第十五章 揺らぐのは、恋か依存か

 それは小さな違和感だった。ふとした視線の動き、ふいに言葉が出てこなくなる沈黙、距離が近くなるたびに生まれる鼓動の乱れ。光莉は、訓練中にもかかわらずそのすべてに戸惑いを覚えていた。

 奏和の手を握ったあの夜から、何かが変わった。確かにふたりは言葉を交わし、沈黙の壁を越えたはずだった。けれどそれ以降、彼を見るたびに胸が疼く。目が合えば心臓が跳ね、少し笑われるだけで頭が真っ白になる。

(こんなことで……集中が乱れるなんて)

 魔術式の細部を詠唱している途中で言葉を噛み、光莉は眉を寄せた。教官からの注意が飛ぶ。周囲のペアたちは目を合わせ、ひそひそと囁きを交わしていた。

 ――“最近、あの従の調子が悪い”

 ――“主に恋してるんじゃない?”

 そんな声が、聞こえた気がした。

(違う。そんな軽いものじゃない……)

 だが光莉自身、その感情が何なのか、自分の中で言葉にすることができていなかった。

 訓練後、綾里早がそっと横に立った。

「……いまのあんた、ちょっと危ないよ」

 静かな声に、光莉はドキリとした。

「“役に立ちたい”と“好かれたい”が混ざってる。気づいてる?」

「……え?」

「主のために尽くしたいって気持ちと、主に好かれたいって気持ち。方向が違うようで似てる。混ざると、見誤るよ」

 それは、誰よりも冷静な彼女だからこそ言えた言葉だった。だが光莉は、何も言えなかった。心の奥で、そのどちらも否定できなかったからだ。

 その日の午後。奏和は通常よりもさらに無口だった。訓練の終わり、光莉の方を見ようともせずに、すっと先に立って歩いていった。

(また……壁を作られてる?)

 かつての沈黙と似ている。けれど今は、ほんの少し“避けられている”ような痛みがあった。

 寮に戻る途中、今度は優里奈が声をかけてきた。

「従としての立場を飛び越えた感情って、ときに主の足枷になることもあるよ」

 それは優しさに包まれた言葉だった。だが、そこに含まれる警告の鋭さに、光莉は言葉を失った。

(私のこの気持ちは……誰のためのもの?)

 心が、揺れる。

 それが恋だと信じたい一方で、それが“ただの依存”であったなら――

 想像したくもない痛みに、胸の奥が締めつけられた。

 その夜、眠れぬまま訓練記録をめくっていた光莉のもとに、龍芽がふらりと顔を出した。

「難しい顔してんなー。テストか恋か、どっちか?」

「……どっちも、です」

 答えると、彼は意外そうな顔で笑った。

「なるほど。んじゃ、恋のほうだけにしときなよ。試験はまあ、なんとかなるし」

「軽いですね……」

「だって、重くしたら潰れるじゃん」

 真顔でそう言った龍芽に、光莉は少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「恋ってのは、“自分が満たされるため”に近づくもんじゃない。そいつの世界に近づきたくなることだよ」

 その言葉が、胸に深く落ちた。

(私は、何を求めて近づいていた?)




 翌朝、光莉は少し早く寮を出た。眠れぬ夜の中で何度も考え、ようやくひとつの決意を胸に刻んでいた。

(自分の足で、もう一度、彼の横に立ち直らなきゃ)

 彼の背中をただ見つめる従ではなく、ただ支えたいだけの従でもない。もっと深く、もっと確かなかたちで“隣に立ちたい”――その思いを、今度は逃げずに言葉にする。

 講義の後、実技訓練の合間。奏和のもとへと歩み寄った光莉は、一呼吸おいて口を開いた。

「奏和さん。少し、お時間いただけますか」

 彼は驚いたように目を細めたが、すぐに短く頷いた。

 ふたりは、人気のない中庭の奥、古い魔術碑の影に腰を下ろした。そこは、誰も近寄らず、春の終わりの風が静かに吹き抜ける場所だった。

「……私、あなたのことを“好き”なのかもしれません」

 言ったあと、言葉の意味が自分の体の中にじわじわと広がっていくのを感じた。鼓動が速くなり、頬が熱を持ち、指先が震える。

「でも、それが“従として”じゃなくて、“ひとりの人間として”なのか、まだ自分でもはっきりしないんです」

 奏和は目を伏せた。その横顔は驚きでも拒絶でもなく、ただ静かに言葉を受け止めようとしていた。

「私、あなたに必要とされたいって思ってた。でもそれって、主従の枠を越えた“依存”だったんじゃないかって……最近、怖くなって」

 風が、魔術碑の間をすり抜けて木の葉を揺らした。

「私、自分が空っぽになるのが怖かった。あなたに使われなくなったら、必要とされなくなったら、自分の意味がなくなるんじゃないかって」

 その言葉は、彼女自身の中でずっと閉じ込められていた恐怖だった。

「でも今、私は――それじゃだめなんだって、気づいたんです」

 顔を上げて、まっすぐ奏和を見る。

「私は、あなたの役に立つためだけにいるんじゃない。あなたと同じ方向を見て、自分の意志で“選んで”立ちたい。従としてじゃなく、“私自身”として、あなたに何かを届けたい」

 しばらくの沈黙の後、奏和は口を開いた。

「……私は、誰かに向けられる感情が、“役割”から始まってもいいと思ってた。むしろ、それが自然だと」

「でも君は、それを自分で超えようとしている。“従う”から、“選ぶ”へ。“尽くす”から、“伝える”へ」

「……私は君の言葉に、救われた」

 そのとき、ふたりの間に風が吹き抜け、光莉の髪がふわりと揺れた。奏和の手がその一房に触れそうになり、けれど途中で止まった。

「私は……君が怖い」

「え?」

「君が、私に踏み込んでくることが。私が、君を信じたくなることが」

「でも、それでも、私は君の声を待っていたんだ」

 初めて、彼がその本心を言葉にした。

「私は、君に触れられて、初めて“感情”を信じられるようになった。従とか主とかじゃなくて、“人”として、君に触れてほしいと思った」

 光莉は、そっと微笑んだ。そして、彼の手を優しく包んだ。

「じゃあ、もう一度言わせてください」

「私は、あなたが“怖くても”好きです。従としてではなく、“私”として」

 その言葉に、奏和はゆっくり目を閉じ、そして静かに彼女の手を握り返した。

 ――第十五章 終

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