第十二章 主なき従、従なき主

 風の通り道となる中庭のアーチを、鈍色の光が切り取っていた。昼を過ぎたというのに、空の色はどこか冴えず、春の終わりに似合わぬ肌寒さが石畳を冷やしていた。

 光莉は、学院本棟の裏手にある管理棟の前で、ひとり立ち尽くしていた。

 掌に残る微かな痺れは、先ほどの診断呪式によるものだった。術式に異常はない。魔力量も安定している。身体的には何の問題もない――そう、教官は言った。

 ただし、と続いた言葉が彼女の足を止めさせた。

「響契(きょうけい)の魔術回路が、部分的に揺らいでいる。主従の契約自体は維持されているが、再調整を推奨する。念のため、一時的な契約解除を行ったうえで、改めて再結びを行うように」

 そのとき、光莉はすぐに頷くことができなかった。

「……契約を、解除……ですか」

 口に出してみると、まるで自分の中の支柱がすっと消えるような感覚があった。

“主と従であること”が、いつの間にか彼女の呼吸の一部になっていた。それを外す。いったん壊す。

 たとえそれが形式的なものであっても――心は、そう簡単に割り切れなかった。

 だが奏和は、教官の言葉を聞くや否や、ごく短く「わかった」とだけ返し、そのまま部屋を出て行った。

(“わかった”だけ……)

 光莉は、あの声がやけに遠く感じた。あんなに無機質で、まるで「どうでもいいこと」として処理されてしまったような返事。

 その冷たさが、いまも胸の奥で凍ったままだった。

 寮へ戻ると、誰もいない室内は静かだった。契約解除に伴い、主従は一時的に別室となる。それは決まりであり、誰もが受け入れていることだったが、光莉にとってはその“距離”が、ことさら現実味を帯びていた。

(奏和さんは、どうしてあんなにあっさりと……)

 何も感じなかったのだろうか。それとも、もともとそれほど重く受け止めていなかったのか。

(……違う。あの人は、そんな人じゃない)

 それだけは信じられた。噂に晒され、沈黙が続いても、それでも自分を選び返してくれたあの目を、あの声を、覚えている。

 けれど、それでもいまは――何も届かない。

 その夜、光莉は初めて“指示を待たない”時間を過ごした。

 部屋の隅に整えられた机。そこに置かれた教材と魔術式の紙。どれも、誰の指示もなく手に取れる。けれど、何をどう進めればいいのかが、途端にわからなくなる。

(私は……いつも“指示”に従っていただけだった?)

 心が空白になる。誰かの意志に沿って動いてきたことが、あまりにも当たり前になりすぎていた。

(“従”じゃない私って……何ができるんだろう)

 思考が止まり、時間だけが流れていった。

 翌日、学院では個別実技試験が行われた。ちょうどこの時期に合わせて、すべての候補生が単独で実力を示す場が設けられるのが恒例だった。

 だが今回の光莉は、“契約中断中”という理由から、個人枠での参加となった。

 試験内容は、模擬結界内での単独行動による魔力障害の解除および帰還。

 試験開始の合図が鳴る。結界が開き、光莉はひとりその中に足を踏み入れた。

 魔力の流れを読み、構造を把握し、対処する。それはこれまで何度も“主の支援”としてこなしてきたこと。だが、今は誰もいない。

(誰のためでもない。自分の意志で、判断して、動く)

 最初の障害は、魔力の乱流だった。風のように流れる霧を読んで、構成魔素を見極める。次に現れたのは視界幻術。脳に訴える幻影に惑わされず、術式の中枢を探り当てる。

 そして最後に、動力核の制御――そこまで来たとき、光莉の意識にふとひとつの思考が浮かんだ。

(“奏和さんなら、どう動くか”)

 その瞬間、術式が乱れた。わずかな迷いが、魔力制御に影を落とす。

(だめ、今は……私が判断しなきゃ)

 声に出さずに、自分に言い聞かせた。

(私は、もう従じゃない。今は、“私自身”なんだ)




 魔力制御の深呼吸を一つ、光莉は短く整えた。手のひらに溜めた術式の光が揺れ、ふと心の中で小さく震えた“誰かの背中”を振り払うように、指先に力を込める。

 術式を組み直す。解析は迷いなく、力の流れは素直だった。誰かに頼るのではない。ただ、いまこの瞬間、自分で選び、動いている。その感覚が、少しだけ胸を満たしていった。

 魔力障壁を破り、光莉は無事に帰還を果たす。結界が解除され、教官たちが一斉に記録に目を落とす。評価は上々。だが光莉の心に浮かんだのは、自分の中に芽生えた“確信”だった。

(私は、もう“指示待ち”の存在じゃない。そう、胸を張って言える)

 それでも――

 試験を終えたあとに戻る自室の扉を開けたとき、その静けさにどこか寂しさが滲んだのもまた事実だった。

(今の私は、従じゃない。……でも、主も、いない)

 その夜。遠征任務から戻った奏和が学院に戻ってきた。

 光莉は、報告を終えた彼の姿を寮の玄関先で見つけた。白い外套にほこりをまとったままの背。まるで風に切られるようにすらりと伸びた肩。その姿に、光莉の心が自然に歩き出した。

「……おかえりなさい」

 小さく、それでもはっきりと声にする。

 奏和は振り返らず、少しだけ足を止めた。

「試験、どうだった?」

 その問いは、まるで少し遠くからの声だった。

「成功しました。ちゃんと、ひとりで」

 そう返すと、奏和はゆっくりと振り返り、正面から光莉を見つめた。しばらく視線が交差し、何も言わない時間が続いた。

「……契約を戻そう」

 それは告げられるというより、確認するような声だった。

 だが光莉は、一歩だけ前に出て言った。

「もう一度、選ばれたいです。従としてではなく、“私”として」

 その瞬間、風が吹いた。春の終わりにしては冷たい風だったが、それでも光莉の声を曇らせることはなかった。

 奏和は、まるで何かを確かめるように光莉を見つめた。過去を、迷いを、痛みを。すべて含めて、いま目の前にいる彼女の“姿”を。

「では、選ぶ。従ではなく、君という“対話者”を」

 その言葉は、契約の再締結などという形式以上に、光莉の胸を満たした。

「ありがとうございます」

 頷きながら、光莉は心の中でつぶやく。

(私は、もう誰かに従うだけの存在じゃない。あなたと“並ぶ”ために、ここにいる)

 ふたりの間に再び結ばれる“響契”の紋が、淡く光った。以前のそれとは、微かに異なる軌道を描いていた。

 もうそこには、“主と従”という単一の構図だけでは収まりきらないものがあった。

 ――それでも、かまわない。

 言葉にならない想いが、ふたりの間にやさしく響いていた。

 ――第十二章 終

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