第二章 従の矜持

 朝日が窓辺のカーテンを淡く染めていた。灰青の光が、天井と床の境界を柔らかく照らす。光莉はその光の中、見慣れぬ天井をじっと見つめていた。昨日までとは違う天井。違う空気。そして違う、もうひとつの気配。

 同じ部屋に、奏和がいる。

 その現実が、ようやく自分のなかに沈んでいくのを感じながら、光莉はそっと息を吸った。重たい空気だった。決して息苦しいという意味ではない。ただ、無言の存在感が、部屋に張りつめたような圧をもたらしていた。

 主従ペアに課される“同室”の義務。それは主と従が生活をともにすることで、より深く感性を通わせるための制度だと説明された。だが実際のところ、それが意味するのは「常に、相手の視線と意識の中にいる」ということだった。

「……おはようございます」

 光莉は意を決して声をかけた。寝台の反対側、机に向かっていた奏和が、ほんの少しだけこちらを向いた。だが返ってきたのは、言葉ではなく小さな頷きだった。

(また、それだけ……)

 胸の中にうっすらと、落ちる音がした。あまりに薄い反応。それでも、光莉は無理に笑みを浮かべながら着替えを始めた。これが、彼の日常なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。

 それに――選んだのは自分だった。

 どれだけ不安でも、逃げたくないと自分で決めた。だからこそ、受け止めるべきだと、理屈では分かっている。

 けれど、心のほうはそう簡単に順応してはくれなかった。

 学院の朝の訓練では、主従ペアによる基礎連携演習が課せられた。模擬的な魔力障壁の展開、相互感知のタイミング確認、そして主が指示を出さぬ状況での“従の判断力”が、特に重点的に見られる内容だった。

 光莉は、何をどうすればいいのか分からなかった。

 奏和は何も言わない。何を考えているのか、どこを見ているのか。演習開始の合図が鳴っても、彼は変わらず無言のまま、指を一本立てて構えただけだった。

(これは……行け、ってこと?)

 光莉は恐る恐る、障壁エリアへ踏み出した。魔力の流れを感じながら、彼の背中がどう動くかを気にする。それでも、不安は拭えなかった。

 途中、障壁のひとつが急に方向を変え、彼女の側へと迫った。とっさに魔力を凝縮して対応したものの、うまく反応しきれず、身体がふらついた。

「っ……!」

 地面に膝をつく。その瞬間、何かがすっと光莉の肩に触れ、バランスを戻すように支えた。振り返ると、そこにいたのは奏和だった。

 だが彼は何も言わず、ただ目で「立て」と告げた。

 光莉はその目を見て、思わず唇を噛んだ。悔しさと、自分への怒りと、何より「言葉がもらえない」ことへの焦りが、胸の内で暴れた。

 演習終了後、二人は黙ったまま教官室へ向かった。評価は可もなく不可もなく、ただ「今後の連携に期待」とだけ告げられる。

 光莉は、言葉が喉元まで出かかっていた。

(聞きたい、訊きたい、でも……)

