七色スイッチ
「千鶴ちゃん、うち明日休みやから。よろしくね」
夢子さんは仕事の片付けをしているわたしに声をかけてきた。京都生まれの夢子さんの話し方はいつも優しく聞こえてしまう。実際に夢子さんは優しい。ちなみに夢子さんっていうのは渾名で、いつもほんわりしているからわたしを含めた同僚からそう呼ばれている。本名は内緒。
「ええ、聞いてます。特に変ったことはなかったですよね」
「そうやね、あったら落ち着いて休めへんわ」
「どこかへ行くんですか」
「うん、ふーちゃん連れてな、海や」
夢子さんは結婚していて、ふーちゃんというのは幼稚園の年長組の娘さん。写真を見せてもらったことがあって、頬っぺたがマシュマロみたいに柔らかそうだった。一緒に夢子さんと旦那さんが映っていたから、他の人が撮った写真なんだろうと思う。家族がとても幸せそうで羨ましかった。
夢子さんからそんな話を聞いていたせいか、会社から家に帰る途中で家族連ればかり目に付いてしまった。そういえば、子供達は当然夏休みだし、会社も夏季休暇の時期。予定がないのが少し淋しいけれど、わたしは仕事が忙しかったから、いつもどおり出勤していた。
わたしが住んでいるマンションの前の一軒家。車が停まっていて、中から小学生くらいの子供が出てきた。手にはまだ空気を抜いていない浮き輪を抱えて。日に焼けて赤くなった顔に今日一日の愉しさを貼り付けて。
「……海、ですか」
わたしは部屋に入ってから、お気に入りの白い花模様が入ったグラスに麦茶を注いで、窓を開けた。夏の風が入ってきた。
そういえば、わたしが家族と海に行ったのが、遠い昔のように思えて。毎年、海には連れて行ってもらってた。決まって茅ヶ崎の海岸。夏の暑い日差しとか、ゴミが埋まっててお世辞にも綺麗とは言えない砂浜とか、渋滞に巻き込まれていた帰り道の車の中とか。海は濁っていて、口の中に入ってくる海水はしょっぱかったのと苦かったのを憶えてる。
小学校の低学年の頃か、それとも幼稚園の頃。海岸を動き回っていたわたしは、そのうちに元いた場所から離れすぎて迷子になってしまった。どのパラソルも同じような模様に見えて、海だってどこも同じような波をつくっていて、人だって全員が同じに見えてしまって。わたしが泣きながら歩いていると、知らないおばさんがわたしを管理事務所のようなところへ連れて行ってくれた。わたしは自分の名前を言っただけで、あとは泣いていた。放送でわたしが迷子になったことが流れてしばらくして、お母さんとお父さんが迎えに来てくれた。
自分の娘が、海で行方不明になって、お母さんとお父さんはどんな気持ちだっただろうか。多分、そのときのわたし以上に不安で、泣きたくなって、あちこちを探し回ったに違いないんだ。いままでこんなこと考えたことなかったのに、どうして思いついてしまったのだろう。
結局、帰るときになってもわたしは泣き止まなかった。身体中に砂がついてしまっていたし、髪の毛は海水をちゃんと洗い流さなかったからガサガサだったし。それよりも、それよりも、ひとりになったときの恐怖が残っていたのだと、いま考えれば思う。でも、わたしは、その時のわたしに言ってあげたい。あなたよりも、お母さんとお父さんのほうが、怖かったんだよ。
泣き止まないわたしにお手上げだったからか、好きなものを買ってあげる、とお母さんが言ってくれた。子供って現金なもので、わたしはすぐに泣き止んでしまって。そのまま近所のおもちゃ屋さんに入って、前から欲しかった家付きの人形セットを買ってもらった。色々なところが取り外せる、童話の中から出てきたような家と、動物が洋服を着た人形が幾つかセットになっているもの。
わたしは人形セットで夢中になって遊んでいた、らしい。でも子供のことだから、すぐに飽きてしまって。どれくらいだろう、小学校を卒業するときくらいかな、その頃にはもう、人形セットはなくなっていた。誰かにあげた覚えもないし、わたしが棄てた記憶もない。だから、多分、遊ぶだけ遊んで飽きてしまった人形セットを、お母さんが棄てたのだと、思う。娘のために買ってあげて、それが飽きられて淋しそうに部屋の隅に放られている人形セットを見ているのはお母さん。娘から忘れられた人形セットを棄てようかどうか迷っていたお母さん。人形セットを棄てることを娘に言わず黙ってゴミ袋の中に入れて収集所へ持っていったのも、お母さんだったはず。
わたしは急にお母さんの声が聞きたくなって、実家へ電話をかけた。いきなり「ごめんね」って言われたお母さんは受話器の向こうで吃驚していたみたいだけれど、「どうしたのよ」と笑いながら言ってくれた。本当は「ありがとう」って言いたかったのに、恥ずかしくて言えなかった。
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