第三十一章 一度だけ、好きと伝えてもいいですか
学院の最終試験通知が届いた朝、教室の空気は緊張よりも、どこか祭りのような浮ついた気配に包まれていた。
それもそのはずだった。
“卒業試験を兼ねた最終共同任務”――それは単なる筆記や演習ではなく、実地に赴いての本格的な現場任務。選ばれたペアは、それぞれの実績と適性を加味して編成される。
形式上、光莉と奏和の“主従契約”はもう存在しない。
だがその通知の紙に並んでいたのは、見慣れたふたつの名前だった。
“特例編成チーム:奏和・光莉”
その一文に、思わず光莉は唇を押さえた。
(もう一度、あの人と――“ふたりで”任務に出られる)
ただそれだけのことなのに、胸の奥が満ちていく感覚があった。
任務内容は、辺境地区の古代遺構における魔力封印の再施工と調査。
「相性と信頼性を重視した編成のため、かつて主従契約を結んでいた者同士での再編成を一部認める」
そう記された但し書きが、光莉には小さな贈り物のように見えた。
前夜、部屋に戻ると、奏和は机に向かって準備をしていた。地図、術式の基礎資料、魔力応答石の点検。変わらぬ集中力と静けさ。
けれどその目は、どこか柔らかくて――以前よりも、わずかにこちらを意識しているように見えた。
「……明日から、よろしくお願いします」
光莉が言うと、奏和は本を閉じてこちらを見た。
「こちらこそ」
そのやり取りだけで、胸の内に静かに灯りがともる。
出発の朝は快晴だった。
空気は澄み、春の香りが野道に満ちていた。
ふたりはかつてのように馬車ではなく、指定された移動魔具で現地へと向かう。途中、幾度か道を確認し、古代遺構の入口へと到着した。
その場所は、思っていたよりも広大で、複雑な構造をしていた。
石の階段を降り、螺旋状の通路を進む。壁の至るところに古語で書かれた注意文が刻まれ、足元には時折、魔力の反応が瞬いた。
(でも、大丈夫。今なら――)
光莉は自然に奏和の歩調に合わせていた。けれど、それは“従っている”のではなかった。
“並んで歩く”という言葉が、ようやく本当の意味で心に根を張っていた。
やがて、中央区画に近づいたとき、通路が分岐する。
光莉が地図を確認する前に、壁が音もなく動き、ふたりの間に結界が張られた。
「光莉!」
奏和の声が響く。だが間に挟まれた透明な障壁は、外の音をかき消していた。
一瞬、全身の血が凍るような感覚に襲われた。
(閉じ込められた――?)
だが、動揺はすぐに引いた。
(大丈夫。私は、一人でもできる)
そして何より――(もう一度、あの人に言いたいことがある)
その想いだけが、彼女を真っ直ぐに前へと押し出していた。
閉ざされた通路の先、薄暗い階段を一歩ずつ降りながら、光莉は懐中灯に似た魔光石で足元を照らした。
光が届く範囲は限られていた。だが、手元の鼓動が乱れていないことに、光莉自身が驚いていた。
昔なら、こんな暗闇に一人取り残されたら、まず不安に押し潰されていたはずだった。
でも今は違った。
(私は、ここにいる)
(“従”じゃなく、“私”として)
壁に刻まれた術式を読み解きながら進む。魔力の流れが微かに乱れている。結界の解除には、再調整が必要だ。
手順通りに符術を並べ、古語で安定命令を唱える。
一呼吸おいて、空気が緩む。
それと同時に、背後の通路にふっと風が流れた。
再び結界が解除された合図。
「……光莉!」
次の瞬間、あの声が戻ってきた。
振り向くと、そこには急ぎ足で駆けてくる奏和の姿があった。焦りと安堵の混じった表情――そして、息を詰めるように止まった目。
「……君は、こういうとき、いつも一人で解決してしまう」
それは責めているのではなかった。ただ、自分が“何もできなかった”ことへの悔しさが滲んでいた。
光莉は首を横に振る。
「一人だったけど、ずっとあなたの声が響いてたんです」
「私は、もう逃げないって、ちゃんと心で言えた」
その声には、力があった。迷いがない、ただの従者ではない、ひとりの人間の意志。
そしてその意志は、今夜――ついに形になる。
任務を終えて、野営の準備に入る。森の開けた一角に設営された簡易シェルター。月の光が木々の間を縫い、静けさがすべてを包み込んでいた。
食事を済ませたあと、光莉は奏和の隣で、焚き火の灯りに照らされながらそっと口を開いた。
「一度だけ、言ってもいいですか」
奏和は、少しだけ目を細めた。
「返事はいりません。誤解されても構いません。これは“従”じゃなく、“私”からあなたに伝えたいことです」
焚き火がぱちりと音を立てる。
彼は黙って頷いた。
その静かな承認を受けて、光莉は胸の奥から、ただ一言を絞り出した。
「好きです」
風が、森を撫でるように吹き抜ける。
ふたりの間にあった時間が、その一言で静かに凪いだ。
何かが変わったわけではない。
でも確かに、ふたりの関係は一段深く、静かに沈んでいった。
奏和は、数秒だけ黙ったまま目を伏せ――やがて、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「それは、“一度きり”で終わるには、惜しい言葉だと思った」
光莉は笑った。
「それでも、一度目を言えたことが、私の全部です」
その笑顔は、どこまでも澄んでいた。伝えたいことは伝えた。見返りを求めないその想いは、光のようにまっすぐだった。
それだけで、十分だった。
――第三十一章 終
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