第二十二章 主従の境界線、その先にあるもの
「再契約の通知……?」
早朝、学院中に届いた一斉通達は、光莉の心を重く沈ませた。
《制度調整に伴い、主従契約を有する全ペアは、再契約の意思確認および手続きを義務とする》
書面には、淡々とした文字でそう記されていた。
あまりにも事務的な文面。けれど、その一文が持つ意味は重い。
再契約――すなわち、主従関係を“改めて制度として更新する”ということ。選択し直すのではなく、形式に従い、署名と魔術式で明文化するという話だ。
(いまさら、何を……)
光莉の胸がざわついた。
今の自分たちは“主と従”でありながらも、かつてのような制度の型に収まってはいない。何かを命じる関係ではなく、互いを選び続ける関係になりつつあった。
なのに、ここで“再契約”という言葉が差し出される。
(……それをしてしまったら、また“型”に戻ってしまうんじゃないか)
混乱のなか、優里奈がそっと耳打ちしてきた。
「制度を強化するってことは、“関係を定義し直せ”っていう圧力になるわよ」
「あなたたち、今のままだと“主従の枠にいない”って見なされるかも」
言いながら彼女は真っすぐに光莉を見る。
「中途半端なままじゃ、崩れるわよ。何か、明確にする覚悟が必要になる」
その言葉に、光莉は何も言えなかった。
講義後、奏和も同じ通知を受け取っていたことが分かった。彼はその紙をただ机の端に置いたまま、無表情だった。
「……再契約を、どうするか」
光莉が問うと、奏和は一瞬だけ目を伏せてから、静かに答えた。
「形式としては、必要ない。ただ、君が不安なら、応じてもいいとは思っている」
「でも、それが“主従の定義を固めるためだけのもの”なら、私たちにとっては意味がない」
(……それが、あの人の答え)
誠実だった。けれど、そこにあったのは“私が不安なら”という条件。それが逆に、光莉の中に揺らぎを呼び込んだ。
(私は、“結ばれていない曖昧さ”が怖いのに)
(でも、制度に縛られたくもない)
わからなかった。自分は何を望んでいるのか。それすら見えなくなるほど、今の関係は言葉にできない形をしていた。
そんな中、光莉は祐策に声をかけられた。
「再契約、悩んでるんだろ?」
唐突な言葉だった。でも、それが返って光莉の内側を突いた。
「……どうして、分かるんですか」
「君、最近“言葉を慎重に選びすぎてる”から。そういうときの君は、いつも“本音”を閉じ込めてる」
苦笑まじりに言われたその一言が、じんわりと響いた。
ふたりで歩く廊下。柔らかな日差しが射し込む窓辺に差しかかると、祐策がふいに言った。
「“境界線”ってさ、不安を守るためのものなんだよ」
「主と従っていう枠も、上と下っていう線も、みんな“安心”するためにある。でもね、線のこっち側にいたら、絶対に“対等な対話”はできない」
光莉は立ち止まり、祐策の横顔を見た。
「君は、今その線を越えようとしてる。だから、怖い。でも……“越えた先”には、線の向こうからしか見えない景色がある」
その言葉は、光莉の胸の奥に灯をともすようだった。
祐策と別れたあと、光莉はひとり自室に戻った。窓を開けると、春と夏の間にある風が、カーテンを小さく揺らした。机の上に置いたままの再契約書類が、その風にふわりと浮き上がる。
目を閉じれば、昨日の奏和の言葉が蘇る。
――形式としては必要ない。君が不安なら、応じてもいい。
その優しさが、今は逆に苦しかった。彼の言葉はいつも、光莉に選択の余地を残してくれる。けれど、それは時に“自分がどうすべきか”という重荷にもなる。
(本当は、ただ「しよう」と言ってくれたら、私はそれで安心できたのに)
(でも、そんな安心じゃ、きっとだめなんだ)
カーテンの揺れる音に背を押されるようにして、光莉はペンを手に取り、手紙を書き始めた。
文字は震えず、言葉も止まらなかった。
――あなたが“主”としてではなく、“奏和”として私を見てくれるなら、私は境界線の先に立ちたい。
それは祈りではなく、選択の表明だった。主従の制度に守られずとも、あなたの隣に立ちたい。そう望む“私自身”の意思だった。
翌朝、光莉はその手紙をそっと奏和の机に置いた。
何も言わずに立ち去ったが、心の中には、張り詰めた弓のような緊張があった。これで、すべてが変わるかもしれない。
その日の午後、再契約の意向確認のための会議が開かれた。
学院上層部による形式的な儀式のようなもので、壇上には主と従が並び、それぞれの意思を表明する。通常であれば「同意します」の一言で終わる。
だが、光莉のペア番号が呼ばれても、ふたりは壇上に立ったまま、沈黙していた。
騒めきが走る。
そして光莉が一歩、前へ出た。
「――再契約は、行いません」
一瞬、会場が静まり返った。まるで誰もが、息を飲んだようだった。
だが、その後すぐに、奏和が隣で同じように前に出る。
「私たちは、制度の枠でつながる関係ではないと判断しました」
その言葉に、ささやきと動揺が広がる。だが光莉は、もう視線をそらさなかった。壇上から降りるそのとき、誰かが「契約解除か」と呟くのが聞こえた。
だが光莉は心の中で、はっきりと答えていた。
(違う。“自由契約解除”になっただけ。私たちは、自分たちの意思で“関係を結び直した”)
会議後、講堂を出ると、淡い夕焼けが学院を染めていた。光莉は回廊の外れで佇んでいた奏和に声をかけた。
「……終わりましたね」
「終わった、な」
「でも、“何か”は始まった気がします」
ふたりの間に、ふっと風が吹いた。風の中に、何かがほどけていくような、そんな感覚があった。
「今の私たちって、どういう関係なんでしょう」
光莉の問いに、奏和は少しだけ考えて、ふわりと微笑んだ。
「“説明できない関係”ってのも、悪くない」
その笑顔を見た瞬間、光莉は、ようやく深く息が吸えた気がした。
制度が定める形ではない。言葉で定義できる役割でもない。
けれど、それでも続いていく。信頼と、選択と、ふたりの意志が編んだ、確かな関係。
――第二十二章 終
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