第二十九章 片方だけが背伸びをしていた
学院内が、静かに“卒業”の支度を始めていた。
各棟には紙封筒が貼り出され、仮配属の最終成績表と進路確定通知が、番号順に手渡された。廊下には荷物をまとめる学生たちの声。旅券の申請や任命式の準備を巡って、事務局は慌ただしさを増していた。
光莉は、自分の封筒を受け取った指先が汗ばんでいるのを自覚していた。
(わかってる、期待してちゃいけない。順位は、気にしないって決めたのに)
封を開ける。記されていたのは、中堅上位の成績――全体順位は二十四位。
自分なりに頑張ってきた。努力した。誰の補助も受けず、任務も完遂した。
それでも、心のどこかが軋んだ。
(あの人は、きっと……)
隣で、封を開けた奏和が、淡々と目を通す姿が視界の端に入る。
彼の順位は、全体で第二位。主席に次ぐ高評価。予測通りだった。
何も驚くことではない。
けれど、胸の奥がひどく静かだった。妬みでも、悔しさでもない。ただ、“離されている”という感覚があった。
(私は、あの人の“隣”に立ってるつもりだった)
けれど、それは見えている風景を“無理に合わせていた”だけかもしれない。
その夜、学院の食堂で同期の女子に声をかけられた。
「光莉って、よくついていけたよね。あの人の“従”だったって、今でもちょっと信じられない」
「でも、まぁ……奏和様ほどの人が、誰かとペアを組むなんてこと自体が奇跡だったよね」
悪気はなかった。賞賛の延長だったのだろう。
でも、その言葉に、光莉は笑うことができなかった。
(“よくついていけた”――それって、私は最初から下だったってこと?)
(私は、“合わせてもらって”ただけだったのかな)
そう思った瞬間、呼吸がうまくできなくなった。
翌朝、光莉は訓練場にいた。
誰もいない早朝の魔術演習室。自動記録装置を起動させ、ひとりで魔術の応用演算を始めた。
――もっと何か、証明したい。
自分が、彼の隣に立っている理由を。主従制度がなくても、能力でも選ばれる存在であることを。
その一心で、高度な魔術式の再構成に挑んだ。
だが、制御は難しかった。
集中が乱れ、術式が崩れかける。警告音が鳴り、空中に展開された魔法陣が歪み、収束されないまま光を放つ。
次の瞬間、魔力が暴走した。
光が炸裂し、術式が空中で爆ぜた。
演習室に鋭い警告音が鳴り響き、光莉は反射的に身をひねった。すぐに補助防壁が展開されたが、その内側で魔力の波が暴れたように跳ねた。
「っ、く……!」
魔力の逆流が指先を焼くように痛み、膝をつく。息が荒くなる。右手の術式制御が甘く、腕が痺れていた。
記録装置が即座に術式の強制終了を行い、全ての魔術陣が消える。部屋が静けさを取り戻すと同時に、扉が乱暴に開かれた。
「光莉!」
駆け込んできたのは、奏和だった。
彼は状況を一瞬で察し、光莉の元に膝をついた。
「無茶をするな!」
低く怒ったその声に、光莉は目を伏せた。
「……だって、私は、何も持ってないから……!」
その一言が、まるで自分自身の奥底を叩き割るように響いた。
「私は、“背伸び”しないと、あなたの隣に立てない……」
言いながら、涙がこぼれていた。痛みではない。悔しさでもない。
その言葉が、心のどこかでずっと感じていた“真実”だったから。
「ずっとあなたの隣にいたいって思って、努力してきた。でも、全部“追いつくため”だった」
「私はあなたに“見合う”ようになりたくて、ひたすら背伸びして……それで、勝手に苦しくなって……」
途切れ途切れの声が、床に落ちた。
奏和は黙っていた。けれど、視線は一度も逸らさなかった。どんなに痛々しくても、彼はその姿を見つめ続けていた。
やがて、光莉がようやく顔を上げたとき、彼はそっとポケットから何かを取り出した。
それは、一冊の小さなメモ帳だった。彼女が訓練や任務で使っていたもの。びっしりと術式の記録や考察、そして時おり交じる“心のメモ”が書かれていた。
「落ちていた。……届けるつもりだったが、見つけた瞬間、読まずにはいられなかった」
その言葉に、光莉は息を呑んだ。
「君が、どれだけのことを考えて、悩んで、進んでいたか……私は、全部見落としていた」
彼の指先が、メモのページをなぞる。
「君は、私に追いつこうとしていた。でも私は、君と同じ歩幅で歩きたいとずっと思っていた」
その声は、ただの慰めではなかった。
光莉は、目を見開いたまま、彼の言葉に耳を澄ませた。
「合わせるでも、追いつくでもない。“並んで歩く”。……それだけでいいと、私は最初から思っていた」
空気が、静かに変わった。
演習室の光が、ふたりを柔らかく照らす。
光莉は、涙を拭いながら、かすかに笑った。
「……ごめんなさい。私はずっと、“合わせてもらってる”ことに、気づかなかった」
「でも、ありがとう。そう言ってくれて」
その言葉に、奏和は小さく首を横に振った。
「君は、今のままで、もう十分私の隣にいる」
その言葉が、光莉の心にやさしく届いた。
もう、背伸びはいらなかった。
――第二十九章 終
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