 そんな彼女の背を、龍芽がぽんと軽く叩いた。

「おーい、相変わらず無口主さまとぎこちないペアっすね。まぁ、そのうち慣れるって。ほら、あの優里奈ちゃんとこも最初はすれ違い凄かったって聞くし?」

 光莉は曖昧に笑ってごまかした。その後ろでは、優里奈が奏和をちらりと見ながら、「あの子、本当に何もしてもらってないんだな」などとつぶやいていた。

 ――自分が役に立っていないことは、他人の視線の中で、最も鋭く思い知らされる。

 寮へ戻った夜、光莉は思い切って声をかけた。

「奏和さん……私、従として、何を求められてるんでしょうか?」

 奏和は、書類を整理していた手を止めた。だが、すぐに言葉は返ってこない。沈黙。光莉は耐えきれず、声を上げた。

「今日だって、何も言われなくて、どう動いていいかもわからなくて……! 私、ただの命令待ち要員じゃないって思いたいけど、でも、見えてこないんです!」

 しばらくの沈黙ののち、奏和はようやく口を開いた。

「……従は、命令をこなす者ではない。私の届かないものを、拾う者だ」

 その声は、静かで冷ややかだった。だが、その奥には確かな芯があった。

「私は、自分で全てを見られるとは思っていない。だからこそ、従を選んだ。君に、私の見えないものを見てほしい」

 光莉は息をのんだ。その意味を、まだすべては理解できない。けれど、自分に何かを任せようとしてくれていること、それだけは確かに伝わった。

「……それなら、もう一度、チャンスをください。次は、あなたの意図を感じ取ってみせます」

 その言葉に、奏和はわずかに目を細めた。

「言葉にしなくても、伝わるようになっていくといい」

 その微かな変化。ようやく、少しだけ彼が“こちらを見ている”と実感できた気がした。

 光莉の胸に、名もなき誇りが芽生えた。「従だから従う」ではなく、「従として、誇りを持って主を見る」――その始まりが、ようやく見えた。




 夜は深く、学院の灯りもほとんどが落ちていた。窓の外には春の星空が広がり、風が梢をゆらりと揺らしている。そんな静けさの中で、光莉は一人、寮の談話室に佇んでいた。木製の椅子に腰かけ、湯気の立つカップを手にしても、心はまだ熱を持てずにいた。

「自分を責めすぎないで」

 ふいにかけられた声に、顔を上げると、そこには綾里早が立っていた。白い部屋着姿の彼女は、静かに微笑みながら、光莉の向かいに腰を下ろした。

「聞いてたの? さっきの……」

「寮全体が聞いてたと思うわ。あれだけ大きな声なら」

 そう言って綾里は、少しだけ目を細める。

「でも、光莉が本気でぶつかったの、初めて見た。奏和に」

 光莉はうつむいた。

「怖かった。でも、黙ってたら、きっとずっと……」

「分かるよ。私も、最初は何も言えなかった。主が正しいって思い込もうとして、でも、心は納得してなくて。気づいたら、自分の中で押し潰されそうになってた」

 綾里の言葉は柔らかく、だが芯があった。彼女もまた、迷いの中を歩いてきたのだと、光莉は初めて知った。

「奏和の言葉は、感性を通して拾うものよ」

 綾里は続ける。

「彼の言葉は少ないけど、そのぶん一言に重みがある。その重みの中に、彼の本当があると思う」

 その夜、光莉は布団に入ってもなかなか眠れなかった。だが、心の中には確かなものが残っていた。「私の届かないものを、拾う者だ」という奏和の言葉。それは命令でも指示でもない。託された何か。ならば、それを受け取る強さを、自分も持ちたいと思った。

 翌朝、光莉は早く目を覚ました。普段より早い時刻だったが、彼女は迷いなく制服に袖を通し、髪を整えた。鏡の前で、自分の目をまっすぐに見据える。

(私は、従として、彼の隙間を埋める)

 それが今の、自分なりの答えだった。

 食堂では、すでに奏和が席についていた。例によって無言で朝食をとっていたが、光莉は躊躇わず彼の正面に座った。

「おはようございます」

 その声は、昨日よりも少しだけ明るかった。奏和は一瞬だけ目を上げ、そして、頷いた。

 それだけのことだった。それだけなのに、光莉の胸には小さな火が灯った。理解し合えたわけではない。言葉を交わしたわけでもない。だが、確かに昨日よりも“近づいた”。

 その日、二人は補習任務を命じられた。昨日の演習の失敗を踏まえた再実施だ。今度は、魔力の乱れを感知し、障壁展開と回避の判断を従が行う形式。従に求められるのは、状況を読み、主の動きを“補う”ことだった。

 光莉は緊張していた。だが、昨日とは違う。今は“見よう”としている。彼の意図を、目の動きを、手のわずかな変化を、言葉のない言葉を。

 障壁が動いた瞬間、奏和の左手がわずかに震えた。光莉はそれを察知し、左側の展開を先んじて防いだ。障壁が砕ける寸前、彼女の防壁が間に合い、魔力の波を見事に受け止める。

 教官の評価は「良好」。だが、それ以上に――

「見えてた」

 奏和がぽつりとつぶやいた。その言葉は、褒め言葉ではなかった。ただの事実。それでも、光莉にとっては、何よりも嬉しい言葉だった。

(私は、見ようとして、見えた)

 それが、“従の矜持”の始まりだった。

 ――第二章 終

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