第4話:お使い

丘の上の小さな公園に続く坂道を、松倉はゆっくりと登っていた。

夕暮れに染まり出した空の下、遠くから子どもの笑い声が聞こえるような気がする。だが、公園は人気がなく、滑り台とベンチだけが静かに佇んでいる。


その一角に、今は使われていないような古びたポストがあった。


松倉は封筒を取り出し、もう一度だけ見下ろした。

差出人も、宛名も書かれていないままのそれに、そっと視線を落とす。


「さよならを、ありがとうに」


封筒に書かれている、その一文が、妙に胸に引っかかっていた。


「・・・お届けにあがりました」


誰に言うともなく呟きながら、松倉はポストに手紙を差し入れた。


カコン、と軽い音を立てて、手紙はポストの中に消えていった。


松倉はしばらく丘の上に佇んでいたが、日が暮れる前に灰間堂に急いで戻った。


「もう遅いから、今日はそれでいいかしら?」


松倉が「手紙、届けてきました」と告げると、まるでそれが当然の流れだったように、あっさりとそう言った。


「・・・はい。じゃあ、また明日、来ます」


「ええ、楽しみに待ってるわ。帰り気をつけてね」


松倉は軽く笑いながら頷き店を出た。


そして、カメラを取り出して店の外観を帰る前に数枚撮影した。


どこか懐かしさを感じさせる木造の店構え。

だが、シャッターを切るたびに、レンズ越しのそれは少しずつ現実感を失っていくような奇妙な感覚があった。


事務所に戻ると、萩原がコーヒーを片手に訊いてきた。


「・・・で、灰間堂ってどうだった?取材できたの?」


松倉は荷物を下ろして、椅子に深く腰を沈めながら肩を回した。


「いや、今日は手紙を出すっていう仕事だけして終わった」


「・・・え?」


「取材は明日になった」


「へ?・・・手紙を出してこいって頼まれた・・・の?」


萩原が呆れたように眉を下げる。

松倉は苦笑しながら首をすくめた。


「まぁ、何か面倒になってきた気はするけど・・・そういうこともあるだろう。ここまで来たら、最後までやるさ」


「老人の気まぐれかな?無駄に長話されたりで、何日間か取材したこともあったしね」


「そうだな。残り数件だし、スケジュールも余裕があるし。明日で大丈夫だ」


「うん。頑張れ取材班。俺はサイトのロゴとファビコン案でも詰めておくよ」


「頼んだ。助かるよ」


二人の間に、やや脱力した空気が流れる。

けれどその向こうに、またひとつ、何かが待っている気がした。


そう思いながらも、松倉はカメラバッグに手をやり、ふっと息をついた。


翌日昼過ぎ。

晴れ渡った空の下、松倉は灰間堂へと向かって歩いていた。


昨日と同じ道、昨日と同じ街並み。

けれど、どこかほんのわずかだけ、空気が違う気がする。


角をひとつ曲がったとき、不意に視界に入った。


昨日、道を教えてくれた少年だ。

電柱の根元に腰を下ろし、こちらに気づくでもなく、ぼんやりと空を見上げている。


「・・・よう。また会ったな。昨日はありがとう。」


松倉が声をかけると、少年は振り返って軽く笑った。


「うん、まただね」


素っ気ないようでいて、どこか懐かしさを感じる声だった。


「今日もあそこ行くの?」


「まぁな。本当は昨日で終わる予定だったんだけどな。どうしてか、頼みごと、ってやつをこなしててな」


そう言うと、少年はほんの少しだけ、眉を下げた。


「やさしいんだね、おじさん」


「いや・・・仕事でやってるだけだよ」


「ふうん・・・でも、何かいいんじゃない?」


少年と軽い会話をしながら、松倉は通りの曲がり角に進んだ。


振り返ると少年はふっと立ち上がって、また空を見上げているようだった。


灰間堂にたどり着き、戸を開けると、昨日と変わらない空気が松倉を包み込んだ。


薄暗く、木の匂いが染みついた空間。

時間の流れがわずかに違うような錯覚すら覚える。


カウンターの奥に座っていた老婆は、松倉の姿を見て、ゆっくりと顔を上げた。


「今日は早いのねぇ」


「ええ、なんとか時間を取れたんで。さて、今日は何をしましょうか?」


冗談めかして尋ねると、老婆は口元にうっすら笑みを浮かべた。


「あなた、昨日のお手紙、ちゃんと届けてくれたんでしょう?」


「はい、丘のポストに。なんだか静かで、いい場所でした」


「そう・・・ありがとう」


「いえいえ、で早速ですが、取材をさせていただき・・・」


と切り出したところで、老婆はそっと奥に手を伸ばし、古びた桐箱を引き寄せた。


その中から、一枚のモノクロ写真と、小さな布製のお守りを取り出す。


「これは、もう亡くなった大切な人のもの。ずっと手放せなかったけれど、そろそろ、手放してもいいかなって・・・思えてね」


「そう・・・ですか」


そう返しながらも、松倉は心の中で小さくため息をつく。


写真の中には、若き日の老婆らしき女性と、笑顔の青年。

二人の表情には、はっきりとした「過去の幸福」が焼き付いている。


老婆の声が、期待と穏やかさを含んで続いた。


「これをね、灰間神社に納めてほしいの。きっと、あの場所なら、静かに休ませてくれると思うから」


・・・はい、また来た。


「えっと・・・つまり、俺が、今から神社に行って、納めてくると」


「そうねぇ。お願いできるかしら?」


はいはい、今日も安定のお使いだな。こうなったら仕方ない。


「わかりました、行ってきます。任されました、灰間堂広報担当です。でも今から行って帰るとなると本日は時間がないので、明日取材をお受けいただけますでしょうか?」


苦笑交じりに軽口を叩きながらも取材の念押しをした。

そして、松倉の手にはしっかりと包まれた桐箱の中身が収まった。


「ええ、ありがとう。明日ですね。お気をつけてね。神様って、案外人間くさいのよ。気まぐれで、優しくて、ちょっとばかり怒りっぽい」


「・・・ああ、俺の知ってる誰かみたいだな」


小さく返して、松倉は灰間堂を後にした。

外に出ると、少し曇り始めた空の下で、神社までの道がやけに遠く感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る