ってくれるなら」

 それは、とても素直な本音だった。

 そして、奏和もまた、それに応えるように小さく頷く。

「君がそこにいるなら、私はどこにでも帰れる気がする」

 たったそれだけの言葉なのに、光莉の胸はぽかりと熱くなった。

(帰る場所って、ただ家があるって意味じゃない)

(誰かが、自分を受け入れてくれるって、信じられること)

(それだけで、人は“帰れる”んだ)

 翌朝。

 奏和が任務に戻るため、宿を発つ支度をしていた。

 光莉は、玄関前で彼を見送る準備をしていたが、心のなかにあるひとつの想いが止まなかった。

(別れじゃないって、分かってる)

(それでも、この人が“帰る”と決めてくれた場所が、私の中にちゃんとあると証明したい)

「奏和さん」

 彼が振り返る。

 朝の光が、その外套を柔らかく照らす。

「次に会えるのがいつか分からなくても、私、ちゃんと待ってます。だから……次は、私のほうから“おかえり”って言わせてください」

 それは、もう“主従”の中で生まれる台詞じゃなかった。

 でも、誰よりも深く結びついた“ふたり”だからこそ言える、未来への約束だった。

 奏和は、わずかに表情をゆるめて――

「その言葉が、次に向かう場所の道標になる気がする」

 そう言って、背を向けた。

 けれど、その歩幅は今もなお、光莉が知っている“歩きやすい速度”だった。

 光莉は微笑む。

(“ただいま”を言いたい人がいる)

(そう思えたとき、私は初めて“待つ強さ”を手に入れた気がした)

 そして、扉が閉じたあとも、その想いだけが、部屋のなかに温もりを残していた。

 ――第三十六章 終

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